随筆(2)[ 公衆便所一考 ]


  [ 公衆便所一考 ]       彩木 映






 


あなたは、公衆トイレの手洗い場で、蛇口から水が流れっぱなしになっているのを、見つ
けたことはおありだろうか? 見つけたとき、あなたは咄嗟に蛇口を止めるだろうか? 
ある出来事をきっかけに、私は止める癖が身についてしまっている。

私が以前勤務していた職場は、様々な人が出入りする公共色の強い職場だった。なの
で私は、そこのトイレでいろんな人を見かけた。
トイレットペーパーをごっそり盗んで行くヤツ。非常用ベルを鳴らして逃げて行くバカタ
レ。職員でもないのに歯を磨いていく変人。スッピンで来て化粧をイチから始め、30分も
かけてみっちりフルメイクをするお姉ちゃん・・・。
中でもいちばん悪質だなぁと思ったのは、手洗い場の水の出しっぱなしだ。
何十回もあった。二週間に一度は手洗い場の水の出しっぱなしに遭遇したと思う。
何てことをするのだろうと私は思った。
厭な気持ちになりながら、見るたびに蛇口をひねって水を止めたものだ。
もったいない。資源の無駄遣いだ。
水の出しっぱなし、という行為は、トイレットペーパーを盗む、なんていう他のイタズラより
も、余程タチが良いと思えてしまう。
極端に言えば、社会全体に被害をもたらそうとしているような悪意のあるイタズラに見え
るのだ。

ところがある日、私はついに目撃した!
蛇口をひねったまま、トイレを出て行くその犯人を。
それは、腰が曲がり、杖をついた、ショッピングカートによりかかるように歩く、よろよろ
のおばあさんだったのだ。
私が彼女の背後でキュッと蛇口を止めると、おばあちゃんは気づいて振り向いて言っ
た。
「あらあら、ごめんねぇ、杖をついてるとついつい忘れましてねぇ。すいませんねえ」
・・・そうだったのか。蛇口をとめない犯人は、お年寄りが多いのかもしれない・・・。
これはカルチャーショックだった。
そうか、お年寄りじゃ、しょうがない。歩くだけで精一杯な方も多いのだもの。手を洗うだ
けでもひと仕事。荷物と杖を置いて、手洗い場にもたれかかりながら何とか手を洗い、再
び杖と荷物を持つ。若者には一瞬の動作でも、お年寄りには一苦労で時間のかかる動
きだ。忘れ物をする人もとても多い・・・特に、帽子や日傘を忘れる人が多かったのを思
い出す。
そんな老人の一連の動作の中で、蛇口を閉める、という動作が頭の中から抜け落ちる
のも、無理のないことだと思ってしまった。

公衆トイレに関しては、様々な思い出がある。
何といっても、トイレは、毎日何度も通う馴染み深い場所である。一般家庭の中でも、ひ
とりきりになれる憩いの間として利用している方々は多いのではないだろうか。
トイレの中で新聞や本を読む習慣のある人はきっと多いはずだ。一家に一人、といって
もいいかもしれない。
私の母も、トイレにたてこもることを愛していた。母は、トイレに吊るしたカレンダーに、
日々の所感を書き連ねていたものだ。おかげで友達が遊びに来るたび、私は恥ずかし
い思いをしたものだが。
公衆トイレも同じだろう。都会の中で、独りきりになりたい時の隠れ家の役目を果たしてく
れる。思えば私は、外のトイレの中でいろいろなことをしてきたものだ。服を着替えたこと
もある。破れたストッキングを履きかえることなんて、しょっちゅうだ。歩きながら涙が止
まらなくなって、トイレにかけこんで涙をぬぐったこともある。入念にメイクを直すこともあ
る。女性ならみんな、同じだろう。

そう。トイレという場所には、忘れられない思い出がなんていくつも染み付いていることだ
ろう・・・。
青春の一ページが、公衆トイレの中にある。
言葉にすれば笑えてしまうことだけれど。
でも確かに、トイレは青春の舞台のヒトコマを彩ってくれたのだ。

合コンで親しくなった男の子たちと、グループでキャンプに行った想い出がある。
当時、私にはお目当ての男の子がいて、友達の女の子も彼を狙っていた。私たちはライ
バルだった。
キャンプの夜、怪談をしている最中、ふとトイレに行きたいと彼が言い出した。
「やーん、私も連れてって! 一人で行くの、こわいもん」
と、ライバルの彼女は言った。これは負けていられなかった。
「私も行くぅー!」
結局、何人もが連れ立って、キャンプ場の暗闇の中、トイレに行くことになった。
トイレは、男女は流石に別だったが、水洗ではなく汲み取り式だった。最初に入ったのは
お目当ての彼と、ライバルの彼女。
しんしんとふける夜闇の中だった。
二人の放尿の音が、ジャバジャバジャバ、と、なんともマヌケに響き渡った。
思わぬ現象に、しまったっ! と思ったが万事休す。
私も、背に腹は変えられず、気のある彼が待っている中で、コトを済ませたものだ。ボッ
トン便所で音を出さずに放尿するのは至難の業である。
それ以降、私は少し利口になった。
以来何度かキャンプに行く機会はあったが、男性との連れションをする愚は二度と犯し
ていない。

ああ・・・公衆便所! みんなの便所!
公衆便所とともに、私たちは成長してきたのだ。中学、高校のトイレ。私たちにとって、ト
イレは覚え始めた身だしなみを繕う場であり、ある人たちにとってはリンチをしたり、され
たり、タバコを吸ったり、その吸殻をトイレの天井の裏に隠したり・・・今は昔、になってし
まった学生時代のトイレたちは、なんてたくさんの私たちの想い出を吸い込んでいること
だろうか。

ところで、私にはひとつ、公衆便所について謎に思っていることがある。
それは、駅の公衆トイレの、あの落書きの多さである。
なぜ人は、トイレに落書きをするのだろうか?
もちろん私だって、落書きくらい、したことはある。
机の上に、教室の壁に。落書きの多い喫茶店、なんてのも理解できる。
けれどトイレの落書きは理解できない。ううっという感じ。もう、いったい、どうしてそんな
ことを・・・???
けれどトイレの落書きは、昔々からある文化だ。
「○○くん、いつまでも好き★」とか、「××くん、あたしをふりむいて。△△子が好きだっ
て分かってる。けどあたしのことを見てください。お願いふりむいて」・・・なんて、丸文字
で連綿とポエムが書き連ねてあったりとか・・・。
どうして? ねぇ、みんなどうしてあんなクサイ場所で詩人になるのー。
だけど、トイレの落書きは万国共通なのだろう。その落書きの心理について研究した本
でもあれば、読んでみたいものだと私は思っている。

                                       (2002年2月3日)


                        

 
※この随筆は「随筆(0)・2002年2月3日」の文章を、加筆訂正したものです。






















トップへ
トップへ
戻る
戻る


次へ