小説(長編1)[ 生誕祭 第1話 ]








                              





運動神経には、自信があったはずだ。
なのに、何故、6年の間に、2回も交通事故を起こしてしまうのか。
侠気には、自信があったはずだ。
なのに、何故、自分のオンナの家族に、頼りにされるどころか、人殺し呼ばわりされてしまうの
か。
楽天主義には、自信があったはずだ。
なのに、何故、彼らが自分をクズ呼ばわりするその声に、脱力してしまうのか・・・。

言葉にするなら、そんな内容になったかもしれない。
けれど、言葉として自分の意識をとらえることが出来るほど、醒めた意識を持てるはずもなか
った。
雪美は、死にかけているのだ。
                     
「ちょっと、あなた?」
だみ声。ゾウのような皮膚。ヒゲ・・・いや濃いうぶ毛か。
「ちょっとぉ、聞こえますか?あなたねえ、病院やからねえ。携帯電話は切ってくださいねえ。公
衆電話があるでしょ?」
その、つっけんどんな物言いが、自分に発せられていることに、ようやく気がついて、たかのよ
う鷹野陽は、目の焦点を相手に合わせた。
ゾウは、人間で、年配の不細工な看護婦だった。
今の陽にしてみれば、ゾウでも看護婦でも、同じことだったが。
曖昧に目をそらし、視線を右手に落とした。携帯電話の液晶がオレンジ色に光っていた。表示
されているのは、実家の電話番号。
                                  
「すいません・・・」
謝ったのか、どうか。ただ、言われるままに、電源を切った。
「電波は、病院の機械に、悪いって、あなたも知ってるでしょう?人の命にかかわることですか
らねえ、必ず切ってくださいね。困りますからね」
──ここはロビーだ。電源を入れても問題はないと、どこかで読んだ記憶がある。
勉強不足は、そっちじゃないのか。起こるのかどうかも分からない、医療機器の誤動作の不確
定な確率と、この真夜中に病院のロビーに青ざめた顔で待機している人間に、無慈悲な大声
で事務的な注意を与え、相手を余計に興奮させる確率と、どちらが高いのか。大切な人の、命
の瀬戸際に立っているのは、ゾウ女ではなく、自分なのだ。
反発する声が、頭の隅にあった。が、それも明瞭な言葉として、意識するのは今の陽には無理
だった。
陽に出来るのは、この鬱屈し、枯れ果てたゾウ女から、一瞬でも早く逃げることだけだった。
陽は、集中治療室の方角へ、反射的に向いた足を、ふと止めた。雪美の家族が、集中治療室
の前の廊下にいるのだ。
陽に、そこへ行くことは許されていなかった。
病院の出口へ向かった。宿直の老人が、青白い蛍光灯の下、視界の隅に陰気に映った。  
                                       

雪美が救急搬送された、市立病院の外壁は、古ぼけた黄土色だった。
六年前のあの時から、変わっていない、古ぼけた黄土色だった。
陽は既視感にとらわれていた。
目立たないよう、階段に端に座りこみ、黄土色の壁から、右手にまだ握っていた携帯電話に目
をうつした。
──親に電話をして、どうしようというのか。
陽の車は大破した。が、自分は、とりあえずかすり傷で済んだ。
夜中の三時に、共働きの両親の眠る実家に電話をかけ、たたき起こして連絡を入れる必要が
どこかにあるか?
・・・ないやろな。
陽は息を吐いて、電話を、上着の右胸のポケットにすべり落とした。
厳密に言えば、連絡を取る必要があることは、理解はしていたのだ。
「雪美に、何てことをしてくれたんや!おまえは、誰やねん!」
ただでは済ませんぞ、と言われた。当然のことかもしれない。
雪美の父親の言葉は、当人は意識はせずとも、今後、必然的に起こりうる、賠償問題を連想さ
せずにはいられなかった。
いずれ、親に迷惑をかけることに、なるだろう。
分かってはいたが、今はそこに意識を向けたくはなかった。

陽の意識は、飛び出して来た犬をよけようとして、ハンドルを切った、その後の衝撃に、戻って
いった。
頭から足首まで、流れる血で染まった雪美の顔。かすかなうめき声。
──雪美。
雪美は、東側の部屋にいる。
病院の外庭を歩いてみたが、フェンスが行く手を遮り、陽はゆっくりとその場にへたりこんだ。
──雪美。
秋の虫の、リリリ、リリリ、という声が、木霊のように聞こえる。
病院の裏は、道路をへだててマンションだが、マンションの裏に、畑があるのだ。
リリリリリリ・・・
秋の空気は澄み、夜の空は黒く、病院の壁は黄土色。
五感に触れる現実の感触は、何もかも、陽には遠かった。
6年前のあの日と同じ、果てしのない遠さだった。
陽の意識は、急速に沈んでいった。
                              
コンクリートの上で、眠りこけたせいか?首と背中が、痛かった。
「兄ちゃん、起きた?」
どこかで、聞いた声だ。
6年前の事故以来、何度となく見てきた、夢の中で聞いた声に似ていた。
陽は、目を開けた。視界に飛び込んできたのは、病院のロビーだった。奇妙だ、と思った。眠っ
たのは、フェンスの傍らではなかったか?
「兄ちゃん、大丈夫?」
いつもより、声がかすれている。澄んだ子供の声ではない、若いが変声期を終えた、少年の声
だ。
「兄ちゃん。──」
もちろん、それは遼だった。
色白の、硝子玉のような茶色の目をした、静かな、遼だ。
10歳で、死んだ・・・。
遼は、陽が横たわっていたソファーの、向かいのソファーに腰掛けて、陽を見つめていた。
「遼」
陽は呼びかけ、そして言葉を失った。
                                  
硝子玉の瞳が、見つめ返している。忘れていた・・・と思った。
夢の中で、遼とは数知れず、話していた。この弟のことは、決して忘れることはないと、陽は思
っていた。
けれどやはり、忘れていたのだ。遼と話す時、いつも感じていた、この流れる清涼な空気を。清
廉と、研ぎ澄まされた静謐を。
何故か知らず、遼には、周囲の空気を澄ませる才能があった。
彼の、10才という、年齢のせいだったかもしれない。何事もなく大人になっていれば、いつしか
失われていった、子供時代の魔術だったかもしれない。
それとも、遼に終生、与えられるはずだった、天恵だったかもしれない。
今となっては、分からない。分からない、はずだったのだが。
「──大きくなったな・・・?」
「兄ちゃんは、変わらんね」
遼は、照れたように、唇の両脇の頬に、えくぼを浮かべて、笑った。
享年、10才。今の遼はしかし、高校生には見える。
陽は、自分の記憶に、感動した。
この空気。この、笑い顔。遼が順調に育っていたとしたら、この少年は、まさに遼だ。
そうだ。あれから6年。16才の遼。
何と明瞭に、自分は弟の姿を記憶していることか。

                                                    

   
・・・もちろん、これは、夢だった。
夢の中でしか会えない弟は、いつも10才の子供のままで、年を取ることはなかった。が、陽に
は感じることの出来ない別の次元の中で、遼もまた、年を取り続けているのかもしれない。
そう思うことは、陽に思いもかけない、幸福感をもたらした。
「俺、変わらんか?」
「うん。変わらんな。茶髪で仕事しとん?」
陽は、苦笑した。
「美容師やからな。まあ、染めるんが普通やで」
「でも、兄ちゃんは、短いね。男のヘアスタイリストなんて、皆ロン毛かと思っとった」
「ああ、いやァ、男はパシッと・・・」
指摘された自分の短い栗色の頭に、思わず手をやりながら、陽はふと、奇妙な違和感を覚え
た。
遼は、こんな物言いをしたか?
茶色の硝子玉の瞳の視線は、陽からそらされていなかった。
それは決して、厭な感じのする視線ではなかったが・・・・
「遼、お前って──」
何かを言おうとして、それが何だったのか。
陽は、飛び上がり、別の言葉を叫んでいた。
「雪美!雪美はどうなっとんや!」
ソファーから、立ち上がろうとした、陽の背中から脳に、激痛が走った。
「あイテッ!」
遼の随分大きくなった手が、よろけた陽の体を支えた。
「いきなり動いたら、あかんよ。ムチ打ちなんやから。──雪美ちゃん、見に行きたい?まだ、
生きてるけど・・・」
痛みが急に気になり始めた首をよじり、陽はまじまじと、弟を見つめた。
遼の表情は変わっていない。己の内面に、沈みこむようでいて、何もかもさりげなく見逃さな
い、透徹した顔だった。
「遼。変やな、俺、首が痛え。夢やのにな」
「目が覚めても、きっと痛いと思うよ。兄ちゃんも、医者に見てもろた方がええよ」
かわいい八重歯を見せて笑う。
「夢やから、雪美ちゃんの様子が見れるよ。ぼく、見せてあげるし」
「・・・」
遼の姿が、急に薄れはじめた。遼の身体を透かして、待合室のソファーが見える。身体と重な
った部分だけが、灰色のソファーを青灰色に変えていた。
弟は、青い光になっていた。
「行こう。兄ちゃん。時間、ないって。もう、身体動かしても、痛くないから」
陽の身体も、青い光に変わっていた。
驚きはしなかった。が、陽は迷った。
確かに、時間がない。こんな夢をのんびりと見ている場合か。目を覚ますことは、出来ないの
か。
「行こうって」
遼は、陽をうながし、ゆっくりと進み始めた。
陽は、あわてて遼を追った。
                                   
                   
空を飛んでいた。
幼い頃は、空を飛ぶ夢をよく見たものだ。
いつからか、落ちる夢しか見なくなった。年を取るとは、そんなものかもしれない。
空を飛ぶ夢を見るのは、久しぶりだ・・・
陽は、こんな時だったが、ふと心地よさを感じていた。
短い浮遊は、衝撃の光景で終わった。

 
赤黒い傷と、痣だらけの、シートにすっぽりくるまれた顔と身体。
群がる医師と、看護婦。手術衣の上に広がる、赤い染み。
血と消毒液の匂いが充満する部屋に、遼と陽は舞い降りた。
可愛い雪美の、変わり果てた姿に、陽は息を呑んだ。が、目をそむけることは、しなかった。
自分の失敗の、取り返しのつかない、これが結果なのだ。
「雪美ちゃんは、内臓をやられたんや」
遼の沈んだ、だが発音の明瞭な、落ち着いた声が聞こえた。
「医者は今、迷ってる」
「──え」
陽は初めて、食い入るように見つめていた、雪美の凄惨な姿から目をそらし、視線を弟の顔に
移した。
「医者が、何を迷っとんや?」
「この医者には、富田さんって、先輩がいるんや。このひとが知ってる中で、いちばん信頼出来
る、腕のええ外科医やな。彼に依頼するかどうかで、迷ってる。自分の力じゃ、この患者は手
に負えないと思ってる」
若い医師は、眉間に皺を寄せて、青白い顔で淡々と作業を続けている。
その医師の表情にある何かが、陽を戦慄させた。唇を歪めて、陽は遼を睨みつけた。
「そんなことが、何でお前に分かるねん。・・・いや、分かるかもしれへん、お前は幽霊やから
な。やけど、何で、それやったら、こいつはそのトミタって奴を呼ばへんのや。こいつ、あきらめ
とるやないか」
「あきらめとる、ってとこまで行ってへんけど・・・あきらめるかどうか、迷っとる」
「迷っとるって、だから何でやねん!」
語気が強くなった。相手が遼でなければ、陽は爆発していたかもしれない。
だが話しているのは、遼だった。遼は別格だった。弟は、いつも率直で、その率直さを、陽は好
んでいたのだ。
が。
あきらめる。何をあきらめるのか。
雪美は、世界に一人しかいない。雪美を助けることが可能なのは、今から数時間以内の、わ
ずかな時間に限られている。その、結果を握るのは、この疲れた顔の若い男だけなのだ。
もどかしさに、気が狂いそうだった。
この医者には実力がない、と陽の直感が、告げたのだ。
「兄ちゃん、今日はこの人が当直なんやで。医者もシフトがあるやろ。雪美ちゃんは、富田さん
を呼んだところで、助かる確率は一割も上がらない、ってこの人は思っとる。休みの富田さんを
呼び出したら、仕事のサイクル上、この人の都合が悪くなるねん。代わりに、また富田さんのシ
フトに入らないとあかんから・・・休みが減ったら、困るって思っとるみたいや」
遼の言葉を聞いているうちに、今度こそ陽の目はつり上がってきた。
陽は、医者の胸ぐらをつかんだ。
「呼べばええやないか!何を言っとんや!人、ひとりの命にかかわるんやぞ、雪美を助けてく
れ!おい、おっさん!聞こえへんのか、こら、おい!!」
「聞こえてないよ。だって兄ちゃん、透明になっとるやん」
遼が、当惑した声で止めた。
陽は叫び続けた。
「何とかせえや!雪美が死んでまうやないか!雪美を助けてくれ!雪美!おっさん、おいっ!」
「──兄ちゃんって、雪美ちゃんが、ホンマに好きなんや・・・」
「当たり前やろ!雪美!おい、おっさん、頼む!」
「なら、雪美ちゃんの代わりに、死ねる?」

・・・え?」
陽は叫ぶのをやめ、遼を見た。
遼の表情は、陽とは対照的に、冷静だったが、少し哀しげに見えた。
「兄ちゃんが死んで、魂をくれるんやったら、雪美ちゃんを助けるよう、この医者の気持ちを動
かすことが、ぼくには出来る。本当やで」
「死んで、魂を?──俺の?」
「選ぶのは兄ちゃんだよ。ぼくは、兄ちゃんの言うとおりにするから。・・・出よう、兄ちゃん」
「え」
遼は唐突に、陽の視界から離れ、部屋の外へするりと抜けた。
陽は面食らい、雪美を振り返った。医者は、相変わらず、疲れた青白い顔で、淡々と作業を続
けている。
陽は再び、叫びだしそうになったが思い直し、遼を追った。

廊下に出ると、中年女性の、悲鳴に似た、泣き声が聞こえた。
「いやっ、雪美、雪美、雪美・・・」
初めて見る雪美の母親だった。彼女は床に崩れ落ち、ソファーに顔を埋めて泣いていた。さっ
き、陽を怒鳴りつけた雪美の父親が、憔悴した顔で、彼女の傍に座っていた。父親は母親のよ
うに泣き叫びはしなかったが、声を出さずに、目を赤く腫らしていた。
──6年前の、俺達だ。
あの時、そこにいたのは、陽と、陽の父母、姉と妹だった。
遼は、今の雪美と同じように、意識のない状態で、──何時間、死と闘っていたのだろう。よく
覚えていない。
半日にも満たない、短い時間だった。幼い身体は、あっけなく敗北した。
陽も、いつしか泣いていた。身体は、実体を失っているはずだったが、頬を濡らす、生暖かい
液体を感じた。
「遼」
陽は、自分を見つめ返す弟に呼びかけた。
「お前は、夢なんか?お前は、何で出て来たんや?俺の、魂が欲しいってか?俺が死んだら、
ええんか?・・・ええで。俺は、死んでもええ。雪美を助けてくれ・・・」
「──お母さんたちが、また悲しむで。やりたいことも、あるやろ?そんなに簡単に、決めてもえ
えん?そんなに、雪美ちゃんが好きなん?死んだら、もう戻れへんで」
「俺は、男気に生きとるんやで」
陽は、泣きながら、笑った。
「雪美がこんなことになったんは、俺の責任や。俺が死んで、雪美が助かるなら、それがベスト
や」
「本気?」
「雪美を助けてくれ」
「冷静に考えた方が、ええよ」
「冷静や。考えても、同じや。雪美を死なせたくない」
陽はいつか、夢の中だということを忘れ、遼に必死に懇願していた。
自分の命と、雪美の命を引き換えにするという考えは、陽にはひとつの、単純で、魅惑的な解
決策だった。
本気で死んでもいいと思った。
もうこれ以上、遼を失った時と、同じ痛みを引きずって生きたくはなかった。
──遼。雪美。俺は、呪われているのか。遼。雪美。俺を。俺は。俺の・・・。

虫の鳴き声。蝉の声。
また別の夢に入ったようだ、と、陽は思った。

                                   
幼い遼が傍にいた。夏の、暑い昼だった。
二人で出し合った小遣いをはたいて買った模型飛行機は、河原で急旋回し、川の中に沈没し
てしまった。
遼は、泣くかと思ったが、泣かなかった。
陽が、濡れて動かなくなった飛行機を、苛立ちながら闇雲にいらっている様子を黙って見てい
たが、ふいに口を開いた。
「ドライヤーで乾かさへん?」
二人は家に帰り、陽は飛行機をヤケクソに分解した。遼はドライヤーで、ひとつひとつの部品
を、丁寧に乾かした。
陽は、部品の組み合わせを、注意して覚えていたつもりだったが、途中で分からなくなった。思
い出したのは、遼だった。陽の手元を、じっと見て、覚えていたのだ。
出来上がった飛行機は、見事に夕暮れの空を飛んだ。
「すっげ〜!」
陽は、狂喜して、遼の肩をこづいた。
「天才ちゃうん、お前!」
遼も、笑い転げていた。
あれは、いつの夏だったか。
陽が高校3年。18才。ということは、遼は8才だっただろうか・・・。
                                                        
             
陽が覚えている限り、遼はいつも、怜悧で、聡明で、温厚で、建設的だった。
わずか10才で夭逝したのに、遼は普通の子供とは違っていた。
この年齢の離れた弟を、陽はとても可愛がった。
陽には、悪友が大勢いた。スケボー仲間、バイト仲間。学校には、サボリながらも通ってはい
たが、デキが良かったとはいえない。
遼は、優等生で、扱いやすい子供だった。
遼にも、友達が、おとなしい見かけによらず、意外と大勢いた。物怖じせず、人見知りをせず、
頭のいい遼は、年齢を問わず、人に好かれやすい性質の少年だった。
陽と遼は別々の社会に属していた。性格も、性向もまったく違っていた。
それでも、二人は親友だったと、陽は思う。

陽と遼の両親は共働きで、陽より2才上の姉と、陽が、弟と妹の面倒を見るよう親に躾けられ
て育った。
が、遼が死んでから、よく陽は思ったものだ。
──俺が、遼の子守りをしてたんじゃなくて、遼が、俺の子守りをしてたんかも、しれへんなあ。
陽は、両親の期待に応えて、家事を手伝うような出来た子供では、なかった。遼とよく遊んだの
は、単純に気が合ったからだ。陽自身に良く似た性格の、気の強い妹とは、あまり遊んでやっ
た記憶がない。
働いて稼ぐことの苦労が、まがりなりにも理解できたのは、親元を離れて自活するようになって
からだ。
それまでは、仕事に明け暮れて、自分達の世話に時間を割くことをしなかった母を理解せず、
ただ恨んでいたような気がする。
遼の方でも、陽は両親より身近な存在だったと思う。
陽と違い、遼は、両親の愛情が足りないと、ぐずることはなかった。
陽は時々思った。自分がいるからだろうか?
分からないが、遼の短い人生の中で、彼が最も長い時間をともに過ごした人間は、兄の陽だっ
たと思う。
遼は、めったに癇癪を起こさない子供だったが、大声で泣いたことは、何度もあった。
家の者が喧嘩をするのを、遼は極端に嫌っていた。
父母が争ったり、兄弟姉妹の誰かが喧嘩を始めると、遼はよく大泣きしたものだ。
「遼が泣きおるで。もうやめとき」
誰かが仲裁に入りおさまった争いは、数知れない。
                                             
それでも、陽と両親の間に、遼にも埋めることの出来ない溝が出来た時もあった。
大学受験の失敗を機に、陽は美容師を目指して、専門学校へ行くと言い張ったのだ。
一流大卒の両親は、反対した。
20才の誕生日に、陽は家を飛び出し、女の家に逃げ込んだ。その、年上の一人暮らしの彼女
は、確か、陽の5人目の女だった──明るく、背が高い陽は、女にはモテたのだ。
自分の家と、彼女の家を、他に行く先もなく金もなく、ふらふらと気の向いた時間に行き来する
毎日が続いた。
遼は相変わらず、陽の味方だった。
「兄ちゃん、ぼくの散髪、してよ」
あの日、遼は、突然言い出した。
「母さんが、お小遣いくれたよ。散髪に行けって」
「俺が切って、ええんか?俺、まだ、美容師の勉強してるわけやないで。どうなるか、分からん
で」
「ヤンキーみたいなんにしてよ」
「ヤンキー?」
「兄ちゃんみたいなん。カッコイイんが、ええ」
「おっしゃ、じゃ、まかせろ」
陽は、相当気合いを入れて、カミソリで、遼の髪にシャギーを入れた。
出来映えは、我ながら、なかなかのものだった。
「・・・出来た!見てみ?カッコイイやろ?」
「えー?・・・」
「カッコイイって!」
「・・・うん」
もともとの髪の色の茶色い遼が、シャギーだらけのツンツンのヘアスタイルにしたら、小さなヤ
ンキーの出来上がりだった。
その晩、遼の散髪代で、二人はファミレスに出かけた。
帰りに、突然の別離が訪れたのだ。
陽の運転する車は、追突され、ガードレールに衝突した。助手席の遼は、車の外に投げ出さ
れ、翌日の夜明け前に、死んだ。10年の人生の、あっけない幕切れだった。
陽は、軽傷を負ったが、命に別状はなかった。
ただ、その日から、陽の中の何かが、欠落したままで、今日まで来たような気がする。

                                                 
遼が亡くなっても、時間はもとどおりに流れ始めた。
鷹野家にとって、幼い末息子の死は、悲劇的ではあったが、生活が目に見えて変化するような
事件ではなかった。
それでも、小さな変化が訪れた。
互いの傷を舐めあうように、家族喧嘩が少し減った。
陽は、両親と和解した。
「あんた、遼の髪の毛、キレイに切ってくれてたんやね」
葬式の後、母はそう言って、陽の専門学校への進学を認めた。
失った末息子に注がれていた愛情が、陽に向いたのかもしれなかった。
高校を卒業してから、行き場がなく、重苦しかった陽の生活は、にわかに充実したものとなっ
た。進学し、卒業し、美容院に勤め、今まで来た。
ある意味、充実させすぎていたのかもしれない。──雪美は、陽の、27人目の彼女だった。
遼の声が、聞こえたような気がした。
「兄ちゃん、ホンマに本気なん?雪美ちゃんのこと、気まぐれじゃないん?いつも兄ちゃん、彼
女と長続きせえへんやん・・・雪美ちゃんやって、出逢ってまだ何ヶ月かの人ちがうん?命と引
き換えにするなんて、そこまで本気なんか?後悔せえへん?」
それは、遼の声だっただろうか。それとも、自分の心の中の声だったか。陽には分からなかっ
たが、どちらでも構わないことだった。
陽は、つぶやいた。
「いつやって、俺は本気やで。数が多いからって、浮気したワケちがうし。俺はいつでも、一筋
なんや・・・ただ、俺、好きな人ナシで、おられへんねん。好きでなくなったら、彼女やないか
ら・・・だから数ばっか増えて、俺、確かに変やな。でもな、いつでも俺は一筋やで。雪美は、俺
の好きな人や。命と引き換えでええ。雪美が助かるなら、それでええ」
「ホンマやね?後悔、せえへんね?」
「せえへん」
「分かった。なら、約束や。ぼく、雪美ちゃんを、助けるわ。でも、兄ちゃんの魂をもらわんと、あ
かんねん。誰かを連れて行くのが、ぼくの仕事やから・・・」
ぼくの仕事って何や、と聞こうと思ったが、ふいに遼の柔らかな声が遠ざかり、代わりに神経を
逆撫でするような、けたたましいサイレンの音が、この世のものとは思えない桁外れな音量で、
鼓膜を叩きつけるように鳴り響いた。
          


その、サイレンの音で、目が覚めた。
視界に、空が、薄墨色から、青へ、そしてピンクとオレンジへ、山肌にさす微かな赤へと、グラ
デーションを描いていた。
──夜明けだ。
次に陽の視界に映ったのは、病院の黄土色の壁だった。救急車が、サイレンを鳴らしながら、
遠ざかって行くのが見えた。
ふと身体が、震えた。陽は大きなくしゃみをした。
寒かった。どうやら、病院の外庭で、長時間眠りこけてしまったらしい。
「くそっ・・・」
身体中が痛い。今度こそ、この覚醒は、現実に違いなかった。
「遼──」
遼はいない。陽の身体が、再び震えた。寒さではなく、襲いかかる喪失感に、背筋が凍った。
何て夢だ。遼はいないのだ。死んだ遼が、迎えに来るはずもなく、生きている雪美が、遠ざか
り、手の届かないところに行こうとしている。この美しい、晴れた朝に。
──雪美!
陽は飛び上がった。ムチ打ちの首と背中に、夢の中で感じたのと同じ激痛が走り、よろめいた
が、かまわず、病院の中に駆け込んだ。
雪美の家族は、廊下から消えていた。
宿直の老人に、昨夜搬入された濱口雪美は、どうなっているのかと、尋ねた。老人は、要領を
得ない連絡を取っていたが、最後にゾウの看護婦が現れ、雪美は難易度の高い手術を受ける
ため、大学病院へ転送された、と教えてくれた。
転送先の大学病院の所在地と電話番号のメモをもらって、陽は痛む身体を引きずり、病院か
ら出た。
急いでタクシーをつかまえなければならなかった。
時計を見たら、午前6時前だった。今日は忙しい一日になるだろう。警察にもまだ、行っていな
い。
病院横のロータリーには、早朝のせいか、タクシーは止まっていなかった。古い看板にタクシー
会社の電話番号が表示されていたが、一部分が剥げて読み取れなかった。舌打ちし、もう一
度病院へ引き返して電話帳を見ようと振り返り、走り出そうとした時、何か柔らかいものにぶつ
かった。人間だった。
「あ、すいません」
背中を走る激痛に、一瞬気をとられたが、相手の顔を見て、陽は息を呑んだ。
「大丈夫?痛かった?ごめん」


                 
遼が、いた。
遼が、陽に手を差し伸べていた。
「兄ちゃん、痛い?・・・大丈夫、雪美ちゃんは助かるから、そんなにあわてへんでも」
「───」
陽は、目の前が白くなる感覚を覚えた。
まだ夢なのか。何て長い夢だ。長い長い夢だ。もう、やめてくれ。
いや、夢か?夢じゃないのか?夢じゃなかったら。
──俺は気が狂ったのか。
たった今、病院の中で、煩雑な現実的な交渉を、能のない連中相手に行って来たところではな
いか。そして、この朝の澄んだ空気の確かさ。手の甲の傷の痛み。首筋から背中の筋肉の痛
み。ロータリーの風景の確かさ。
夢であるはずはなかった。
夢であるはずはないのに、遼が、いる。
夢に出て来た、16才の、成長した遼が話している。ひょろっと背が伸びた遼が、地味なチェッ
クのシャツとジーパン姿で、朝のこのロータリーに、陽の目の前に、立っている。
「──約束したよね。ぼくは、約束、守ったで。・・・あの医者の心に細工して、富田さんに、連絡
を取らせてん。富田さんの判断で、雪美ちゃんは、大学病院に転送されたよ。・・・大手術にな
るけど、適切に処置すれば、助かる希望はあるって、富田さんは雪美ちゃんの親に説明しては
ったよ。・・・大学病院の医者も、ぼく、チェックして来たで。オーケイや。雪美ちゃんは、助かる
よ」
ぽつり、ぽつりと語る遼の口調は、昔のままだった。
遼の声を聞いているうちに、陽はふいに、すっと何もかも理解出来たような気がした。
これは、夢では、ない。
だから、この遼も、現実なのだ。
大切だった、ひとりきりの弟が、行ってしまった世界から、陽に会いに来てくれたのだ。
ああ。と陽は思った。そうか。こいつは、遼なんだ。
受け入れようと思った。受け入れたい、と思った。
陽は、口を開いた。
「──俺が約束したから、お前が雪美を助けてくれたんか?」
「・・・うん」
「俺は、じゃ、死ぬんやな?」
その言葉は、妙に現実から乖離して、陽の耳に響いた。
遼は、陽を、唇を噛んで見つめた。
「──まだ、選べるよ。もう時間、あまり、あらへんけど。・・・兄ちゃん、ごめん。ぼくは、雪美ち
ゃんか、兄ちゃんを連れて行かないと、あかんねん。兄ちゃんが死ななければ、雪美ちゃんを
連れて行くよ。雪美ちゃんを助けるなら、兄ちゃんを連れて行かないと、あかんねん」
「それは、分かってる。おまえが、謝らんでも、ええ。俺の気持ちは、変わらへん。雪美を助けて
くれ」
「・・・じゃ、行こう。後悔は、せんね?」
遼は、病院へ歩き出した。今度は、宙に浮いたりせず、すたすたと地面を踏みしめている。陽
は、動悸が高まってくるのを抑えながら、遼の後を追った。
二人は、エレベーターで病院の最上階の8階に上がり、廊下の端まで歩き、非常階段につなが
る扉を開けた。強い風が、いきなり吹き付け、二人の髪を乱した。
狭い踊り場に立って、下を見下ろすと、そう遠い距離でもないような気がしたが、飛び降りれ
ば、間違いなく死ぬだろう。
遼は、強い風に煽られる髪を抑えながら、陽を見た。
「飛び降りるのと同時に、意識を抜いてあげることが出来る。痛い思いは、させへんよ」
陽は頷いて、手すりを踏み越えた。
「兄ちゃん!本気?ねえ、後悔せえへん?」
「雪美は死なせへん。約束したやないか」
8階から見たアスファルトは、近いようで、やはり遠かった。駐車場の車が、模型のように小さ
い。
陽は、空を見上げた。水色と、金色に近いオレンジが組み合わさった、美しく、静かな空が、広
がっていた。いつの間にか、細長く雲がなびいている。天気の変わり目なのかもしれない。風
が、強い。思いきり、冷たい風を吸い込んだ。この風が持って来るのかもしれない雲と雨を、も
う陽は見ることはないのだ。
陽は、心の中で、世界に別れを告げた。


   


陽にとって、確かに雪美は27番目のオンナだった。女癖が悪いと、周囲から散々な評判を取
っていたと、自覚はある。
けれど陽の中では、後ろめたいことは何もなかった。陽なりに、理想の女を捜し続けた結果だ
ったし、二股をかけたことは一度もなかった。
雪美は、付き合って3ヶ月になるオンナで、今度こそコイツだ、と直感した女性だったのだ。(過
去26人、全てのオンナに、コイツだ、という直感はあったのだが)
雪美は、21才。陽の勤める美容院の客だった。よく喋る陽気な娘で、陽のカットが自分のスタ
イルにいちばん合うと、いつも指名してくれた。最初に映画に誘って来たのも、雪美の方からだ
った。二人で出かけてみると、お喋りだと思っていた雪美は、聞くのも上手な女で、黙るタイミン
グも心得ていた。
陽も喋るのは好きなタチなので、二人は賑やかなカップルだったが、喧嘩になったことは、まだ
一度もなかった。雪美は、ワガママを言う性質の子ではなかったのだ。少し、男っぽい性格だ
ったのかもしれない。時々「お前って男前!」と陽が冷やかし半分に褒めると、雪美は「そうや
なー」と屈託なく、笑っていたものだ。
陽は、雪美と結婚するだろうと、予感していた。過去に何人、女がいようと、今は雪美が全てだ
ったのだ。
       


遼が、幻想ではないのか、という疑いも、なかった訳ではない。もし、陽の動転した頭が見せた
幻なら、雪美の生死と陽の生死は関係がなく、陽の死は愚かな無駄死にになる可能性も、な
いとはいえないのだ。
だが、陽には、不思議な確信があった。
──遼と、俺が今見ている世界は、対になっているはずだ。
遼が夢なら、この現実も夢だ。
この現実が夢でないなら、遼も夢ではないのだ。
そして、この現実は夢ではない。遼は、夢ではないのだ。
雪美の命と、陽の命は、二者択一になっているのだ・・・。
──俺が、自殺するなんてな。
いずれ年を取れば、何らかの形で死を迎えるであろうことは、頭では理解していた。が、若く、
健康な陽に、死は現実味の薄いものだった。
まして、自殺という最期は、まったく考えたことは、なかった。
──あ、遺書を書いていない・・・
しまった、と思ったのと、身体が宙に舞ったのと、どちらが早かったのか。
身体が地面に叩きつけられた衝撃は、とてつもないものだった。衝撃の後、骨が砕けた、この
世のものとは思えない激痛と、恐怖、孤独感が陽を襲った。
「あ・・・!」
どこからか、動揺した声が聞こえたが、遼が死の苦痛を消すのに失敗したのだ、ということを
理解する余裕はなかった。
その瞬間、世界で、陽と共に存在するのは、肉体の痛みと孤独だけだった。
幸い、意識は急速に薄れていった。
陽は、異変に気がついた職員により、県立病院にそのまま搬入された。
40分の昏睡ののち、意識を取り戻すことなく、家族が駆けつける前に、彼は、見知らぬ医師に
看取られて、息を引き取った。
10月7日、午前6時53分。鷹野陽の、26年の人生の、終焉だった。

 
                                     (第二話へ続きます)