小説(長編1)[ 生誕祭 第2話 ]




寒かった。おそろしく寒かった。そして、烈しい喪失感と渇望があった。
欲しい!欲しい!欲しい!
何をだ?──分からない。だが、欲しいのだ!
誰もいない。何も考えられない。
彼は苦痛に喘いでいた。孤独だった。助けを求めようにも、誰も呼べるはずもなかった。広漠
とした世界の中、ただひたすらに独りだった。孤独は圧倒的な力で彼をさいなみ、彼は無力だ
った。
肉体の苦痛からは、解放されたはずだった。が、代わって、より強烈な、異質の苦しみが、彼
を激しく揺さぶった。

                                

欲しい!寒い!欲しい!寒い!ここは寂しい・・・俺のいるところはここじゃない!寂しい!返し
てくれ!誰か!
欲しい!寂しい!寒い!欲しい!寂しい!ああ、誰か・・・!!
苦しみから逃れようと、あがいているうちに、彼はいつしか海へたどりついていた。本能が、海
を目指せと、彼に命じたのだ。彼は、無我夢中で潜った。
彼は、海の中で、苦痛がやや和らいだ感触を覚え、安堵した。
紺碧の水中から、ひと息ついて、見上げた水面は、陽光で銀色に煌き、揺れていた。美しかっ
た。
──それでも、ここにいては、ならない。
得体の知れない、原始の本能が、目指すところを彼に示した。
陽光の届かない海の底へ、彼はさらに身を翻し、潜っていった。
──おまえの世界は美しかったか?
ああ、美しかった。
──おまえの飯はうまかったか?
ああ、うまかった。
──おまえの女は可愛かったか?
ああ、可愛かった。
──おまえが生きるのは、楽しかったか?
ああ、楽しかった・・・!
俺がいるのは、ここじゃないのだ。ここは寒い。俺は失った。俺は俺を失った。返してくれ。欲し
い。寒い。寂しい。助けてくれ。返してくれ。俺は俺を失った。欲しい。寒い。ああ・・・!
彼は、ふと、自分が一人ではないことに気がついた。
暗い水の中、周りには、あぶくのような、無数の小さな薄青い光が、陽と同じように無言で呻き
ながら、海底をめざしていたのだ。
そうだった。彼は愕然とした。何故、忘れていたのだろう。そうだ、いつも、そうだったじゃない
か。
何千回か、何万回か、何億回か、──いつもおれたちは、淡い光になって、同じところへ還っ
て行った・・・。
周りの無数の光たちは、皆、生命だった者たちだった。
動物も、花も、魚も、虫も、人間も、微生物も、あらゆる生命が皆、薄暗い光となって海底を目
指し、静かな、しかし力強い潮流を作っていた。潮流を強く感じるにつれ、彼の感じていた苦痛
と孤独は、次第に薄れていき、代わりに不可思議な渇望が強くなった。彼は潮流に乗り、目的
の場所を目指した。
陽光は、やがて届かなくなった。海中は闇だったが、進むのに支障はなかった。彼等自身の発
する淡い光が、互いをほの暗く照らしていた。
闇は寒かった。海底へ近づくほど、寒さは再び耐え辛いものとなり、彼の本能は、光の世界を
欲していた。
闇の深淵をくぐり抜ければ、光の世界がある。そうだ、光が溢れる世界にたどり着く・・・。
「あかん。兄ちゃん!」
彼は、疲れていた。力を振り絞って、まとわりつく重い闇を払いのけ、かいくぐり、さらに底を目
指した。
「兄ちゃん、約束を忘れたの?彼女と兄ちゃんの魂は、交換なんだよ」
彼女。兄ちゃん。誰のことだ。邪魔をするな。苦しい。疲れているんだ。
時間の感覚はとうになくなっていたが、水の闇との、気の遠くなるような永い格闘が続いてい
た。が、ふいに、彼を押し潰していた水圧が、軽くなった。
「兄ちゃん!雪美ちゃんを、殺したいの?」
光の世界が、彼の前に拓けていた。彼は詠嘆し、息を呑んだ。
──ああ・・・![祭]だ──!!
       

彼の前に拓けていたのは、虹色の光の祭典だった。
何億回と見た、それは、魂の[生誕祭]だった。
潮流となって、共に進んできた生命の名残りたちは、いちど離散し、思い思いの方角から、
[祭]の中に飛び込んでいった。
彼等はそこで記憶を交換し、融合し、巨大な、黄金に近い色に輝く核の中に溶け込む。核の中
からは、無数の新たな魂が生まれ、飛び出し、再び宿る身体を求めて飛び立っていく。
虹色の光は、ほの暗く光る魂が、無数に融合した結果、放たれる光だった。
それは、火花を散らす炎のようにも見えたし、花火のクライマックスが、永遠に続くかのように
も見えた。
美しい光景だった。が、水面に反射して揺らめき光る陽光のような、穏やかなぬくもりは、微塵
もなかった。
それは、地に縛られた生命たちの、激しい、厳しい、祭だった。生命の誕生以来、数十億年、
絶えることなく繰り返されてきた、魂の融合と消滅、そして誕生の儀式であり、祭典だった。
──祭だ、還れ!祭だ、来い!祭だ、燃えろ!祭だ、もう一度!もう一度、世界へ!
未来も過去も、愛情も憎悪も、真実も虚構も、もはやどうでもいいことだった。
彼は、ためらうことなく、[祭]に飛び込む角度を探し、目的の焦点を、黄金色の核に定め、浮
き上がった。
「待ってったら・・・!陽!本当に死んでもいいの?そこに行ったら、もう二度と陽には戻れない
んだよ!本当に消滅しちゃうんだよ!それでもいいの?陽、どうか話を聞いて!ぼくも死んでし
まうんだよ?雪美ちゃんも、みんな!みんな死ぬんだよ?話を聞いてったら、陽!!」
──うるさいな。誰だ。・・・陽?雪美?ぼく?死ぬ?消滅する?・・・消滅するだと?誰がだ?
「陽がだよ!あんたは、陽でしょう!思い出さなきゃ!陽!」
「──誰だ」
「遼だよ!忘れないでよ!陽の弟だよ。あんたの弟だよ!思い出してよ!」
「──遼?」
「陽!思い出した?」
「──」
陽。彼は思い出した。おれの名前だ。
陽は、必死の形相ですがりつく、弟の存在に、初めて気がついた。
記憶が、蘇ってきた。陽は頬を歪めた。思い出すことは、今の陽には、耐え難い苦痛を伴う作
業だった。
「・・・みんな、死ぬ?」
「陽!」
遼は、ほとんど泣きそうな表情だった。陽が、自分の言葉に耳を傾けてくれたことに、心底ほっ
とした様子に見えた。
「そうなんだよ、聞いて欲しい。兄ちゃん。兄ちゃんは、雪美ちゃんのために、代わりに死んだ
んだ。ぼくが、兄ちゃんを、連れて来てしまった──そしてぼくには、役割がある」
「役割って・・・」
「ぼくは、ぼくたちの世界に、存在する仲間を、増やさなくちゃいけない。もし、ここで兄ちゃんが
[祭]に参加してしまったら、兄ちゃんの存在は、未来永劫、消滅してしまう。兄ちゃんが、消滅
すると、雪美ちゃんはどうなる?代わりの魂が消滅したら、今度こそ雪美ちゃんの番だ。そし
て、ぼくの責任もある。ぼくは、罰せられて、消滅させられるかもしれない」
ぼくたちの世界。それは何だ。
だが、当面は、どうでもよい事だった。
「お前の言ってることは、よく分からへんけど・・・」
陽は、今にも[祭]に身体が吸い込まれていきそうな、身を委ねたい強烈な欲望と闘いながら、
意識を遼に集中させようと、懸命にこらえた。
「俺は当然、[祭]へ行ったら、溶けてなくなるんだよな。それは、そうやろな。お前のいう、雪美
の身代わりになったってことが、出来へんかったってことに、なるねんな。で、お前も、俺がそう
なったら、身が危険やって言うんやな」
「そうなんだ・・・」
約束も、ポリシーも、雪美への愛情さえ、原始的な本能に動かされている今、遠く、さほどの重
みはないものだった。
が、6年の間、その死を悔やみ続け、思いがけない形で再会した弟の懇願が、陽の回帰本能
を止めた。
目の前にいる弟を見殺しにしたくはない、という刹那の情だけが、陽の、[祭]へ飛び込みたい
という衝動を、何とか押し留めていた。
「早くしてくれ」
「え?」
「俺は、どうすればええんや。お前の具合のええように、早く指示してくれ。ここへいたら、俺は
あかん。祭の中に行ってまう・・・何もかも、忘れて、行ってしまいたくなる。どこか、よそへ連れ
て行ってくれるんか?だったら、早くしてくれ。頼む」
「ああ。そうだね、兄ちゃん。ごめんね・・・」
遼は、どこか哀しげに笑った。微笑の裏に隠された感情は、憐憫、それとも内省だったのか。
陽には、気付く余裕はなかった。彼はただ、喉がカラカラに渇いているのに、目の前の水を飲
めないような、果てしなく眠いのに眠ることが許されないような、生理的苦痛に似た感覚と、必
死で闘っていた。
遼はきっぱりと言った。
「行こう。また長く泳ぐけど、もう少し頑張って。とにかく、この[祭]から離れなくちゃ、話が始ま
らない」
遼は、身を翻した。陽は、遼の後を追った。後ろ髪を引かれるとは、まさにこのことか、と歯を
食いしばりながら、[祭]の誘惑を振り切ろうとあがいた。
二人は、光の世界を抜け、再び暗い深海を目指し、泳いだ。クジラでさえも疲れるだろうと思わ
れるような、永い永い遠泳だった。
[祭]を目指す魂たちの潮流に、逆流するのは困難をきわめた。彼らの放つ光を回避し、それ
でも押し戻され、また進み、二人は上へ、上へと少しずつ戻って行った。
[祭]の光が届かない位置まで来たとき、遼はふと泳ぐのをやめ、陽を振り返った。陽は、喘ぎ
ながら、遼を見た。遼は、周りを見渡した。
「見て。蛍みたいな光が。見える?」
「蛍?」
陽は、遼の指差す方向を、目を眇めて見た。暗い海をゆっくりと漂う、淡い色の燐光が見え
た。
「ほんまやな。見える。蛍って、海にもおるんか・・・」
「蛍じゃないけど」
遼は、微笑した。
「他にもたくさんいるよ。目が慣れてくると、見えるでしょう」
遼の、言うとおりだった。燐光は、無数に海中を漂っていた。
陽は、いつの大晦日だったか、初日の出を見ようと山に登り、仲間たちと仰いだ冬の夜空を思
い出した。澄んだ寒空を、星々が、豪華に飾っていた。あの時の仲間たちとは、今でも年に数
回はつるんでいる。
──やつらとも、もう会えないのか。会えないんだな。
「あれは、みんな、魂なんだよ。[祭]に行きそびれた、はぐれものの魂たちなんだ。どこへ行く
んだろう・・・。そのうち、疲れて、消えるものが、ほとんどだと思うんだけどね」
「祭に、行きそびれた・・・」
そう思って見ると、流れ星を見るような、寂しい光景にも見える。陽は、厳粛な気持ちになり、
燐光たちを凝視した。
                        


ふと、思い当たったことがあった。
「ってことは、俺たちも、あいつらからは、同じように見えてるってことか・・・?」
声が、意に反して、ふるえた。
「だって・・・俺たちも、[祭]に行きそびれたってことには、変わりないんやろ?」
遼は、陽を見た。陽は、弟の哀しげな微笑に隠された、憐憫と、自責の念を、今度は見逃さな
かった。
「そうだよ。すまない、陽。ぼくたちも、彼等の仲間なんだ。はぐれものの魂だ。[祭]にもう一度
戻れるかどうかは、分からない。今度、ぼくたちの意識が消滅する時は、行き先には[祭]なん
てなくて、当然、生誕もありはしなくて、ただ消えていくだけかもしれない・・・」
「別に、ええけど」
陽は、蛍のようにゆっくりと流れる燐光を、目で追った。
自分と遼は、どんな色の燐光に見えるのだろうか。現実感が沸かなかった。
遼は、目の前に、等身大の姿で、存在している。あんな、蛍なんかではありはしないのに。奇妙
な話だ。
陽は首を振って、弟に視線を戻した。
「俺は、死んだけど、──ま、正直なとこ、死んだって、実感も沸かへんけど、俺は俺や、って
いう意識が保てて、良かったんとちがうやろか。[祭]に入ってたら、本当に消えてまうとこやっ
たんや。そう思うとな──よう分からんけどな・・・」
「ぼくも、ぼくの意識が保てて、よかったって思ってきたけど・・・ぼくたちにも、そのうち消滅の日
が来る。その時、陽が、[祭]を思い出して、戻れないことを悔やむ日が来るかもしれないよ」
「・・・先のことなんか、考えなくてええ。死ぬ時は、誰だって同じや。その先に何がある、なんて
知らずに、皆、死んでいくんやで」
遼はまた微笑した。今度は、陰のない微笑みだった。
「・・・行こうか。まだ、先は長いよ」
「まだかいな。たまらんな!どこまで行くんや」
「地上まで。遠いよ」
「地上ってか!おいー、めちゃめちゃ遠いな!」
遼は、黙々と泳ぎ始めた。確かに、無駄口を叩いている時間があれば、少しでも前に進むべき
だった。陽は、ため息をついて、遼の背中を追った。


やっとの思いでたどりついた海岸は、水がとてつもなく汚かった。貨物倉庫の並ぶ、都会の港
だった。風景に、見覚えがあった。神戸だった。
「帰って来たよ。お疲れ様。大丈夫?」
「・・・ああ。・・・疲れたー!!」
疲弊で、返事をするのも億劫だった。
「何か、眠いわ、俺」
「眠いだろうね。事故ったのが、昨日の昼だから、ろくに寝てないもんね。遠泳したし」
「ユーレイになっても、眠くなるんかい・・・」
陽は、へたりこんだ。どこでもいいから、とにかく眠りたかった。
「もう少しだけ、頑張ってよ。まだ、用事があるんだ。ふたつほど」
「何だ?」
飛ぶことは、海中を泳ぐより、相当に楽な動作だった。
遼は、神戸の街を迷うことなく飛び、何を目印にしているのか、山へ陽を連れこんだ。山中の
公園に、黄金色の、人の形をした光が集っていた。


彼等には、遼のような、はっきりとした姿形はなかった。が、彼等が意志のある人間たちだとい
うことは、何故かしら直観的に感じ取れた。
「失礼します」
遼は、緊張した声で、その中の一人に話し掛けた。
「仲間をひとり、加えたいのです。彼は、悪意のない、健康な魂です。審査をお願いします」
『オマエハ、姿ヲ、変エテイルガ・・・』
話し掛けられた、黄金色の人が、遼に応えた。
『ナニカ、意図ガ、アルノカ』
遼は、陽の顔を見ずに、答えた。
「──意図は特にありません。気分転換です」
陽は、眉をひそめ、遼を見た。姿を変えている・・・?
確かに、享年10歳の遼が、ここでは10台後半に変貌している。それは、不自然なことなのだ
ろうか。
黄金色の人は、陽に興味を移した。
『オマエハ、我々ノ仲間ニ、入リタイノカ?集団ニ、参加スルトイウコトノ意味ヲ、分カッテイルノ
カ?』
「集団に参加するって・・・」
どんな集団なんだ、と尋ねようとして、陽は口をつぐみ、言葉に迷った。
遼は、何故かは知らず、この集団(つまり、彼等が、遼の言う「仲間」なのだろう)に陽を入れた
がっている。陽は、弟の意を汲もうと、最初から決めている。だとしたら、結論は決まっている
のだ。
「──意味は、教えてもらわないと、分かりません。でも俺は、[祭]へ入るのはやめたんです。
それが、参加するってことの、意志表示にはなりませんか」
黄金色の人は、淡々と語りはじめた。
『意志表示トハ、イエナイ。[祭]ニ入ラズ、我々ニ合流シナイ魂モ、多イカラダ。[祭]ニ入ラナイ
魂ニハ、イロイロナ性質ノ者ガ、アル。[祭]ニ入ル気力ノナイ魂モイル、再生ヲ拒ムダケノ者モ
多イ・・・我々ハ、概シテ現世ニ執着ガアルモノダガ、行動ハ様々ダ。無為ニ彷徨ウ者モイル、
呪ウダケノ者モイル。ダガ、ソレデハ、イケナイ。我々、有志ノ者達ハ、結束シタ。現世アッテノ
我々ダ。現世ノ、秩序ヲ守ル。人間界ヲ守ルタメニ、最大限ノ努力ヲスル。オマエハ、人間ガ、
好キカ?己ノ享楽ニ走ルコトナク、現世ニ生キル、人間達ノタメニ、尽クス意欲ハアルカ?』
黄金色の人の語る声は、陽の意識の中を、さぐるように流れ込んできた。奇妙な感覚だった
が、不快感はなかった。陽は、人間が好きだったし、もちろん、俗な怪談の幽霊のように、あち
こちで呪って回る気も、無為にさまよい歩くつもりもなかった。彼の言うことは、概ね共感の出
来る内容だった。
「意欲と言われても、正直言って、何をすればいいのか、全然分からへんのですけど」
陽は、黄金色の人を明るい眼差しで見つめた。
「俺は人間が好きです。人間のために、尽くすのがこの集団の仕事だというなら、俺はそこに
入りたいと思います」
『・・・』
黄金色の人は、更に無言で陽の意識の中をさぐっているようだった。
そして、何に納得したのか、うなずいた。
『イイダロウ。オマエヲ仲間ニ迎エヨウ。皆、手ヲ貸シテクレ。彼ニ、知識ヲ与エヨウ。・・・陽、オ
マエノ脳ニシバラク潜入スル。少シ、辛抱シロ』
黄金色の人たちが、陽の周りを取り囲んだ。
見れば見るほど、美しい連中だったが、顔も体も形はない。不思議と違和感もなく、それがま
た、陽には奇妙だった。
視界がぼやけた。陽は意識せず、目を閉じていた。何色もの閃光が、まぶたを通して、陽の視
界をちかちかと走った。耳鳴りがした。


光、闇、光、闇、光、闇、光、闇・・・。光の残像が網膜から消える間もなく、次の光が容赦なく陽
を照らす。手術台に乗せられたような、不安な感覚があった。
ふいに、陽の額を、冷たい風が吹きぬけた。額から、脳へ、光と共に差し込む風が、陽の不安
を吹き飛ばし、心地よい清涼感が残った。
光、闇、光、闇、光、闇、光、闇。何も考えるいとまはなかった。身体の中に、流れ込んで来る、
温かいものがあった。脳だけではなく、内臓まで、指先まで、陽はそれが自分の全身に行き渡
るのを感じた。それは、力であり、情報でもあった。
光、闇、光、闇、光、闇・・・点滅が、ふっと、消えた。
陽は、目を開けた。
『──誓エ』
「──われわれは、人間の、種の存続に、尽力します。われわれは、人間に、良心をもって、
接します。われわれは、互いに、情報の提供を惜しむことなく、協力します。この宣誓を破るこ
とがあれば、消滅させられることは、承知しました」
口が、自然に動いた。陽は、自分の声を聞きながら、自分が生まれ変わったことを知った。彼
らの持つ記憶と、情報が、陽の中にインプットされていた。
『新シイ仲間ヲ歓迎シヨウ。ワレワレノ寿命ハ短イ。与エラレタ短イ時間デ、己ノ役割ヲ果タスヨ
ウ、尽力サレルコトヲ期待スル』
陽は、頷いた。
五感が、再び陽に与えられた。陽は悟っていた。死んでから今まで、触れてきた世界は、間接
的に、感じていたものだった。おそらくは、[祭]の導く力に助けられて。今、初めて、陽は自分自
身の感覚を取り戻したのだった。取り戻してみれば、五感というものは、何ともあざやかなもの
だった。
唾を、飲み込んでみる。喉を液体が通り抜ける。
夜の冷たい空気が、肌を刺す。
山の、微かな植物の匂いを感じる。
静かな公園に、しんしんと響く虫の声が聞こえる。
自分の手を見る。黄金色の人の放つ光に照らされ、見慣れた自分の手の甲に、青く血管が浮
かび上がっている。
そしてもうひとつ、今までは知らなかった感覚を、知った。それは、思念の気配を感じる力だっ
た。周りを取り巻く、遼と、黄金色の人たちに、陽は、今まで感じなかった存在感を強く感じた。
陽は、自分の中から完全に、[祭]への回帰本能が、消え去ったことを感じた。
それは、もう決して戻れない、という証であったかもしれなかった。



「アース・カラーっぽいってのかな」
「え?」
「何というかさ。あの黄金色の人にしたって、[祭]にしたって、蛍みたいな奴等にしたってさ・・・」
「そう?」
「何かさ、茶色とか、緑とか、オレンジとか、多かったな」
「・・・」
「遼、まだ寝られへんのか?もう明日にせえへんか?眠くてたまらんで」
「んー、もう少し。寝場所に行かなきゃ」
「あー、そっか。どっか寝るとこ、あるんか?そやけど、俺たちは、風邪なんてひかへんやろ?
野宿でも、ええんやろ」
陽は、イライラしていた。身にふりかかった、あまりにもたくさんの出来事に疲れきっていて、ひ
たすら休息したかった。
が、遼は陽に、休むことを許さず、山を降りて街中へ再び戻り、どこかを目指し、黙々と早いペ
ースで空を飛んでいた。
陽は、ぼんやりとした頭で、遼の後を追った。途中、自分達と同じ、宙を飛ぶ者たちと何度もす
れ違い、会釈を受けたが、今日のところは、話してみる気にはなれなかった。ただひたすらに、
休みたかった。
20分もかかっただろうか?遼は、一軒の洋館の前に舞い降り、ようやく陽を振り返った。遼の
方は、全く眠気は感じているようではなく、むしろ、彼の表情には、何か感情を押し殺している
かのような、張り詰めたものがあった。
「ここが、寝場所。この家、寝心地がいいから、使わせてもらってる。昔の異人館なんだけど
ね、持ち主は今、別の家に住んでる。いつもほとんど、無人なんだ」
「そりゃ、ありがたい。寝れるんやったら、どこでもええわ。なあ、お前って、さっきから標準語し
ゃべってへん?何で、標準語なん?ユーレイの世界は、標準語使うんか?」
「・・・もとから、標準語だよ」
「は?」
「立派な家だよね。家の中も、設備がいいよ。ベッド、寝心地良くって。羽毛布団だし」
遼は、光沢のある木の階段をのぼり、洋室のドアを通り抜けた。
ベッドには、先客が眠っていた。
「何や、こいつも、生きてる人間とちがうな。お仲間か?他の部屋に、ベッドか布団は、ないん
か?」
眠そうな声でぶつぶつ言う陽を無視し、遼はベッドに眠る「仲間」を揺り起こしにかかった。
「──ねえ。起きて。ねえ。リョウ!会わせたい人がいるから」
「ん・・・」
もぞもぞと寝返りをうち、「仲間」は遼を寝ぼけた眼差しで見た。
「・・・何、こんな夜中に・・・また明日・・・」
「ヨウと同じことを言うのね」
「・・・え?」
「6年ぶりになるんでしょ?懐かしいお兄ちゃんを、連れてきたよ。挨拶くらい、してから寝た
ら?」
「え・・・」
ベッドの「仲間」──少年だった──は、陽を見た。陽は、相手の顔を見て、目を剥いた。少年
が、ガバッと跳ね起きた。
「・・・兄さん──」
「遼・・・?」
そんなはずはない。ベッドの少年は、しかし、隣に立つ遼と、同じ顔をしていた。陽は眠気を忘
れて、まじまじと彼を見つめた。似た奴か?いや、これは・・・
陽は、隣に立つ遼に視線を移した。遼が、二人いる?
彼は再び仰天した。
隣に遼はいなかった。
代わりに、おかっぱ頭の、少女がいた。
遼が、いつの間にか、若い娘に変貌している!


「女・・・?え?あれ?遼?・・・」
「カヤタ。・・・きみ、まさか、兄さんを──」
遼は、唸るような声を絞り出した。
「言ったでしょ」
カヤタと呼ばれた、一瞬前まで遼の姿をしていた娘は、こわばった表情で、取り付くしまもな
い、冷たい声で答えた。
「私を置いていかないでって。何をするか分からないよって。私、言ったはずだよ。覚えてないと
は言わせない。私は、言ったことは、絶対に実行するの。だから、ヨウを殺したの」
彼女の声は妙に耳ざわりに、金属的に響き、場を凍らせた。



沈黙を破ったのは、遼の震える声だった。
「何言ってるんだ、きみは・・・カヤタ、・・・兄さんを、どうしたんだ・・・」
「見れば分かるでしょ。ヨウは、今日から、私達の仲間になったよ。それでも、リョウは、兄さん
も見捨てて行っちゃうの?」
「・・・カヤタ!!」
陽は、驚いた。初めて聞く、遼の激昂した怒鳴り声だった。遼は、ビクッとするカヤタの肩を揺
さぶった。
「自分が何をしたか、分かってるのか!カヤタ!お前は、人を、殺したのか!ぼくの兄貴を!
何のために!兄ちゃんを!お前は!」
最後の方は、泣き声になっていた。カヤタは、唇を噛んで、涙ぐんで、揺さぶられるままになっ
ていたが、遼のように涙を流すことはなかった。
「何のためにって、さっきから言ってるじゃない。私を置いて、行ってしまおうとするからよ。──
ここにお兄さんが来て、リョウの考え方も、少しは変わるんじゃない?お兄さんは、ここで、右も
左も分からない、新入りよ。見捨てては行けないでしょう」
「おまえは!!」
遼が、──あの温厚な遼が、カヤタに手を挙げようとした。とっさに、陽は、二人を引き離した。
「・・・おい、待ってくれ。いったい、何やねん。どういうことや。俺にも分かるように説明してくれ
や。どっちの遼がホンマもんやねん?今まで俺にくっついてた遼は、この女やったんか?こい
つが、遼に化けとったんか」
「そうよ。だから、見れば分かるでしょう。昨日から、あなたが見てた遼は、私なの」
カヤタは面倒くさそうに、ふてくされた顔で答えた。
「あなたを殺したのは私よ。リョウの姿を借りたの。私達は、訓練して、よく観察すれば、うまく
他人になりきることも出来るの。・・・私が、ヨウを殺したのは、リョウが、いちばん懐いてたお兄
ちゃんだから。あなたがいれば、リョウも簡単に、[技師]になるなんて、言わないかもしれない
もん」
「[技師]?」
「さっき、見たでしょ?黄金色の人の形をしたヘンな人たち。あの人達が、[技師]。私達、下の
者は、[端末]って呼ばれてる。リョウは、[技師]にならないかと誘いがかかってて・・・OKしたの
よ。信じられない」
カヤタの声が、裏返り、涙声になった。声が詰まり、頬を涙がつたい、鼻をすする。
「リョウの人生は、リョウの人生だよ!私だって分かってる!短い命なんだから、好きに過ごさ
ないといけないって・・・だけど[技師]になるなんて!ヨウ、あなたも見たでしょ?あの黄金色
の、ごたくばっかり並べる、妙なやつら!あんな、顔も姿も声も区別できない、化け物みたいな
連中に、リョウが仲間入りをするなんて。おかしいよ!」
陽は思わず遼の顔を見た。遼は、唇を噛み締めて、カヤタを凝視している。
「[技師]になってしまったら、誰が誰なんだか、私達には分からない。みんな同じに見えてしま
うの!・・・一生のお別れなのに、リョウは平気で、[技師]になりたがる!どうしてよ?寂しくな
いの?どうして?・・・お兄ちゃんがいたら、変わるかと思ったのよ!だから、ヨウを連れてきた
の!そうよ、私が殺したの!!」
再び、沈黙が流れた。カヤタはベッドに伏せて、泣きじゃくっている。彼女のすすり泣く声だけ
が、部屋に響き、陽と遼は、言葉もなくただ顔を見合わせるだけだった。遼の顔は興奮に赤ら
み、目は潤んでいた。
「私が殺した、って・・・」
陽は、唾を飲み込んだ。
「俺は、確かに、そそのかされて自殺したけど──雪美の命と交換、って言われて・・・あれも、
じゃあ、嘘やったんか?雪美は、死ぬんか?」
「・・・雪美ちゃんは、死なないわよ。私だって、関係ない人を、殺したり、したくないし」
「兄貴だって、関係ないやないか!訳の分からへんことを言うな!!」
「頼むし、落ち着け、遼」
陽は、カヤタに食ってかかろうとする遼を止めた。
静かに考える時間が欲しかった。
「カヤタ、って言ったな。こんなこと、今更聞いても、もう起こってしまったことは、しゃあないんや
けどな・・・なあ、俺って、自殺せんでも、雪美は助かってたんか?」
「・・・分からない。私が助けようと思わなければ、雪美ちゃんは、死んでたと思う。私が助けよう
と思ったのは、ヨウが命をくれるって、言ったからだし。もし、ヨウが断っていたら、私がどうして
いたかは、分からない。怒ってたかもしれないし、どんな気持ちになっていたかなんて、分かる
わけないよ・・・」
「──そっか」
陽は、疲れた顔で、遼を見た。
「せやったら、俺が死んだのは、無駄死にじゃなかったかもしれへん、ってことやろ。もうええ
わ。何が原因やったとしても、もうどうせ俺は死んどるんやし。ケンカしたって、どうしようもない
ことや。な、遼、他の部屋に布団ないか?もう寝よう。続きは明日や」
遼は、陽の顔を見た。そして悄然とうなずいた。
遼が案内してくれた、他の寝室の、カビくさいベッドに、陽はもぐった。
「おやすみ、兄ちゃん」
「おう。寝れるか、遼。もう、気にすんなや。どうしようもないことや」
「──兄ちゃんこそ、ゆっくり休んでな。[祭]まで潜って、帰って来たんやもん。6年前、ぼくも同
じことをしたんやで。あれは疲れるやろ」
「ああ、めちゃめちゃ疲れたわ・・・」
交わした言葉は、短かった。明日になれば、積もる話を交わす気力も出るかもしれないが。今
日はもう、疲れすぎてだめだ。
明日になれば、──いつも通りに目が覚めて、起きれば自分の狭いワンルームの部屋で、す
べては長い夢だったと、胸をなでおろす朝になるかもしれない。
ありえない話だ。こんなに長い夢があってたまるか。
もう一度、おやすみ、と言って、遼は寝室からそっと出て行った。
陽は目を閉じた。鉛のように手足が重かった。頭が混乱し、考えたいことはたくさんあったが、
強烈な眠気が、陽の思考を妨げた。陽は深い眠りに落ちた。夢も見ず、泥のように陽は眠っ
た。

              


鏡に、自分の顔が映っている。考えてみれば、不思議な話だ。
寝起きの頭で、そんな事を漠然と考えた。陽は、洗面所の鏡の中の自分を、不機嫌な眼差し
で見つめた。まんざら気に入っていなくもない、見慣れた顔が、陽をにらみ返した。
朝、目が覚めて、ここはどこだ、と思った。前日の出来事を思い出すのに、数十秒かかった。
陽の泊まった部屋の雨戸は閉ざされたままで、部屋は真っ暗だった。陽は、のろのろとベッド
から起き出し、窓を開け、明かりを部屋に入れようとした。
窓は、開かなかった。
陽の手は、窓が実体のない、3Dの映像であるかのように、するっと窓を通り抜けた。窓ガラス
の硬質な冷たさに触れることは出来るのに、触れても手が通り抜けてしまう。
カーテンにも、布の感触に触れることは出来るのに、カーテンの布一枚、微動もさせることは出
来なかった。
「──」
しばらくやっきになって、いろいろなものを触った。どれも同じだった。触れることは出来るの
に、動かすことが出来ない!
物の方で、陽を拒絶しているようだった。陽は焦った。一瞬、絶望的な気分になった。
──畜生!なんで!なんで俺は死んでるんだ!!
ドアのノブをひねっても、回りはしなかった。陽は思わず、ドアを拳で叩きつけた。閉ざされた部
屋の、独りきりの空間が、無性に恐ろしかった。
──やめてくれ!俺をここから出してくれ!
そう思った瞬間、陽の身体は廊下へ出ていた。
「・・・?」
唖然として立ちすくんだが、気を取り直し、陽は階段を降りた。洗面所があった。無駄だろう
な、と思いながら、蛇口をひねった。案の定、蛇口はびくともしなかった。
──顔を洗うことも出来ないのかよ。
これが死んだということか、と思った。死んでいるのに、滅びてはいない、その矛盾の、これが
体現だろうか。
が、驚いたことに、鏡に視線を移すと、そこには自分が映っていたのだ。
眉毛の一本一本まで、正確に、映っていた。陽が首をかしげると、鏡の中の陽も首をかしげ
た。口を開けると、鏡の中の陽も口を開けた。
不思議だった。今まで陽を無視していた物たちの中で、初めて自分を受け入れてくれるものに
出逢った。
鏡は、何か、特別なのだろうか?陽は思いついて、鏡に息を吹きかけた。
鏡は、曇らなかった。
陽は、ため息をついた。何となく、分かってきたような気がした。
陽の感覚は、物体に反応する。触覚も、視覚も。だが、物体の方では、陽に反応はしないの
だ。陽の身体の、有機体としての質量は、世界に存在しないのだから。
「ヨウ?もう起きたんか。早くから、お目覚めやね。ワタシゃ、もっとよく眠るもんだと思ってた
よ。疲れたでしょうに。眠くないの?」
聞きなれない声が、背後からかかった。
振り向くと、白髪の、大柄な老女が立っていた。

「・・・?」
見知らぬ人だった。
老女は、にっこり笑った。
「覚えてないやろうね。そりゃ、無理もない。ワタシがアンタと最後に会ったのは、アンタがいつ
つの時やった。わんぱくな子やったが。・・・大きくなって。ワタシは、イチカだよ。アンタの、お父
さんの、お母さんのお姉さんよ」
「ああ・・・」
実家のアルバムに貼ってあった、黄ばんだ写真の中の数枚を、陽は思い出した。
「市佳ばあちゃん・・・?」
「災難やったね。でも、ここも、考えようによっては、悪くないよ」
「ばあちゃん。・・・いつまでも若いね」
見慣れない女性を見ると、いかなる時でも、反射的に追従を言ってしまうのは、美容院に勤め
る陽の、職業病だったかもしれない。
イチカばあさんは、楽しそうに笑った。
「あら、まあ。いきなり、褒められるとは思わなんだ。アンタも大人になったってこっちゃ」
「はは・・・」
「遼は、もう起きてるよ。朝ご飯を食べに、一緒に行かへんか?」
「朝メシ?」
陽は、面食らった。
朝、目を覚ますと腹を減らしているタチで、特に仕事を始めてからは、朝食を抜かしたことはな
かった陽だが、今朝は、空腹感は、なかった。食事というものの存在すら、忘れていた。
「まあ、来なさい。右も左も分からんこっちゃろうが、何事にも最初はあるからね。アンタは身内
が先輩におるから、ついてる方だよ」
「え・・・」
すたすたと、歩くイチカばあさんの後を、陽は戸惑いながらついて行った。昨日から、誰かにつ
いて歩いてばかりいるような気がした。
──飯だって?何を食うというんだろう・・・。
物体は、自分に反応しない、と分かったところではないか。食べ物があったとしても、どうやって
それを口に運ぶというのだろう。
イチカばあさんは、ドアを3箇所、するりするりと抜けて、庭のテラスへと出た。そこに、遼と、カ
ヤタが待っていた。
洋風に植栽された広い庭は美しかった。薄曇りの中、優しく陽光が庭を照らし、少し肌寒いが
気持ちの良い朝だった。が、二人の表情は暗かった。
遼は白い椅子に腰掛け、テーブルに肘をついて、何事かを思い悩む様子だった。カヤタは、そ
の遼の視線を避けるかのように、遼の背後のドアの勝手口に腰をおろし、そっぽを向いてい
た。
「ヨウが起きたよ。食事に行こうか」
イチカばあさんが、二人に声をかけた。
遼が顔を上げた。寝不足の疲れた顔に見えたが、彼は微笑んだ。
「ああ、起きたの。おはよう、兄ちゃん」
「・・・あ、おはよう。・・・」
陽は、何と言うものか、迷った。遼やカヤタと話したいことが、たくさんあるような気がする。たく
さんありすぎて、何から話せばよいものやら、迷う。
それは、二人の方でも同じだと見えて、遼は椅子から腰を浮かせて、陽の方へためらいながら
近づこうとしている。カヤタは顔を上げたものの、視線を陽から逸らし、再び頑固にうつむい
た。
イチカばあさんの元気な声が、彼等の逡巡を遮った。
「今日はどこへ行く?岸田さんとこにするか・・・いや、篠崎さんとこにしようか、那須さんのとこ
もいいけど。ヨウが来たし、若い人向けに洋食にしようかね。ほんじゃ、篠崎さんとこに行こう。
さ、行くよ。ほら!カヤタちゃんも、立って立って。今7時5分やで。あそこはちょうど今、お母さ
んがパンを焼いている頃だよ。早くしないと、食べ損ねるよ」
「篠崎さんとこか。久しぶりやね」
遼はふわっと浮いて、陽とイチカばあさんの側へ舞い降りた。
「兄ちゃん、行こう。篠崎さんとこのご飯は、おいしいよ。スクランブルエッグもうまいし、パンも
いい店から買ってきてて、うまいねん」
「篠崎さんとこのメシ?篠崎って、誰や。ユーレイ仲間か?」
イチカばあさんが、口をはさんだ。
「普通の、人間の家だよ。フツーよりお金持ちやけどね。お金持ちの家は、食事もうまいさ。ま
あ、質素にしてる家ほど、お金をこっそりためてるっていうけどね、篠崎さんの家は贅沢じゃな
いけど、上手に生活を楽しんではるよ。お母さんが、うまく切り盛りしてはる。あんな風に生活
出来れば、熟年ってのも幸せなもんやね。私も50代になった頃から、生活に余裕が出てきて
ね。まあー、それまで貧乏してたもんだから、貧乏してる時にゃ、お金が欲しい欲しいと思った
けど、あればあったで、なかなかお金の使い方も分からなかったもんやけどね。人間って、そ
んなもんやで。貯金癖もなかなか抜けんで、私ゃ考えてみたら、最後まで必要以上に貯金して
たもんやが、墓場までお金を持っていくことは出来ん、とはうまいこと言ったものや。結局、苦
労して残したお金は、みんな子供らのもとへ行ってもうて・・・」
「イチカばあちゃん、パンが焦げんで」
遼が、とめどなく続きそうな、イチカばあさんの話に割り込んだ。
「そうそう。兄ちゃん、ぼくたちは、実体がないから、ものを動かすことは出来へん。食べること
も、もちろん出来へんよ。でも、ぼくたちの強みは、人のアタマに入れることやねん。朝ご飯も、
篠崎さん一家の頭の中に入れてもらって、味わうねん。ホンマは、食べなくても、生きていける
んやけど、やっぱ食事すると、すごい気分転換になるで」
「アタマの中!?そんなん、どうやって入るねん・・・」
「ん〜、何というかな。頭の中に入る!と思えば入れるねん。昨日、「黄金色の人」から、何か
まじないみたいなん、かけてもらったやろ?あれで、兄ちゃんも出来るようになってるはずや
で。まあ、やってみたら、分かるよ」
「うーん・・・」
「それと、人の頭の中に入る時は、ものを考えても大丈夫やけど、喋ったらあかんで。相手に
聞こえてしまうから」
「へーえ・・・」
陽は首を傾げながら、二人の後に続いた。イチカばあさんが、門の側で立ち止まり、カヤタに
大きな声で呼びかけた。
「カヤタちゃん!ほら、行くよ!早くしなさい」
「・・・いらない。食欲ない。行ってらっしゃい」
今日、初めて聞く、カヤタの声だった。イチカばあさんは、諦めなかった。
「──カヤタちゃん、朝ご飯は食べんといかん。生活の基本やで。リョウも、もう怒ったりせん
と。起きたことは、どうしようもないんやから、逃げててもいかん。あんた方、話し合わないとあ
かんことも、あるやろうが、それこそ時間はなんぼでもある。知らん顔し合ってても、何も始まら
へんて。来なさい、カヤタちゃん」
「・・・」
カヤタはうざったそうに、顔をしかめた。イチカばあさんは、これもしかめっ面をしている、遼の
背中を叩いた。
「ほら!リョウ、あんたも誘いなさい。もう怒鳴ったりせえへんやろ?早くせんと、私一人で行く
で。ホンマにご飯が終わってしまう。さ、行こう行こう」
遼は、一瞬ためらったが、カヤタに声をかけた。
「カヤタ、行こう。もう、怒らへんから」
「・・・」
返事はなかったが、遼の言葉は、カヤタには効果てきめんだった。彼女は、うつむきながらも、
素直に立ち上がって、3人の側に来た。
「お、もう10分になるで。急ぐで」
信じられないような勢いで飛ぶイチカばあさんの後について行くのは、初心者の陽には骨が折
れた。しかし、遼とカヤタも、陽と同じく息を切らせていたから、イチカばあさんのスピードは、や
はり、並外れていたのかもしれない。
タイミングの良いことに、篠崎家の母親が、ちょうど朝食を食膳に並べ始めたところに、4人は
到着した。
篠崎家の家族は5人だった。父親、母親、娘が2人と祖父。
カヤタはさっさと、娘の中に入っていった。それは、奇妙な光景で、篠崎の娘の顔に、カヤタの
顔が微かにだぶって見えた。陽は、唾を飲み込んだ。
「大丈夫、人の中って、ぼくら、意外と自然に入れるんだよ。あとね、相手の考えが流れ込んで
来るのがイヤだったら、それをシャットアウトして、メシの味だけに集中すればいいねん」
遼が陽にささやいた。
「そうそう。・・・お、今日はスープがついてるよ。昨日の残りかねえ。ありがたいこっちゃ、グレ
ープフルーツまで。ワタシゃみかん好きでね、グレープフルーツの苦味も、なかなかいけるね。
ヨウ、おじいさんには入りなさんなよ。年寄りってのは、味覚が衰えているからねえ。娘さんに
入りなさい」
「え、娘・・・?」
女性経験は豊富な陽だったが、アタマの中に入る、というのは、聖域を侵すようで、寝るよりも
遥かにためらわれた。
遼が笑った。
「気にせんでもいいよ。相手が誰でも、一緒やで。心を覗かなければ、気が咎めることもあらへ
ん。やってみたら、簡単や。あ、喋ったら、あかんで」
イチカばあさんは母親の中に、遼は父親の中に入った。
陽も、思い切って、カヤタの入っていない方の、娘の中に飛び込んだ。
『青の毛糸を買わなくちゃ。モスグリーンも捨てがたいけど、本人に聞けたらいいけど、そうもい
かないし、多分好みは青だよなあ。でも野暮ったいかな。グレーにしようかな。千夏に相談して
みよう。買い物、付き合ってくれるかな〜。千夏なら、シック好きだから、グレーって言うだろ
な。あ。荻野ちゃんに、CD返してなかった。歌詞カード、コピーしなきゃ。・・・』
クリスマスのプレゼントに、男に手編みのマフラーでもプレゼントするのだろうか。そんな感じ
の、とりとめのない思考が、陽の中に流れ込んできた。
明るい娘の、たわいのない思考で、不快感はなかったが、人の頭の中を覗くということに、強い
抵抗を感じ、陽は念じた。
──メシに、集中しろ!俺!
娘の思考は、ピタッと止んだ。何か考えている気配は感じるが、思考以外の感覚だけを共有す
ることに、どうやら成功したらしい。
トーストと、スクランブルエッグ、焼いたハム、パンプキンポタージュと、ブラックコーヒーと、グレ
ープフルーツを半分。テレビを見ながら、じっくり味わった。実家や、下宿では味わったことのな
い、豪勢な朝食だった。


    



「ごちそうさまー!行って来まーす!」
父、姉、妹が、順番に出て行った。陽たちは、彼等の頭から脱出した。
「おー、行っといで!邪魔したな!」
陽は、自分が寄生して、朝食をともにした、亜矢が出かける時は、思わず手を振って送った。
「奥さん、どうも、ごちそうさまでした。いつもありがとうねえ。またお邪魔させてもらうけど、ごめ
んね」
何も気付かずに、後片付けをする、篠崎一家の母に、イチカばあさんは語りかけて、そっと家
を出た。
「ごちそうさまでした」
陽も、イチカばあさんを真似、反応しない相手に感謝の声をかけて、篠崎家を後にした。
実際に、食事をしたわけではないのだが、軽い満腹感を感じた。思いがけない、充実した朝だ
った。

「俺、お前の顔、どっかで見たことあるぞ、昨日から、思ってたんやけど」
食後、コーヒーも篠崎家で頂いたため、当面することがなく、4人はひとまず、ゆうべ眠った、異
人館の庭に帰った。
普段なら、朝食後は、イチカばあさんと、遼と、カヤタは思い思いの方角へ別れて、夕食時に
集合する習慣らしい。が、今日は話すことがあったので、帰って来たのだった。この場所なら、
ひと気が少なく、話がし易かったのだ。
陽はカヤタの顔を間近で見て、思うところがあった。
「誰だっけな。何か、有名人。──あ!分かった!「shiori」だろ、お前!」


「・・・よく知ってるね」
「知ってるさあ!栢田詩織!たいがいの日本人は、みんな知ってるんちがう?あの、半年前の
南アメリカの飛行機事故で、めっちゃ有名に・・・」
しまった、と陽は言葉の続きを飲み込んだ。栢田詩織は、気を悪くしたようでもなく、微笑した。
朝の光の中で見る彼女は、肌のみずみずしい白さが際立ち、黒目がちの瞳が目立つ小さな顔
と、大柄ではないが、すらっとした身体の繊細な均整が、何とも美しかった。陽は感心した。タ
レントは、テレビで見るより、生で見たらはるかにキレイなものだと誰かが言っていたが、その
通りだと思った。
 カヤタは形のいい唇を、皮肉に歪めた。
「そうそう。死んで名が売れるタレントって、いるよね。生きてる時は、ゼーンゼン、ぱっとしなか
ったのに。死んでから、あたしの写真集、売れたよねー。驚いちゃった。取材とかもたくさんあ
ってさ、親は、相当儲かったみたいよ」
「いや、俺は、お前が死ぬ前から「shiori」知ってたで。雑誌とかで、時々見たことが、あった」
「ふーん。マニア」
「マニアって、おい、人聞き悪いなー!shioriって、普通の雑誌に、水着着て出てただけやん
か!お前、脱いでたワケちゃうやん」
「脱ぐ話も、あったけどね」
「──あ。そうなん?」
「実現しないうちに、死んじゃった。脱ぐ前に死んでて、良かったかもしれないな。一応、フツー
のアイドルで歴史に残ったもんね」
「あー、そりゃ、そうとも言えるかもしれんけど、まあ・・・どうかなあ」
「そうだ。話、変わるけどさ、あたし、「shiori」って呼ばれるの、嫌い。カヤタって呼んでね」
ふと、会話が途切れた。
陽は、こっそり、カヤタの顔を盗み見た。
カヤタは陽の視線に気付くと、屈託なく笑った。気を悪くしているのでは、ないらしい。
「気に入ったんでしょ。さっき、入った、亜・矢・ち・ゃ・ん!」
「え、な、・・・いきなり何言ってんねん」
「分かるよー。ちょっといいナって思ったでしょ。私もあーゆー娘、好きなんだあ。朝からハイテ
ンションで、とっても健康!イチカばあさんがよく言ってるけどさ、人間って、自分にナイものを
求めるのかもね」
「でも、亜矢ちゃんに、恋は出来へんよ」
ふいに、それまで会話に参加しようとしなかった遼が、ぽつりとつぶやいた。
「確かに、亜矢ちゃんは、感じのいい子やけど。普通の感覚でなら、ぼくらと人間に、恋は成り
立たへんよ。だって、本人の身体の中に入るわけやからね。トイレ行ったりとかもあるしさ。ウ
ンコする感覚を、亜矢ちゃんの身体で体験するん、イヤやん?百年の恋も褪めるって感じ」
遼の、悪気はないシビアさは、相変わらず健在のようだった。陽は笑った。
「まあ、そりゃ、トイレやオナラは女でも、おんなしやろーなあ。なあ、カヤタ?」
「・・・」
若い女性がいる前で、下ネタの話をするのは、女に、基本的に優しい陽としては、気が咎めな
いこともなかった。
笑うか怒るか、カヤタが反応しやすいようにと気を使い、彼女に話をふってみたのだが、反応
は、予想外の方向に返ってきた。
「百年の恋も褪めるなんて、何カッコつけてるの。ばっかみたい」
カヤタは、陽の言葉など聞いてはいなかった。彼女は遼を睨みつけていた。
「リョウは百年の恋どころか、一日だって、恋なんて、しないじゃない。恋愛自体、興味ナイんじ
ゃないの?そうよね。人間と[端末]の恋はご法度だもん」
「失礼やな」
遼は顔をしかめた。
「ぼくやって、そんな変人ちゃうわ。恋愛やって、興味ないことはあれへん。でも、[端末]同士な
らともかく、人間に恋愛はせえへん。確かにな。したらあかんことになっとるもん。ルールを守れ
へん奴は、あかん」
「・・・」
「ルールを守らへん奴は、最低や。・・・」
遼は繰り返し、唇を噛んだ。カヤタへの、怒りを表現する言葉を、選んでいるように陽には見え
た。カヤタは黙って、遼の言葉を待っていた。
「ああっ!!」
陽の素っ頓狂な叫び声が、緊迫の糸を切った。驚いて、遼とカヤタは陽を見た。
陽は、喧嘩を止めようとして、叫んだのではなかった。栢田詩織の顔を見ていたら、重大なこと
を思い出したのだ。
「忘れてた!有名人といえば!雪美のオヤジもちょっと名前売れてるんや!そや・・・!雪美は
どうなっとんや?俺、見に行かなあかんわ。行ってくるわ。飯食っとる場合ちゃうかった。なあ、
ここはどこや。あいつのいる大学病院って、どこの大学病院や。カヤタ」
「カヤタちゃん、案内してあげなさいんか」
「──そうだね。ただ・・・」
カヤタは、気が進まない顔で、ため息をついた。
「今は行かない方がいいかも・・・」
「何でや!雪美に何かあったんちゃうやろな?おい!」
 「雪美ちゃんは大丈夫。約束したじゃない。私は彼女を守るって。今朝も私、彼女の様子は病
院に行って見て来たんだよ。大丈夫。それよりもね、他に問題があるんだ」
 「問題って?」
 「今日あたりピークかも。・・・言いにくいんだけど、私の時と一緒で、マスコミがね、来てる」
「マスコミ?」
「雪美ちゃんのお父さん、濱口征一朗さん。結構有名な舞台俳優でしょう。だから、娘の事故
と、ボーイフレンドの自殺でマスコミが」
「え!!ホンマか!!」
「ホント・・・」
「カヤタちゃん、まずは行きなさいんか」
イチカばあさんが、二人の間に割り込んできた。
「二人とも、──カヤタちゃんもやけど、ヨウもやで。自分のやったことの結果は、よう見とかな
あかん。現実から、逃げたらあかん。見に行こう」

  (第三話へつづきます)