小説(短編1)[ 小癪な神様 ]








小癪な神様

                                       彩木 映 


 目覚ましが鳴った、と思ったらタイマーだった。目覚めたら、鏡の中に、カーラ
ーを巻いてヘアキャップをかぶせられた、頭でっかちのわたしがいた。
「ちょっと、うとうとしてはりましたねー。大丈夫ですか?」
 わたしは3人の美容師に取り囲まれている自分に気がつき、あせった。彼ら
は、わたしの恥じらいなど素知らぬ様子で、くるくるとカーラーを外していく。
「お流しします。シャンプー台へどうぞ」
 お疲れ様でしたー、の声の飛び交う中、わたしはおぼつかぬ足取りで、美容
師の後をついて行く。
 はあ〜。爆睡。夢まで見てた……。
 パーマ液を洗い流し、ブローをしてもらう。所在無く、鏡の中の自分を見つめ
る。美容室にいる時ほど、まじまじと自分の顔を見る時間なんて、そうそうない。
──厚化粧だなあ。
 わたしは、つい、美容室に来る時は、厚化粧してしまうんだ。
 気合を入れて、こぎれいにして行かないと、切る人に、身なりにうるさくない人
だ、という印象を与えて、手を抜かれそうな気がするから。
 同じように、病院にかかる時なんかも、つい、こぎれいにしてしまう。
 好感の持てる相手の方が、医者も親身に診察をしてくれると思うから。
 内科にかかる時だけは、顔色を見せなくちゃいけないんだから、化粧は禁物
らしいけど。まあ、歯医者や眼科の時は、化粧をしても、差し支えないだろう。
銀行やお役所へ行くときも、同じくおめかしをする。スーパー程度なら、スッピン
でも行ってしまうけれども。人と会話する用事の時は、いちいち身奇麗にして出
かけないと、気が済まないのだ。
 いつの間にか、そんな性格になっていた。職業柄だろうか。わたしは、銀行員
の横田さんを、「銀行員のAさん」として見ることが出来ない。医者の楠田先生
を「医者のAさん」として見ることが出来ない。
人を、符号化できないのだ。
 職業で、相手を符号化して見ることが出来れば、もっと楽だろうな、と思うんだ
けれども。
 
 わたしは、不動産会社で物件の販売員として働いている。今年で十五年目に
なる。
 自分が、接客をしてるからだろうか。客の立場になって、サービスを買う時に
は、どうしたって「相手個人」を意識してしまう。
 もしかすると、自分のことが、病院の職員や美容室の職員の間で、話題にな
ることもあるだろうな、と思ってしまうのだ。
 世間には、医者、看護婦、銀行員、店員、警察官、お役人、美容師・・・と器用
に人を符号化して考えることが出来る人が多いものだな、と、わたしはたびたび
思う。わたしには出来ない。
 不動産販売屋のわたしたちに、用件に関係のない身の上話をしたがる人たち
は、とても多い。想像を絶するほどに多い。「自分が精神病だ」とか、「子供が刑
務所に入っている」だの、「夫の所在が分からないが、どうも女のもとにいるよう
だ」だの、「7000万の借金がある」だの。
 このご時世、「国」や「公」、そして「大企業」に対する、期待や不満が、そんな
形で表れるのだろう。身の上話をすることで、自分の苦境を知らせ、衿を正して
仕事をせよ、そんな意図で語られる方もいるだろう。
 けれど、わたしなら、赤の他人に身の上話をするなんて、絶対にイヤだ。自分
と個人的関わりのない人間に、必要以上のプライバシーを知られたくはない。
簡単に、他人に自分の恥部をさらけ出すことが出来る人ってのは、わたしたち
を、「不動産屋の事務員」と、符号化して認識してる人だと思う。
 器用だなあ、と思う。敢えて考えることを避けているのか。そこまで被害妄想
に捉われていない、というか、自意識過剰じゃない、だけなのかな。
 自分が、行った先の職員の間で、いい話のネタにされている、なんていちいち
思ってたら、しんどくてたまらないものね。相手の氏名、住所、生年月日、家族
構成、場合によっては所得まで知っているわたしが、近所に住んで、噂をしてい
るかもしれない、なんて考えやしないんだろうね。もちろん、職業上、「守秘義
務」はあるし、近所の人に噂話なんかしないし、する暇だってないけれども。
わたしも、人を純粋に符号化出来るくらい、疑心暗鬼にかられずに生きられた
ら、楽だろうなあ。神経質なんだよなあ。
 明日は木曜だ。また、不動産業界の一週間が始まる。土、日、月、火、と風邪
をひいてたけど、火曜、一日休みを取って寝込んだだけで、定休日の今日にな
ると治っていた。ラッキーだ。
 それにしても土曜は、しんどかったぞ……。
 この数日、あの土曜の出来事を、繰り返し思い出してしまう。気分を切り替え
なくちゃ、と思いつつ。あれは、疲れたなあ。美容院で夢にまで出てくるなんて
ね。まったく、もう。

 その、風邪がピークに達していた、土曜日の「事件」。
 たいしたことじゃ、ないんだけど。体調が悪かっただけに、つらかった。
 管理職の席の電話なんて、取ったらロクなことはない。
 分かっちゃ、いた。けど、係員である以上、すぐ側で係長席の電話が鳴ってい
るのに、取らない訳にもいくまい。
 柳田係長。本当に、よく席をはずすオッサンだ。しょうもない用事ばっか作っ
て。だいたい、シュレッダーの前にいるではないか。おらオッサン!戻ってこー
い!聞こえてるんでしょー!
 わたしより係長席から遠い、堀川悠可女史が舌打ちをして受話器に手をかけ
た。まずい。受話器を取るパフォーマンスを、しておかないと。堀川女史より、一
瞬遅く、ピックアップするのがテクニック。
 だけど、敵もさるもの。堀川女史の方でも、思惑は同じだったらしく、回線は、
私の受話器につながってしまった。くやしい〜。
 この瞬間芸の敗北が、その日のわたし、佐伯恭子の、受難のはじまりだっ
た。

「マンション販売部販売促進係長席です」
「すみません。総務ですけど。あ、佐伯さん?」
「あ、ハイ・・・岸本さん?どうしました?」
「悪いんだけどね。2階に上がって来てもらえへんやろか。さっきから、もうね
え、おじいさんがどうしても帰ってくれへんの。あなたの係のお客さんだった方
よ。販促係へ行ってもらうよう、案内したんやけど、話が通じなくて」
……ああ。やっぱり。しかもこれは、厄介な予感。苦情処理じゃないか。しかも
老人相手。 
 わたしの机のそばにはダンボール箱が二箱。この600通の案内状を、封入
し、引き抜きをかけて、明日発送しなくちゃいけないってのに。
 こらー、暇な人!出番よー。いい暇つぶしの相手が来たってよっ。
わたしは柳田係長の姿を探した。オッサンはこっちを見ていた。わたしと視線が
合うと、敏感に察知したらしい。さりげなく、トイレに行ってしまった。
 もう〜!逃げ足だけ、天才的に速いんだから。
 総務課の岸本さんは、早口にまくしたてた。
「3人がかりで、相手してるんやけど、どうしようもないわ。困ってんねん。販促
のことは分からへんし。おじいさんは怒るばっかりで。係長に来てって伝えても
らえへん? あんたでもええねんけど。誰でもええわ。来て!」
 岸本さん。何をおっしゃるやら。あなた、7年前まで、販売促進係にいたじゃな
いの。・・・と、面と向かって言えたら、どんなに気持ちいいだろう。
「分かりました。行きます」
 岸本さんの機嫌を損ねる訳にはいかない。相手は57才にもなろうという、年
配の女性なのだ。わたしは37才。20才も年下のヒヨッコにすぎない。しかも彼
女は総務課総務係、文書担当。決裁を早めるのも、遅らせるのも、彼女の思惑
ひとつ。敵に回してはいけない。
 わたしは隣席の早坂奈美に、事情を伝え、2階へ上がった。

 岸本さんの言葉どおり、総務係のカウンターには、小柄な老人が、職員たちと
何やら押し問答をしていた。
「佐伯さん!ごめんねー」
 岸本さんが、わたしを手招きした。途端に、総務係の職員たちは、ホッとした
顔で3歩ほど下がった。
「どうしたんですか」
「この方、中原達夫さんね。厚生年金と個人年金を受けてはるんやけど、振込
みがどうもストップしたらしくて」
「年金・・・」
 えっ。ちょっと待ってよ。
 どうしてそんなことを不動産屋に聞きにくるのよ。
 からっきし分かる訳ないじゃん。
 岸本さんは、当然、そんなことは百も承知だ。わたしを見て、両手を合わせ
た。
「年金をためたお金で、五年前にうちのマンションを買っていただいたらしいの
よ。アンタの販売促進係でね。その時の担当はもう退職しちゃってるし、後任の
アンタにお願いするのがいちばんやと思ってね。耳と言葉が不自由なんよ。筆
談で応対してあげてね」
 岸・本・さ・ん……。
 それって、言いがかりじゃない? 何ちゅう理屈なの。
 けれどぶあついメモ用紙と、ボールペンが、有無を言わさず、わたしの手に押
し付けられた。総務係の職員たちは、波がひくように、自分の席に戻った。
 一瞬にして、わたしは老人と二人、カウンターに向かい合う形となった。とりあ
えず、そこに散らばったメモの山をかき集めて、急いで目を通す。職員が書いた
と思われるクエスチョンマークのついた短文が山ほど。そして、ミミズがのたくる
ような、判読が難しい文字。これがどうやら中原氏の文字らしい。
 こりゃ、ますます時間がかかりそうだぞ。ああ、わたしの段ボール箱たち。意
地でも今日は、7時には帰るつもりだったのに。時計を見た。4時。うーん、絶望
的だ。
 カッカッカッ!と中原氏がボールペンの尻でカウンターを叩いた。わたしはあ
わてて中原氏に視線を向けた。一瞬、驚いた。
 喉の中央に、大きな穴が開いている。
 人工呼吸器をつけている人なのだろうか。何故、取り外して来たのだろう。病
気のことは、分からないけど、大丈夫なのだろうか。
 中原氏は機嫌が悪かった。わたしを、皺だらけのまぶたの下から、にごった
目で睨みつけている。まずい。
 わたしはあわてて書いた。
『マンション販売促進係から来ました。年金のおふりこみがとまっているのです
か?』
『私は後ろ暗いところは無い人間です。出る所へ出るという覚悟も有ります』
震える指先で書かれた文字は、読みにくかった。何とか解読したが、解読して
も、得るところはなかった。
──質問に、答えてくれていない。
 厄介だ、ということだけが改めて分かった。
 思わず眉間にボールペンを当てる。次の質問を考えていると、中原氏は再
度、カッカッカッ!と机を叩き、わたしの注意を惹いた。
 中原氏は、左手に下げたずだ袋の中から、くるくると巻かれた年金証書、振込
通知書、何やら若い女性のものらしい筆跡のメモ──『お金の引き出しには、
印鑑をお持ちください』──、ちり紙に巻かれた印鑑、健康保険証、公共料金
の封書の束、K銀行の預金通帳、などをひとつひとつ、老人特有のマイペース
な仕草で、ゆっくりとカウンターに並べて行った。
 貴重品はいつも持ち歩く習慣なのだろうか。几帳面な印象があったが、持参
品は、どれも何となく薄汚れていた。
 それにしても、証書と、振込通知を出してくれたのは、有り難かった。本人に
聞くより、振込元に照会をかける方が断然早い。
『でんわできいてみます。おまちになっていただけますか』
わたしのメモを見て、老人は表現力たっぷりに、右手を左右に振った。拒絶の
仕草だった。中原氏は、おもむろにその手で自分の首の穴をふさいだ。苦しげ
な様子で、彼は初めて声を出した。
「銀行、に、きいても、わかり、ません。うそ、ばかり、つく人、たちです」
 わたしは以前、娘とおもちゃ屋で見たファービーの声を思い出した。かすれ
た、金属的な声だった。必死で声を絞り出すたびに、喉の穴と皺だらけの指の
隙間から、ブガガ、ブガガ、と空気が漏れる。
「銀行ですか?」
 相手が喋ったので、思わず自分も言葉で聞き返した。中原氏は首を横に振
り、ボールペンをわたしに差し出した。書けというのだ。わたしは書いた。
『ぎんこうへは問い合わせをしましたか?』
 中原氏は首を縦に振り、再び喉を指でふさいだ。
「おそろし、い、人たち、です。私、は、突き飛ばされ、ました。大き、な、男
の、人が、三人、がかりで、私、を取り、囲み、ました。あの、人達は、信用
して、は、いけません」
「……」
 意味が分からないが、厚生年金と個人年金のどちらか、または両方を、K銀
行で受け取っているのだろう。そして中原氏はK銀行へ行き、おそらく苦情で食
い下がって、トラブルになったようだ。
『Kぎんこうではなく、社会保険庁と保険会社にでんわをかけます。まっていた
だけませんか?』
 中原氏は納得したようだった。威厳たっぷりに彼は頷いた。言葉が不自由だ
からだろうか、氏のジェスチャーには、表現力があった。
 総務係の職員は、黙々と仕事をしている。しんとした中で、声をかけるのも気
がひけたが、近くの若手の男性に声をかけた。
「すいません、椅子と電話、お借りしてもいいですか?この椅子、あいてま
す?」
「あ、どうぞ……」
 借りた椅子を、カウンターの外へ運び、中原氏に座ってもらった。
その側を、大きな紙袋と鞄を持って、岸本さんが通り抜けた。
「ごめんねー、よろしく」
 彼女は囁いて、エレベーターの中に消えて行った。
 ええっ?岸本さん、外出するのー?
 会議かな。ま・さ・か、早退じゃ、なかろうな〜。どっちでもいいですけど。とに
かく、あなたは消える訳ね。だから、わたしに仕事をふったんだ。それも、ひとつ
の手じゃあるよね。わたしには、ダンボール箱いっぱいの、郵便物の発送があ
るんだけどね。あなたには関係ないものねえ。
 ため息をついて、受話器を取る。電話に罪はないが、ボタンを押す指に、つい
必要以上の力が入ってしまう。総務係の若い女子職員が、チラッと私の様子を
窺っている。ごめんね、お騒がせ。よかったら、アナタが、やってくれてもいいの
よー? ……何でわたしが。もうっ。
 まず、社会保険庁に、証書の番号から、厚生年金の振込み状況を確認しても
らった。現況届(誕生月に提出する、生存申立のハガキのことだ)は提出してい
るので、年金の振込みは止まっていない、との答えだった。
 保険会社の回答も同じだった。個人年金の受け取り場所も教えてもらった。S
市役所の近所の、K銀行の本店だった。
 応対した職員に、耳と言葉の不自由なおじいさんが、何が目的で来庁されて
いるのか分からず困っている、という事情を説明した。保険会社の職員は、親
切に、中原氏が最近、住所と印鑑の変更届をされていることも、検索して知ら
せてくれた。
「住所の変更届をされていますから、ひょっとしたら、振込み通知が郵便の転送
の関係で遅れているという可能性もありますね。印鑑も、変更されていますが、
新しい印鑑を本人さんが勘違いされている、ということもたまにありますし。振
込み自体は止まっていませんよ。こちらから、K銀行に、送金しています」
「はあ…、で、ええと、K銀行さんからお金を引き出しているかどうか、ということ
は、そちらでは分かります?」
「ああ、それは無理です。K銀行さんに確認してください」
「あ、それは、そうでしょうね。分かりました。ありがとうございました」
 受話器を置いて、ため息をついた。
 結局……。結局、K銀行なのだ。K銀行 vs. 中原氏の争い(?)に、我がW
不動産が巻き込まれているのだ。K銀行に、確認を入れるしか仕方ない。ああ
何だって、わたしが。
 迷ったが、ごねられてもしょうがないので、中原氏の許可は得ずにK銀行に電
話を入れた。K銀行は、仕事で時々やりとりのある相手先なので、話はしやす
い。
 まさか銀行の職員が、債務を背負っている訳でもない老人に暴力を奮うなん
て、考えられない話なのだが。
 電話を取ったK銀行の職員に、中原達夫氏という高齢の男性が、K銀行の職
員に暴力を奮われたと言っているが、最近それに類するような騒ぎはありませ
んでしたか、と聞いた。しばらく待たされて、出て来たのは、主任を名乗る男性
だった。
「どうもすみません。ご迷惑をおかけしているようで。中原様は、確かによくご来
店されているんですよ。申し訳ないです。今から、わたくし、すぐ伺います・・・え
えと、マンション販売促進係さんでいいんですかね?」
「お越しいただけるんですか?」
 その声は、天の声に聞こえた。当事者同士で話し合ってもらえるのだ。わたし
が自分の仕事に戻れる時間は、案外早く来るかもしれない。
「ああ、そうお願いできれば助かります。お手数ですが、よろしくお願いします。
総務係に来てらっしゃるんです。2階です」 
「分かりました。えーと、資料を出してから行きますのでね、20分くらいかかりま
すが。じゃ、今からお伺いします」
「ご本人さんが、長い時間、待っていらっしゃるので、すみませんけど、なるべく
お早めにお願いしますね」 
 20分、か…。受話器を置いて考えた。ああ、この間に、ダンボール箱をここに
持って来て、発送作業が出来たらなあ。
 ちっ。時間を浪費するだけの妄想だ。やめたやめた。
 とりあえず、中原氏に説明しなければならなかった。本人が納得しない間に、
K銀行の職員が現れたら、激怒されるかもしれない。まあ、しかし、喉が不自由
な老人なので、激怒されても、フロア全体に響き渡るような大騒ぎには、なりよう
もないのだけれど。が、総務部長席も近いことだし、気を使う応対ではある。
『どちらの年金も、ふりこまれているそうです。K銀行の主任が、今からご説明に
うかがうと言っています。20分ほどかかります。非常にもうしわけございません
が、おまちになっていただけないでしょうか』
 筆談は、難しい。こんな文で、わたしの意図が分かってもらえるだろうか?中
原氏の様子をうかがう。案の定、彼は顔をしかめた。
『K銀行の人は呼ばないでください。信用出来ません。鬼のような人達です。私
は恐ろしいのです』
 鬼のようなK銀行? って、そんな馬鹿な。だって、主任はここまで、すぐに飛
んで来てくれると言ったではないか。随分、懇切丁寧な応対のような気がするけ
ど。郵便局だって、そこまでしてくれるだろうか? 不動産屋の職員が、気難し
い老人の応対に困っているから、飛んで来てくれるなんて。
『K銀行の人は、しんせつに応対してくれました。わたしが話をした主任さんは、
すぐにここまで来てくれると言ってくれました。優しそうな声でしたが?』
『力の弱い者は、強い者に虐げられるのです。病院もお役所も皆然りです』
「……?」
 長く書くほど、互いに字が雑になってくる。わたしの字は、読んでもらえている
んだろうか?中原氏の書く文章も、手が震えて筆跡も読みにくく、また解読した
ところで、内容も分かりづらかった。
『わたしたちの応対に、何かご不快な点がございましたか?』
『人間が違うのです』
『ちがうというのは、だれとだれがちがうのでしょうか?』
『銀行の人間は駄目です』
 少し、安心した。中原氏の不満は、専ら郵便局に向けられているようだ。
『来るのは主任です。管理職の人です。責任をもってお答えしてくれると思いま
すが?』
『私に危害を加えないと保証があるか分かりません』
『大丈夫です。危害は加えません』
 長いようで短い20分だった。音を介さないコミュニケーションの難しさに、四苦
八苦しているうちに、汗だくの、日焼けした制服の男性が現れた。K銀行の主
任だった。やった!
 わたしは、ほっとした。
「どうもー。暑い中、お越しいただきまして、申し訳ございません」
「いえいえ、こちら、こそ……」
 主任は肩で息をしていた。小太りなので、余計汗が出るようだった。彼はタオ
ルで顔と頭と首をぬぐった。
 主任は、ひと息つくと、スーツケースを置いて、わたしに囁いた。
「中原さんは、常連の方なんです。こういうことを申し上げて、何なんですけど
ね、わたくしどもも、応対に往生しとりまして・・・特別待遇なんです。いつも応接
室にお通しするようにしてるんですよ」
「そうなんですか?どうして……?」
「実はですね。何度も同じ振込みをおろしに来られるんでして。一度引き出した
年金を、引き出していないと言い張る方なんです。こういうケースは、お年寄り
に、時々いらっしゃるんですが。中原さんの場合、ご家族も協力的ではなくてで
すね。おうちに電話しても、またですか、すみませんね、帰るように言ってくださ
いとおっしゃるばかりで、迎えに来てくれる訳でもなく、ご本人も、しつこいという
か、納得してもらえなくて」
「えええっー!」
 わたしは、驚愕した。
 予想しなかった展開だった。わたしは、保険会社の職員の説明から、住所変
更、または印鑑変更にからんだ、トラブルだと思っていたのだ。
 まさか、中原氏が痴呆だとは。中原氏は、大正生まれの、80代。にしては、
漢字もよくご存知で、話は噛み合わないけど、頭はしっかりしている、と思って
いたのだ。
 これは……厄介だ。まずい。時間がかかりそうだ。
「そんなこととは、知らず……。そちらで、暴力を奮われたとおっしゃるのです
が、それも、どこまで本当なんでしょう。どうしましょう……」
「私がこれから、ご説明いたしますから」
 その言葉に一抹の光をみた。
わたしは、じゃあ、用済みかな?
 主任はわたしの心を読んだように、早口で言った。
「あなたも立ち合ってくださいね。人数が多い方が、納得していただきやすいで
すから」
「ハイ……」
 やっぱりね……。うう、段ボール箱〜。ああ、それよりも、係長に報告しとかな
いと、油を売っていると思われかねない。自分の升で人をはかる人なんだから。
「電話お借りします」
 ファイ、と鼻で返事する総務係の若い男の子の席の電話を取って、柳田係長
に電話をかけた。
「……という訳で、長引きそうなんです。すみませんが」
「ああ、どうぞ。ごゆっくり。こっちは、お客さんも今日は少ないし、まあ大丈夫や
ろ」
 どうぞ、ごゆっくりだと〜。わたしは好きでここにいるんじゃないぞ!偉そうに、
もおっ……係同士の苦情処理の押し付け合いなんて、本当は管理職対応が原
則なのに、どこ吹く風。
係長の責任逃れの好きなことと言ったら、まるで趣味に見える。保身のために
は、嫌われることを苦痛に感じなくなってしまった人なのだ。ある意味、ツワモノ
だといつも思う。その境地に達することが出来れば、わたしも、もう少し楽に仕
事が出来るかもしれない。が、そんな度胸はないな。私は小心者なんだよな
あ。
 戻ったら、K銀行の主任が、中原氏と筆談を開始していた。
『今日は、何のご用件でおこしいただいたのでしょうか?』
 あ、なるほど!目からウロコ、の気分だった。まず、最初から本人と話を始め、
意図を確認すべきだ。それが本筋だ。わたしの聞き方はまずかったかもしれな
い。さすが、主任。
 だが、中原氏の態度に進展はなかった。
 彼は無言で主任に、自分の所持品を、大切そうに並べ直して、指し示した。振
込通知と証書を、パンパン!と叩く。何を意味しているのだろう。自分の金だ、と
言いたいのだろうか。
「……」
 主任は、ため息をついた。
『おふりこみに対しては、おととい、局でご説明したとおりなのですが』
『私は海軍兵でした。戦時中は国のために尽くし、戦後も真面目に生きてきまし
た。年を取って、病気になっても何とかやっております。そんな私を、あなた方は
何故愚弄するのですか』
「困ったな・・・」
 主任はつぶやいて、首をひねっていたが、金釘流の字で続きを書いた。
決してきれいな文字とはいえない。中原氏の文字はミミズのような達筆だし、私
の字だって、女のわりには、相当雑なものだ。三者三様に、どうにも仕様のない
筆跡で、よくまあ、意思の疎通が出来たものだ。
『ぶじょくするつもりではありません。ただ、一度引き出したお金は、ゼロになり
ます。次のふりこみがあるまで、引き出しは出来ないのです』
『私はそんなことを言っているのではない』
『では何が』
 不満、と書きかけて、主任は思い直して書き直した。既に、書きつぶされたメ
モの束は、数十枚にのぼっている。
『失礼にあたったのでしょうか』
『皆が私を嘲笑します。年を取るのはそんなに悪いことですか。人間の尊厳の
問題です』
『ちょうしょうはしていません』
『あなたには分かりません』 
『K銀行の職員はいつもお客様第一です。私が責任を持っていつも教育してい
ます』
『駄目です』 
 わたしは、うんざりしながら、二人のやり取りを傍観していた。朝、飲んだ頓服
の解熱剤が切れてきたようで、頭がぼうっとしていた。
そもそも、K銀行の対応への苦情に、何でわたしが、という気持ちが、正直あっ
たものだから、わたしは最初、半歩ほど二人から離れて立っていた。
しかし、途中で、この二人の筆談が終結しない限り、仕事に戻れないんだ、とい
うことに気がついて、主任に、自分なりの助け舟──主に、中原氏の文字の解
読に関するものだったが──を出しながら、付き添い続けた。
 主任が来てから、1時間近く経った頃、チャイムが鳴った。
 いやーん! 6時15分だ!!
 嘘〜お! もう、呼び出されてから、2時間以上もたってるなんて。
 ふいに、背中に汗が流れているのを感じた。会社は、経費節減のため、普段
来客のない部署は6時で冷房をストップするのだ。何人かの職員が、いそいそ
と退社していく背中を、恨めしく見送る。暑い……。
 私はたまりかねて、二人の筆談に割り込んだ。
『前回のふりこみは確実になかったのでしょうか』
『振込は、ありました。次は再来月です』
「えっ!!」
 思わず、私と主任は顔を見合わせた。
 主任はボールペンをメモ用紙に走らせた。
『今日はお振込の件ではないのですね?』
『人間性の問題なのです』
『何が失礼にあたったのでしょうか』
『応接室に通されます。何故私だけが応接室なのですか』
「ああ……!」
 はからずも、主任と私は、感嘆の声でハモった。
「応接室に通されるのが、気に入らないみたいですね」
 主任はわたしに向かって、小声でつぶやき、得心した様子で頷いた。
『応接室にお通しするのは、座ってお話を、ゆっくりうかがうためなのです。お気
を悪くされているなら、今後気をつけます』
『信用できません。証拠がありません』
『私が、局に帰って皆に伝えます』
『皆に伝えて、また笑うのでしょう。あなた方は、分からないと思っているかもし
れません。しかし、相手には分かっているものです。馬鹿にしてはなりません』
 また笑う?
 わたしは不審に思い、またメモに割り込んだ。
『ぎんこうの職員が、中原さんを笑うのですか?』
 老人は、再び喉の穴を指で塞いだ。ブガガ、ブガガ、という何とも耳障りな音と
ともに、彼の機械的な声が聞こえてきた。
「いつも、笑います。聞こえ、て、ないと、思っ、ているで、しょう。耳、が、悪
く、ても、伝わっ、てくる、雰囲気が、あります。私、が行、くと、受付、の女、
の子たちが、また来た、とこそこそ、言って、告げ口、するのです」
「ああー……」
「……」
 ──そうだったのか。
 しばらくの無言のあと、主任はゆっくりと書いた。
『今日は、おふりこみの件ではなく、ぎんこうの受付の職員の、態度にたいする
ご指導だったのですね?』
 中原氏の目が、輝いた。
 彼は、何度もうなづいた。ようやく自分の伝えたい気持ちが伝わった、という喜
びに表情が輝いていた。皺だらけの顔、充血した瞳さえ、生き生きとして見え
た。
 主任は、中原氏に、頭を下げた。そして、続きを書いた。
『申し訳ございませんでした。たしかに、顔見知りのお客様がいらっしゃれば、
私たちは、耳打ちをすることもあります。お客様の中には、それを不快に思う方
も大勢いらっしゃることでしょう。これは、中原様だけの問題ではありません。他
の方に対しても、失礼です。ご指導、たしかにうけたまわりました。ありがとうご
ざいます。今後、K銀行職員一同、さらに一丸となって、サービス向上に努めま
す』
「あ、りがとう、ございます。私は、……」
 中原氏が咳き込んだ。わたしは、彼の咳がおさまるのを待って、ボールペンを
差し出した。中原氏は、震える指で、しっかりと書いた。
『お国のために尽くしました。年を取っても、矜持を保って生きるよう、心がけて
おります。私たちのような、弱い立場の者の声は、なかなかお上や大企業の方
には届かないものです。が、あなた方が理解して下さって、安堵しました』
「年を取っても…?」
「きょうじ──矜持、でしょうかね。プライドとかいう意味の」 
「ああ…」
中原氏は、ペンを置いて、右手で喉の穴を塞ぎながら、主任に左手を差し出し
た。
「あ・り・が・と・う」
 そして、主任の手を、しっかりと握った。主任は、握手しながら、もう一度深々
と頭を下げた。
 中原氏は、わたしにも両手を差し出した。わたしも、頭を下げながら、彼の手
を握り返した。
大袈裟だな、滑稽な芝居みたいだな、とどこかで思いながら、だけど感銘を受
けたのも確かで、わたしは彼の手を握り返した。
 そして、V・I・Pを送り出すかのように、エレベーターの扉を押さえながら、主任
とわたしは、中原氏をお見送りした。中原氏は、実に意気揚揚と引き上げて行
った。
 残された主任とわたしは、中原氏とのやり取りが残した、顧客サービスに対
する反省の気分に捕らわれたまま、妙〜に丁寧に挨拶を交わした。
「今日は、私どもの責任でご迷惑をおかけいたしまして、まことに申し訳ござい
ませんでした。これで、失礼させていただきます」
「いえいえ、こちらこそ、お忙しい中お呼びたてしまして、申し訳ございませんで
した。本当に助かりました。どうもお疲れ様でした」
 主任は汗をぬぐいながら、階段を降りて行った。わたしは中原氏の座っていた
椅子を総務係に返却し、書き散らしたメモを、他の人間に見られてはイヤだな、
と思ったので回収し──とんでもない量だった──中原氏や主任に鉢合わせ
しないよう、裏の階段から、降りた。
 自分の席に戻ると、6時半だった。残業していた、早坂奈美と堀川悠可が、顔
を上げた。係長はとっとと帰っていた。ふんっ。
「遅かったねー。ずっと応対してたん?お疲れ様」
 奈美が私に声をかけると、堀川女史も続けた。
「佐伯さん、ずーっと帰って来はらへんから、どこへ行ったんやろって言ってたん
ですよ」
 堀川女史の言葉に、ムッとした。毎度ながら、むかつく後輩だ。この係では、、
彼女が最年少ながら一番のベテランだけに、態度がでっかい。それにしたっ
て、コイツの言葉にはいつもトゲがありすぎる。わたしが油を売ってたとでも言う
ような口調だ。だから、係長に、内線で連絡したではないか。係長だって、連絡
を受けたことを、いちいち皆に報告して回る、というのは無理な話だ。どないせ
えっ・ちゅう・ねん!イヤな女―!!
 私は堀川女史を無視し、奈美に話しかけた。
「見てよー、もおっ、このメモの束!全部筆談なんだから」
「ええー。耳が遠い人やったの。お疲れやったね」
「90才近いおじいさんよ。しつこくってねー。しかも年金のふりこみがどうのこう
のって」
「え! 何それ? うち、雑務担当ちゃうやん。総務に、はめられたの?」
「岸本さんにね」
「岸本さんねー。…そりゃ、逆らえへんよ。しゃあないね」
「でしょ?もう」
 メモの山を、バリバリとシュレッダーにかけていく。シュレッダーというヤツは、
この殺風景なオフィスの中で、数少ない『癒し系』の事務機器だと、私は密かに
思っている。ストレスの痕跡が粉微塵になっていくのは、ちょっとした、快感だ。
 それから携帯で家に電話をかけた。
「もしもし?まなみ?パパは?…まだ?そう、ごめんね、ママ、あと2時間くらい
お仕事するからね、冷蔵庫のおかず、チンして食べておいてね」
9才になると、娘もだいぶしっかりしてくるものだ。
「分かった。テレビにママの好きな木村クンが出てるでー」
「んー、また来週見るよ。火を使っちゃあかんよ」
「うん」
 こういう時、堀川女史の近くで家族に電話するのって、かなり意地悪いけど、
気分が良かったりする。彼女は32才にして、未婚なのだから。そーそー、アン
タみたいにカリカリしてちゃ、幸せは来ないよー。って、わたしは幸せなのかし
ら。少なくとも今は不幸だな。熱あるし。
 わたしはひりひりする喉に、気に入りのノド飴を放り込み、段ボール箱の中を
掘り返して、案内状の発送作業に取りかかった。奈美の机に、飴を3つ置いた。
奈美は、「ありがとー」と、飴の袋の皮を向いて、口に放り込む。無論、堀川女
史にやる飴なぞ、ありやしない。
 気がついたら、8時になっていた。私の頭痛はピークに達し、寒気がして来て
いた。こりゃまずい。明日は休めない。私は帰ることにした。
 机の周りを片付け、鞄を出すと、奈美が叫んだ。
「ちょい待ち!8時やん!私も帰る!」
「わたし、急ぐねんでー。待ってられへんわ」
「これあげるから、ちょっと待って」
 奈美はクッキーの袋をわたしに放ってよこした。わたしはクッキーを口に放り
込んだ。何個か目のノド飴が、まだ口の中に入っていた。
「あー、ノド飴と混じって、クッキーの味、よー分からんわ。でもお腹すいたから
味なんかどうでもええわー。なあ、オバサンってイヤやね、堀川サン」
「……」
 まだ残業するつもりらしい堀川女史は、顔を上げて疲れたような暗い微笑を浮
かべた。
「帰るでー」
「お疲れ様です」
「おっ先―。ごめんねーっ」
 通りすがりに、堀川女史の机の上に、無造作にノド飴を2個放り投げてやっ
た。
 果たして、彼女がそれを食べたかどうかは知らないが。
 空には、きれいな満月が浮かんでいたが、堪能する情緒も何もあったもので
はなく、奈美と私は駅へひた走った。
「次13分やわ!」
「ってことは私は15分!」
 彼女は下り、わたしは上りの線に乗る。駅まで、走ればほんの4分ほどの距
離。本当は、一緒に帰るほどのことでもないのだ。走るのだから、たいしたこと
が話せる訳でもなく。けれど、反堀川派閥の形成には、こうしたひとつひとつの
積み重ねが、いかに重要であることか。くだらないなあ。
 奈美と別れ、電車に乗った途端、眩暈がした。忘れていた寒気が、一気に背
中を這いのぼってきた。わたしは額を抑えて、座席に崩れこみ、大きなため息を
ついた。
 気分が悪い。ああ、しかし気力で明日を乗り越えれば、明後日は土曜で休
み。頑張れ、わたし。社員のプライド、──矜持にかけて、明日の発送を逃す訳
には、いかない。
 矜持、か……。
ふと、中原氏のことを思う。彼の矜持は、まことに結構だけれども、随分、人騒
がせな矜持だったな。
無論、学ばされる面は、多大にあった。
とりわけ、職員が、特定の客を見たら、目配せしたり、耳打ちしたりすることに、
相手は気付いてるんだぞ、という苦情を、真正面から指摘されたのは初めて
で、今後気をつけようと思う。相手がどんな人間であれ、失礼に当たる態度だ。
ありがたい言葉だった。
 と、思う一方で、してやられたな、という悔しさもあった。
 中原氏は、痴呆が本当に入っているのだろうか?信じられない。
ないお金を何度も引き出しに来る、というのは、明らかに、痴呆にありがちな症
状である。けれど、彼が今日行ったことは、彼に、自分の矜持を他人に示す、大
きなカタルシスを与えたと思う。よくぞ、わたし達の、自分でも気付かなかった欠
点を、鋭くついて、わたし達に感銘を与えたものだ。
彼は、銀行で気を悪くしたため、自分が随分前に顧客となった不動産屋に来
て、銀行を呼びつけたのだ。ある意味、うまい手ではある。頑として帰らない以
上、こちらとしては、間に入ってあげるしかないのだから。彼ひとりのために、総
務係の人間まで含めると、いったい何人の人間が、何時間、てんやわんやした
ことだろう。
 わたし達には、弱者の立場を理解出来ていない面がある。それは、もっともだ
けれども。中原氏も、わたし達の立場を理解してはいない。
彼は、「符号」で、「お上」をひとくくりにしてしまっている。
現代社会を構成する企業や役所が、公然とは老人を冷淡に扱えない今の時局
を十分に理解している。職務に関係のない人間をも、自分の「矜持」を満足させ
るために利用している。反面、「符号」になりきっていない、わたし達に、もっと
完璧な符号に徹しろと、求めるのだ。
 弱者のひとりひとりが、そんな矜持をまかり通してしまったら、わたし達は身体
がいくつあっても足りない。年寄り笑うな、行く道だ、って言うけれども。憂鬱だな
……。高齢化社会。
 あかんわ、わたし。体調が悪い時って、暗い方に、暗い方に、物事を考えてし
まう。
 ともあれ、悪い人じゃなかった。最後は満足して、礼儀正しく挨拶して、帰って
下さった。若い時から、折り目正しい人だったにちがいない。
 わたしの風邪など、数日で治る。でも、彼の喉の穴は、終生あのままなのだ。
 何て、気力なのだろう。身体のつらさから言うと、今のわたしより、彼にはつら
かった数時間だろう。年老いた身体で、よくぞ「矜持」のために、あれだけの粘
りを発揮出来るものだ。わたしが年老いた時、あんなにプライドの高い、しっか
りした老人になっているかどうか?
 あやしいものだ。
──とはいえ、気に入られて、何かある度に、わたしを呼び出す「得意客」にな
られては、厄介だなあ。というのも正直なキモチ。
 さよなら、中原さん、お元気で。
 わたしは、家に向かう道の途中で、今度は少しゆっくりと満月を眺めて歩きな
がら、つぶやいた。
 ……どうぞ、お元気で。これからもお変わりなく。
 もうお会いすることもない、ことを、祈ったりしちゃ駄目かなあ・・・?
                                        〈おわり〉
                                  (2002.2.7改稿)

☆この物語はフィクションです。実際の団体や人物とは関係ありません。












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