小説(短編2)[ 先生は空を二回飛んだ ]


先生は空を二回飛んだ

                   文・絵  彩木 映





 



 過ぎてしまえば何ということもない話だけれど、わたしは殺人に三度関わったことがある。
 どうでもいい話だ。普段は忘れているくだらない話。
 けれど今回、教育実習で母校の高校へ行く羽目になって、じんわりと心に浮かんでくる感慨
がある。わたしは人を殺したことがあるんだなぁ、と。
 わたし、牧野水絵は十三歳で初めて人殺しに関わった。わたしに性的暴行を加えていた義
父を殺したのだ。当時の彼氏に頼み、義父を轢き殺してもらった。その事件のあと、わたしは
すこし面倒な思いをしたけれど、ややこしい手続きが過ぎてしまえば、とりあえずのハッピー・エ
ンドだった。不感症になってしまった、という後遺症のほかは。
 でもそんなことはたいしたことじゃない。戦争のニュースを見てよく思う。戦場の子供ならば五
歳で殺人の歓びを知っているかもしれない。わたしは十三歳まで知らなかった。平和なもの
だ。
 それから、十四歳のとき、別の元彼に頼んで、対立していたグループのリーダーの女を輪姦
させた。女は、顔の大怪我を気に病んで、自殺した。女の顔を切り裂いて、と男に頼んだのは
わたしだ。彼女については、別に生きていても良かったけれど、死んでも良かった。女の鬱陶
しい顔が目に入らないようになりさえすればどうでもよかった。まぁ彼女が死んで私には幸運だ
ったのだろう。妙な恨みを買わなくて済んだし、何も面倒な思いはせずに済んでしまったから。
自殺だもの。自殺する奴は馬鹿だ。負け犬だ。負け犬は、尻尾を引っこ抜いてやったらいいの
だ。わたしはそう思っている。
 それからわたしはふいに、『いい加減、カタギになりなさい』という母の意見に従う気になっ
た。勉強は得意だったのだ。結構なプライドになるほど。そんなことがプライドになるなんて、情
けないだろうか。でもルックスも気に入っている。わたしはナルシストなのかもしれない。それが
わたしの欠点。なんてね。バカだ。
 話を戻そう。わたしが殺人に関わった三人目は、高校時代の担任だった。十八歳のときだ。
でもあれは故意じゃない。いや、悪意はあったけど、殺そうとまでは思っていなかった。
 それが、問題のあいつ。担任の帆谷だ。奴はわたし達が苛め過ぎたのが原因で、自殺を図
った。が、未遂に終わった。帆谷の自殺未遂は、今頃になって困った要素となった。今から奴
と鉢合わせしなくてはならない。面倒だ。まぁ、別にいいけど。わたしだけが苛めていた訳じゃ
なし。
 二十二歳になって、わたしは至極平凡な女だ。派手すぎず地味すぎず。自分に忠実に、自分
で自分の身を守る力を身につけながら、平凡に生きてきたと思う。これからも平凡な人生を歩
むのだろう。
 わたしは、教師になるつもりだ。もう人を殺す機会もないかもしれない。あるかもしれない。そ
れはそのとき考えることだ。
 わたしは鏡を見つめた。一日に一時間弱は鏡を見つめていると思う。若い女はみんなそんな
ものだろう。よほどのブスじゃないかぎり。
 細い小柄な身体、健康的な薔薇色の肌、毛先をシャギーにした黒髪。すっきりと伸ばした背
筋。若さと生命力の塊のような娘が、わたしを茶色の瞳で見つめ返している。うん、いけてる、
わたし。牧野水絵。美人だぜ。

 新緑の季節を過ぎ、六月の木々の緑が、朝の澄んだ空気の中、目に眩しい。朝練をするテ
ニス部の生徒の高らかな掛け声。黄色のボールがコートにポーンと弾む小気味良い音。懐か
しい風景、音、香りがわたしを包む。
 市立八木田高校は、駅からの勾配が厳しい坂の上にあった。朝、七時半。わたしは、紺のス
ーツに身を固め、急な坂を自転車で一気にこぎ上がり、母校八木田高校の正門へ到着した。
 これから一ヶ月、わたしは八木田高校に通うことになっている。教育実習生という身分ではあ
るけれども、教える側として通う立場になったのだ、という感慨がわたしを捉えていた。何より
も、自転車で校内に乗りつけることの出来る、この快感。高校時代、自転車通学は禁止されて
いたのだ。わたしは悪友たちと共に、しばしばこの校則を破った。自転車で高校の近所まで乗
りつけ、場所を適当に決めて集団で駐輪した。コンビニエンスストア、スーパー、マンションな
ど、格好の自転車置き場はたくさんあった。それで何度か、生活指導の教師にお灸を据えられ
たことがある。一度、自転車のサドルを持って行かれた。あの時はたまげた。やられた! と
思った。サドルのない自転車がずらりと並ぶ側に、ダンボールに大きくマジックで書かれた看
板がくくりつけられていた。
 『サドルは明日まで保管とする。保管時期を過ぎれば廃棄とする。皆の名前はこちらで記録し
ているので必ず取りに来るように。取りに来なかった場合は別途処分あり。山口』
 山口は厳しいことで有名な社会科の名物教師だった。わたしたちが集団でサドルを取りに行
くと、竹刀でお尻を一発ずつはたかれて、ようやく返してもらえたものだ。それでも、わたしたち
は懲りずに自転車通学を繰り返し、教師たちと激しいデッド・ヒートを繰り広げたものだった。
 それも今は昔、だ。昔々のものがたり。ふふ。
 自転車を軽やかに校内の駐輪所に止めながら、鼻歌でも出そうな気分だった。早速、上履き
に履き替え、職員室に向かう。まだ、わたしの担当となる国語の生田教諭は出勤していなかっ
た。
 「お! 牧野やないか」
 「あーっ! ……山口先生! おはようございます」
 ちょっと慌ててしまった。現役時代、さんざん叱ってくれた山口教諭が、ジャージ姿で団扇を片
手に目の前に立っていた。
 「何や。牧野。そうか、教育実習やな。お前もそんな年になったんか」
 「ハァ、そうなんです。どうぞよろしくお願いします」
 「そうか、まあ座れや」
 意外にも親切に、山口は空いた椅子を示し、わたしに座るよう促した。おとなしく座るしかな
かった。内心、来るタイミングが悪かった、と自分を呪う。初日だからと張り切って、早く来すぎ
てしまったか。あまり早い時間に出勤すると、どこの職場でもこういう高血圧タイプの人間が意
気揚揚と朝からテンションを上げているもの。今のバイト先でもそう。ふと、可笑しくなる。
 「最近、どうや」
 抽象的な質問だ。曖昧に微笑んでみる。ボチボチですワ、と高校時代なら答えるところだ。
が、それは自粛した。大人の会話をしよう。
 「そうですね、マイペースでやってます」
 「就職は決まったか。教職一本か?」
 「ええ」
 「正直に言うたらええねんぞ。まあ無理か? 教育実習を受ける以上、会社訪問してるとは言
いにくいやろうからなァ」
 山口は台詞を自己完結させてしまった。コイツは、もう。少しむかつく。コイツのこういうところ
は、昔から変わっていない。
 「わたしは本当に教職一本でいくつもりなんです。……企業も訪問してますけど、教育関係ば
かりです」
 「そうか。科目は何や」
 「国語です」
 「ああ。じゃ、生田先生につくんか?」
 「ええ、そう伺ってます」
 「そうか、あの先生はええ先生やぞ」
 「そうですか……」
 生田教諭は五十代、ベテランの女性教諭だ。八木田高校には二年前に赴任してきたとのこ
とで、在学中の面識はない。そのほうがやりやすい。教師の側にしてもやりやすいだろう。
 事前打ち合わせをしているので、生田の顔は知っていた。なかなか、一筋縄ではいきそうに
ないオバサンだ。苦労していそうな刺々しい頬骨が印象に残っている。性格、キツイだろうな。
厄介だな。いいけどさ。でもあまり疲れたくないな。
 山口と話を交わしているうちに、他の教諭たちも続々と出勤してきた。
 「おはようございます」
 「暑いですねぇ」
 朝の挨拶が飛び交う。
 「おはようございます」
 車椅子が山口の側を通りかかった。山口に挨拶した車椅子の教師の顔を見て、わたしは、
ぎくりとした。
 帆谷だ。数学の帆谷寛(ほたに ひろし)は、わたしに気づかなかったようだった。気づかない
ふりをしたのかもしれない。
 わたしの中で、帆谷は死人だ。死人に再会するなんて縁起が悪い。けったくそも悪い。車椅
子を使う悪霊。くそったれ。死ねばよかったのに。
 帆谷は、わたしが高三の時の学級担任だった。二学期までだったが。
 三学期、冬休みを終えて登校したわたしたちの前に、帆谷は姿を現さなかった。朝のHRは、
誰も来ないままに過ぎ、そのまま一時間目に入った。いつもと変わらない一日は淡々とすぎ
た。誰も帆谷のことなんて考えもしなかった。終業のHRになってやっと、そういえば帆谷がいな
い、と皆が思い始めたのだった。帆谷が来ないのには困った。帰宅できないからだ。勝手に帰
る? どうする? とクラスがざわつきはじめた頃だった。
 わたしたちのクラスに姿を現したのは、担任の帆谷ではなく、当時学年主任をしていた山口
だった。
 「帆谷先生は、残念ながら怪我のため当分学校を休まれることになった。家のベランダから
落ちられた、とのことなので、重体で、君たちの来月の卒業式にも出られるかどうか…」
 山口の声は、沸き起こった歓声にかき消された。わたしも後ろの席のミヤモ(友人である)と
手を取り合って飛びあがり、喜んだ。
 「やったァー!」
 「ィヤッホォー!」
 「死ね、死ね〜!」
 「くっさいよなぁ!」
 「ベランダって、自殺ちゃうんかぁ?」
 「もっとはよ死ねば良かったのに」
 「まだ死んでへんって」
 「あ、そっかー。殺してもうたがな」
 歓声は、山口が教壇をこぶしで叩いたので、静まった。
 「お前ら……」
 山口は絶句した様子だったが、何とか先を続けた。大袈裟だなぁ、と思った記憶がある。
 「お前らには人の心があらへんのか。覚えとけ、今笑ったヤツは一生後悔すんぞ」
 柔道部の曽我部が立ち上がり、山口の口調を真似た。山口へのあからさまな反抗は、身体
が大きいからこそ出来ることだったと思う。
 「聞いたかぁ? 覚えとけ、今笑ったヤツは一生後悔するってよー。おー、怖ぇ〜」
 「ギャハハハハハ!」
 けれど、山口のあの時の台詞は正しかったのかもしれない。現に今、わたしは帆谷を現役時
代苛めたことについて、かなり後悔し始めている。というよりも、帆谷との腐れ縁を呪っている、
という方が正確か。これから一ヶ月だもの。どこかで帆谷と鉢合わせたらどうしよう。気まずい
よな。
 「牧野さん?」
 気がつくと、指導担当となる生田が、クラス名簿を胸に抱えてわたしの顔を覗き込んでいた。
 「あっ、生田先生。おはようございます。これからよろしくお願いします」
 「いえこちらこそどうも。まず、最初はわたしの授業を見学してもらいます。見学するときは、
座らないで、立っているようにお願いしますね。教師というのは立ちっ放しの仕事ですから。そ
れから、指導要領案を提出してもらって、OKだとこちらが判断したら、授業をしてもらいます
が、気をつけてもらいたいのは、……」
 やはり、くどそうだ。一般に、頬骨の高いオバハンにはアクの強い女が多いとわたしは思う。
うざったいな。
 わたしは神妙な表情を作って頷いていたが、意識は半分帆谷の上にあった。わたしたち三年
五組の生徒は、徹底的に、新任三年目の帆谷をほぼ全員で苛めたのだ。苛めに加わらなか
った生徒は、一部の温厚な男子生徒のみだった。そうだ。思い出した。
 女子は皆、帆谷を嫌った。どんなおとなしい子でも、帆谷を嫌っていた。生理的に受け付けな
い異性に対する嫌悪が、最も過敏に働く年頃だったから。
 帆谷。気の毒な人間ではあった。けれど、──未だにわたしは思う──数学の授業が帆谷
にさえ当たらなければ、理系に行けたり、浪人せずに済んだりした生徒の数はきっと、数百人
にのぼるのではないか。
 わたしは帆谷の授業に三年間つきあう羽目になった。授業は悪夢だった。
 帆谷は、とんでもない男だ。
 とにかく見た目が気持ち悪い。それはもう、許せないほど気持ち悪い。180センチはありそう
な長身だが、体重は60キロあるかどうかも疑問だ。骸骨のように痩せている。顔は真っ青、斜
視でワシ鼻、髪はべっとりとした七三分け。ヒットラーを限りなくみすぼらしくしたらこうなるだろ
う、と言えばヒットラーが気を悪くするような悪人面だ。
 でも、容姿だけなら、帆谷より醜い顔の教師はたくさんいた。帆谷は若いから、ふためと見れ
ないグロテスクな姿とまではいかなかった。といっても、わたしたちは『気色悪〜い!』と聞こえ
よがしに言っていたものだったが。
 最悪なのは、授業の内容だった。
 帆谷の授業は、単に、用意してきた講義プリントをつっかえながら棒読みする、というだけの
ものだった。たった一行読むのに何度も何度も何度も何度も何度も……一行について数回は
どもる。馬鹿野郎である。奴を採用試験に合格させた奴の方が馬鹿野郎なのかもしれない
が。ともあれ、帆谷はそういう奴だった。講義プリントを音読して中の公式や例題を時々板書す
る。それだけの動作で五〇分間の授業が過ぎる。五〇分が無限の時間のように思えてくる。
帆谷が教室を出たあとは、皆がわらわらと窓辺や廊下へ散って、新鮮な空気を求めたもの
だ。フラストレーションのたまる授業だった。あそこまでいくとある意味芸術的でさえある。本人
は平気だったのだろうか、あんな非道な授業をして。
 帆谷は、舌に障害があるようだった。吃音(どもり)がはげしかったのだ。動作もぎごちなく
て、ひょろ長い手足をもてあましたロボットのようで、動きがカクカクとしていた。
 奴には無論、雑談などする芸当はなかった。
 一度、奴に比較的同情的だった男子生徒が、
 「先生、彼女おるん?」
 と聞いたことがある。 帆谷は答えた。
 「そ、それは、え、え、エッチもしたいのはみんな、お、同じやからな」
 クラス全員が水をうったように静まり返った。
 その後、『エ、エ、エッチ』が三年五組の流行語になったのは言うまでもない。
 帆谷の授業を聞いているくらいなら、漫画の本でも読んでいた方がよほどためになると思え
た。わたしたちのクラスは、センター試験受験組で、入試科目に数学を入っている大学を目指
す生徒がほとんどだったから、帆谷の無能に皆が真剣に怒っていた。
 タチの悪いことに、帆谷は真面目だった。無能なだけで、真面目は真面目なのだ。いっそ、
不真面目な方がお偉方への直談判なりも出来て、良かったのかもしれない。だが、時間はきっ
ちり守り、カリキュラムも、形式上はスケジュール通りこなす帆谷に、正面からの攻撃を加える
ことは難しかった。
 そして、わたしたちの行き場のない怒りは、やがて帆谷への強烈な苛めへと昇華していった
たのだ。
 帆谷が板書をする時に、あらかじめかっぱらってあったチョークを黒板に投げる。皆が笑う。
 「い、今投げたのはだ、誰や」
 何度かは我慢していた帆谷がたまりかねて振り返って聞くと、
 「だ、だ、誰やー」
 「いいいいまなななげたのはー」
 と、生徒たちは帆谷の口調を口々に真似て嘲笑った。昔から気が強かったわたしも、チョー
クを投げた。大声で口真似もした。先頭に立って苛めたと言っても過言ではないかもしれない。
頭の痛いことだが、今となっては。
 昼食の時間、帆谷は教壇で弁当を食べていた。わたしは奴のコップの中に、チョークの粉を
入れたことがある。トイレで手を洗って戻ってきた帆谷は、それと知りながら黙々とピンク色に
染まったお茶を飲み干した。皆が喝采した。
 そんな日々が続いた冬、帆谷は自宅のベランダから落ちたのだ。
 落ちたのは事故ではなく自殺未遂にちがいない、という意見と、お陰で数学の担当が変わっ
て入試までの少しの期間でも有難い、という意見が、三年五組の概ねの統一見解だった。
 帆谷重体、というニュースに馬鹿笑いし、奴の名前はわたしたちの記憶から消え去った。目
前の入試、卒業、進学と、わたしたちの前に開ける道は広かった。複雑に入り組んだ人生の
分岐点だった。

 そんなこともあったけれど、わたしは教職に就きたいと希望している。大学に入学して以来、
ずっと塾で講師のアルバイトを週に4回ずつ続けていた。教えることは楽しい。
 講義には慣れていたので、教育実習に対して、緊張はなかった。生田がどの程度の話し上
手かは知らないが、公務員である市立学校の教諭よりは、民間で鍛え上げられた自分の方が
授業は上手いのではないかとさえ思っていた。それは驕りだろうか。でも真実だけれど。しか
し、真実だからと言って真実を主張するのは許されないのが世の常、人の常。
 実習に入ってからのわたしの講義は、予想通りスムーズに進んだ。
 「あなた、話慣れてるわね。そうね……あとは、板書の字が少し丸いのを何とかして頂戴。そ
れさえ直れば、まあ必要な点は抜かしていない講義でしたね」
 生田は厭味な口調で及第点を出してくれた。彼女は、わたしが教壇に立っている間、決して
口出しをしない。最初の起立から最後の礼まで、わたしの独壇場にさせている。教室の後ろに
すっくと立って背筋が寒くなるような鋭い視線でわたしを睨みすえているのだ。どんなあら捜し
をされているのだろう、と内心思っていたが、案外柔らかな批評だった。が、生田教諭の冷徹
な視線に耐えるべく、わたしはより地味な化粧と服装を心がけた。
 そして土曜日が来た。大人びた高校生たちと生田の鋭い視線が全身に突き刺さる中、緊張
が続く、疲れる一週間だった。
 帆谷には毎朝すれ違った。車椅子姿が目立つので、無視したくても気づかずにはいられなか
った。わたしはついに挨拶をしなかった。
 不思議なもので、帆谷に対する昔の嫌悪感は消えていた。先輩、後輩の間柄になったからだ
と思う。教師、生徒の関係とは違う。
 わたしは帆谷にも普通に接したかった。が、自分の昔の悪童ぶりと帆谷の自殺未遂を思う
と、さすがのわたしも、なにごともなかったように接するような厚顔さは持てなかったのだ。

 学習塾のアルバイトの方は、教育実習期間中、休みを取っていた。が、土日だけ休みを取ら
なかった。一ヶ月まるまる給料が入らないのは、苦しいからだ。わたしは小学五年生のクラス
を担当している。生徒は高校生と比べると段違いに可愛い。
 アルバイトを休まなくて正解だったかな、と思いながら土曜の晩、わたしは授業を行った。高
校二年生との年齢差で考えれば、ほんの六、七歳の差。それがこんなに人間を変えるのか、
と改めて思う。わたしのひとことひとことに対する生徒の反応が、熱気が、違う。小学五年とい
えば騒ぎたくて仕方ない年頃である。声を張り上げながら、高校の授業では水を打ったような
静けさであることを思う。あと三年もすればこの子達もきっと冷淡な静けさを身につけることだ
ろう。不思議だな思春期って。
 ふと、下腹部に鈍痛が走った。わたしは教壇につかまった。
 「先生、どないしたん?」
 「や、待って……あぁ……あーっ!」
 身体中の血がすうっとひいていった。
 一瞬、意識を失っていたのかもしれない。
 目を開くと、幼い顔たちがわたしを不思議そうに覗き込んでいた。ああ。
 おなかが痛い! 下腹が! ああ!
 「インターフォンを押して! 坂口君! 早く! 先生が倒れているって言って!」
 生徒は幼いから気が利かない。意識が薄れそうだ。駄目だ、自分がしっかりしなくちゃ。必死
に坂口に指示を出す。原因は分かっている。生理痛だ。
 もともと生理は重い。授業前に鎮痛剤を飲んだのだが、効かなかったようだ。こんな悪寒をも
よおす酷い生理痛が年に一、二度の割合で、起こる。だが、仕事中に気が遠くなったのははじ
めての経験だった。
 驚くほどすぐ、救急車が到着した。
 「どうしました? 意識はありますか?」
 救急隊員が声をかけてきた。
 意識はあったが、答えることが出来なかった。もう消えてしまいたいほどに痛みは酷く、痛み
以外の身体の感覚が麻痺してしまっていた。
 「お腹が痛いんですね? 他に痛いところはありませんか?」
 顔を両手で覆い、弱々しく首を振る。苦しい。苦しい。誰かぁ。助けて。神様。ああ神様なんて
いないよ水絵。でも生理痛だなんて言えやしない。
 救急車で運ばれた経験も一度や二度ではない。わたしの呪われた子宮がわたしを裏切るの
だ。鎮痛剤でも効かないなら、倒れて病院に運んでもらい、強い薬を打ってもらうしかなかっ
た。
 サイレンの音がやんだ。病院に到着したのだ。
 「牧野さん! 聞こえますか? 着きましたよ! 分かりますか?」
 「ハイ……あの、ごめんなさい、生理なんです私……」
 言った途端に、喉元に込み上げるものがあった。わたしは激しく嘔吐した。
 「す、すみません……うぐっ!」
 「ああ、いいから、いいから。大丈夫ですか? いつもこんなに重いの?」
 「……鎮痛剤は……飲んだんですけど、効かなくて……」
 「そうかね。座薬ならよく効くよ。入れますよ」
 何も言えないでいる間に、わたしのスカートはめくられて、下着を下げられ、お尻を広げられ
て、肛門に冷たい座薬がすべりこんできた。
 そんな中なのに、わたしは消防隊員がごくっと唾を飲む音を聞いた。
 何もかもが突然の屈辱だった。くやしい。
 痛みと屈辱がわたしを打ちのめしていたが、母が知らせを聞いて駆けつける頃には、座薬の
効果で痛みは嘘のように治まっていた。
 翌日の日曜、心配する母を振り切って──実際、わたしの生理痛は一日で治まるものだった
ので心配はいらなかった──わたしは授業へ出た。昨日のクラスと同じクラスの授業だった。
わたしは国語と算数を教えている。倒れた次の日にすぐ同じクラスに出るのは決まりが悪かっ
たが、逃げるわけにもいかない。
 「昨日は、ごめんなさいね。もう大丈夫ですから、安心してくださいね」
 小学五年の生徒たちは、最初のうちは何となく神妙にしていたが、授業が進むにつれて集中
力が途切れ、いつものやんちゃぶりを発揮し始めた。
 調子乗りの香山がいきなり床へ倒れこんだ。
 「さ、さかぐちクーン! インターフォンを押してぇっ。センセイ、生理なのォーん」
 頬に血がかあッと逆流するのを覚えた。くそガキ! 香山は明らかに、昨日のわたしの真似
をしている。 しかも、どこから伝わったのかは知らないが、それが生理痛だったことまで知って
いるのだ!──このクラスの何人が生理だと知っているのだろう。考えるだけで、恥ずかしさで
死にそうだ。この年頃に生理といえば、どれだけ強い印象を与えることだろうか。この中の何
人もの生徒が、これから先の一生を生理という言葉を聞くたびに牧野水絵の名前を思い出す
にちがいない。ぞっとする。
 が、怒りが脅えに打ち克った。わたしはいつだってそうするのだ。負けるものか。絶対に勝っ
てやる。脅えたって何もいいことなんかありやしない。
 わたしは、床に転がっている香山の臀部──股間に近いあたりを狙う──を靴底でぎゅうっ
と踏みつけて、香山の短髪を鷲づかみにした。このガキ。禿げてみやがれ。細い身体を引きず
りまわす。
 「ヒィッ!」
 香山は、そこまでの暴力をわたしが奮うとは思わなかったのだろう、悲鳴をあげて助けを求
めた。面白い。こういうときの快感はたまらない。
 「香山! もう一回繰り返してみろ!」
 「や、やめて……」
 「もう一回繰り返してみろって言ってんだよ!」
 「ご、ご、ごめんなさい!」
 わたしは香山を乱暴に床に放り投げた。相手が小柄な生徒だったからこそ出来る力技だっ
たが、胸がすっきりした。教室が静まり返った。
 「い、痛いよ、痛いよぉ」
 香山のすすり泣きだけが、教室に響き渡る。気持ちいい。 その後、授業終了まで、私語を叩
くものは誰もいなかった。
 
 バイオリズムというものは、下がりはじめるとしばらくは下がりっぱなしになるらしい。
 翌週の月曜、わたしは、指導担当の生田から具体的な注意を受ける羽目になった。どうやら
生田は、教育実習生の指導において、一週目は静観し、二週目以降に鍛える方針らしい。
  声のトーンにばらつきがある。
 板書の文字が下手である。
 生徒の様子に対して注意不足である。
 用意したレジュメを見すぎる。
 時間配分がまずい。
 大きなお世話だ。しかし言われてみればもっともでもある。それにしたって一度に言うな、と思
う。教師の卵の指導というからには、模範的指導をするべきじゃないのか。ステップ・バイ・ステ
ップという言葉をこのオバンは知らないのか。
 目が回りそうだったが、授業に関する指摘には、自分なりに消化できるように受け止めようと
素直に思う。これから先一生のことだから。
 注意されたことに気をつけながら、必死で授業をこなしていくうち、あっという間に日々は過ぎ
ていった。緊張は時の経過を早く感じさせる。
 だが、生田にわたしの熱意は伝わらなかったのか。それとも女の嫉妬か、またはわたしの密
かな内心の不敬を敏感に感じとっていたのか。原因は知らないが、ともかく最後の週の木曜の
晩、生田は冷たい眼差しをわたしに投げかけた。
 「牧野さん、今日は尾崎くんがあなたの授業中、他教科の勉強をしていたことに最後まで気
が付きませんでしたね」
 「えっ……そうなんですか」
 「いつになったら気がつくかと見ていたのですが……。もしかすると、あなた、最初から気がつ
いていたのに、億劫がって、知らない顔をしていたんじゃないのかしら?」
 「そ、そんなことは」
 「ねぇ、帆谷先生」
 わたしはギクリとして振り返った。
 職員室に車椅子を操作して入ってきた帆谷の姿が背後にあった。
 帆谷はわたしの顔をさすがに認識したようで、どういう心理が働いたのかは分からないが、
頬を微かに高潮させた。
 「ま、牧野さん。久しぶりです。ど、どうしたんですか」
 吃音は相変わらずだ。生田は底意地悪く続けた。
 「牧野さんは、帆谷先生の担当クラスの生徒だったらしいじゃありませんか。見れば挨拶もろ
くにしないなんて、今時の若者とはいえ、教育者としてはねぇ。いったいどういう了見なんでし
ょ。今日もうちの生徒が授業中に別の科目を自習していたのに知らん顔ですよ。何でも無視す
ればいいとでも思っているんですかね、いまどきのひとは」
 顔が紅潮するのを感じた。生田に、ここまで言われる理由が分からなかった。自分なりに一
生懸命やってきたつもりだった。
 が、次の帆谷の言葉は更にわたしを瞠目させるものだった。
 「……いや、べ、別に、ま、牧野さんは何も無視はしてないですよ。そういう人じゃないです、
だ、大丈夫です。ぼ、ぼ、ぼくの教え子でしたから」
 「……」
 ──ぼくの教え子。
 この人はどこから、どうやって、そんな言葉をしぼり出すことが出来るのだろう?
 「……まぁ、そうですねぇ、かつての教え子と教師の間柄ですから、わたしには分からない彼
女の長所も帆谷先生にはお分かりなんでしょうね」
 「そ、そうですね」
 肩で大きく息をつく。そうでもしないと、また貧血を起こしてしまいそうだ。ううっ。
 「帆谷先生の教え子、ということで、今日はもう勘弁してあげることにしましょう。明日一日、頑
張りなさいよ」
 そう言い残して、生田は自分の席へ行ってしまった。
 あとには、所在無く頬を染めた二人、わたしと帆谷が残った。わたしは胸の前でこぶしを強く
握り締めた。
 「あっ、あの……」
 「ま、牧野は……」
 「え」
 「え、え?」
 「あ、あの……」
 「いや、あの」
 口火を切るのに、台詞が重なって苦心惨憺したあと、わたしは初めて、帆谷と会話らしい会
話を交わした。
 帆谷は言った。
 「き、君たちの卒業式に出られなかったな、そういえば」
 「そ、そうですね」
 つられてわたしもどもってしまった。
 「先生はずっと、その、車椅子なんですか」
 「ああ、これはね。骨折で筋ジスがひどくなって」
 「筋ジス? 筋ジストロフィーなんですか、先生」
 「そ、そうなんだ。シャベリも下手で、き、君たちには本当に迷惑をかけて」
 「いいえ、いいえ、そんな、そんな……」
 急にこみ上げてきた涙を何とか飲み込んだ。わたしは帆谷に会釈し、実習生にあてがわれ
た準備室に逃げ込んだ。

 その夜は六月には珍しく、星のきれいな雲ひとつない晴れた夜だった。わたしは自宅の三階
の窓から星空を見上げ、澄んだ空気と、時を経てたどりつきちらちらとこの惑星の空を彩って
いる星のきらめきを、思いきり肺に吸い込んだ。感傷にひたりたい夜もある。
 帆谷。筋ジストロフィー?
 筋ジストロフィーといえば、不治の病だ……。
 わたし達は何も知らずにからかった。
 帆谷先生が傷ついて飛び降り自殺を図るほどに酷く、わたし達はからかった。
 帆谷先生。ぼくの教え子、とわたしを言った。あんなに苛めたわたしを。帆谷先生。君たちに
迷惑をかけて、なんて言って、馬鹿な……。馬鹿だよ。あの人は、馬鹿だ。
 ふと、思い当たったことがあった。
 帆谷先生は、本当にわたし達を恨んでいないのだ。間違いない、帆谷先生は、わたし達を恨
むどころか、申し訳ないと本心から思っていたのだ。彼の憎しみは、ただただ、自分自身に向
けられていっているのだ。自分の身体の不甲斐なさ、上手くコミュニケーションを取れない不器
用さ……。他人ではなく、自分だけに。不器用な考え方しか出来ない彼だからこそ、器用に他
人を憎むことによって憎しみの対象の転換を図ることは出来なかったのだ。
 間違いない。
 星空が教えてくれたような気がした。帆谷先生はお前を憎んでいない、と。
 ──何て違いだろう。わたしと彼は。
 わたしは、自分をからかった香山に何をしたか。力で押さえ込むことだけを考えていた。わた
しはいつもそうだけれど。自分の憎しみに囚われて、復讐することしか頭になかった。自分の
立場さえ守れればそれで良かった。わたしの心の傷を説明する努力を怠った。分かってもらえ
なくても、わたしは説明するべきだったのかもしれない。
 わたしは成長していない。先生が板書する後ろから、チョークを黒板に投げていた悪童の時
代から、ちっとも。気のない男に抱かれ、その耳にそっと 『あいつを殺してくれる?』 『あいつ
を強姦してくれる?』 と囁いていた魔物のような小娘だった時代から、ちっとも。
 暴力では解決しない問題もあるのに。
 もしも、わたしが暴行した香山──あの子が、身体の大きな高校生ならば、わたしは彼に暴
行していただろうか? とても出来ないだろう。じゃあ彼を殺すのか? 殺せるはずもない。
 教師は神じゃない。人間だから、傷ついたら傷ついたなりの行動を取ればいいと思う。けれ
ど、人間としてだけではなく、教師として、教え子にアプローチをする努力をするべきだったの
だろうか。わたしは帆谷先生のような、聖者にはなれないし、なるつもりもないけれども。あの
人──帆谷先生だって、説明不足に過ぎるんだ。それはそうよね。でも、ああ。何だか痛い。と
ても痛い。
 わたしは泣いていた。涙は、頬をつたい、首をつたい、胸を冷たく濡らした。
 ──明日、帆谷先生ともう一度話そう。何からどうやって話したらいいか分からないけれど、
どうやったら彼の心の傷を深めずに話せるか分からないけれど、とにかく明日、絶対に彼と話
そう……。
 
 翌日、わたしの教育実習は終わった。厳しかった生田は、あなた、きっといい先生になるわ
よ、と最後に思いがけないはなむけの言葉をくれた。何なんだろう。面食らってしまった。奇矯
な女だ。
 帆谷先生は、たまたま会議とのことで、他校へ出張し、不在だった。わたしは拍子抜けした
が、気持ちの高ぶった一夜が明けてみれば、いったい自分が何を先生に伝えたかったのか、
もうひとつ釈然としない。帆谷先生に会えなくて、残念なのか、ラッキーだったのか。
ともあれ、そうして、わたしの教育実習は終了した。

 帆谷先生の死の知らせを聞いたのは、それから三年後の同窓会の席だった。
 生活指導の山口教諭の酌をする羽目になったわたしは、帆谷先生は半年に亡くなった、と聞
かされた。
 「半年前、ですか」
 「ああ、人間の命なんて、はかないもんやわ。でもあの人はちがったで。牧野は知っとるかど
うかしらんが、筋ジスいう病気は進行していくんや。新任の頃は、兆候はあっても分からんかっ
たんやな。あの不自然な動作は、本人も周囲も仕草の癖やと思いこんどった。いつ頃本人が
筋ジスにかかっとるのに気づいたんかは知らんが、あの転落事件は、ひょっとするとそれを気
に病んでのもんやったかもしれへんなぁ。今となっては分からんことやが……最後は、ほとんど
動けへんようになって、それでも亡くなる三週間前まで通勤してきはった……執念の固まりやっ
たんや」
 「そうですか……」
 死ぬ三週間前。どれほどの肉体的苦痛があったのかは分からないが、執念で通勤したの
か。たぶん周りに迷惑がられながら。たぶん自己嫌悪に陥りながら。何という人だろう。本当
に、彼は。何という。 
 わたしは山口教諭のグラスにビールを注いだ。そして自分のグラスに唇をつけて、ビールを
ひと口呑んだ。
 「ね、先生、覚えてはりますか」
 「え?」
 「山口先生は、帆谷先生がベランダから落ちて骨折した時、わたしらのクラスに知らせに来
はったんです。そのときにおっしゃった言葉」
 「え。おれ、何か言うたかな」
 「わたし達、笑ったんです。帆谷先生が怪我をしたのが可笑しいって。そしたら山口先生、『お
前らには人の心があらへんのか。覚えとけ、今笑ったヤツは 一生後悔すんぞ』って、たしかそ
う、おっしゃったんです」
 「……そんなことも、あったかなぁ。まあ、いろいろ、苦労の多い人やったからな」
 「山口先生は正しいことをおっしゃったんですよ、あのとき、たぶん。今笑ったヤツは、……今
笑ったヤツは一生後悔するって」
 「おいおい、それはその時の話や。みんな子供やったんや、おまえも。そんなに気にせんでも
ええ、しゃあないんや」
 「でもわたし、今分かったんです。わたし、帆谷先生に再会したときに、言わなあかんかった。
帆谷先生は、自分を憎んじゃいけなかったんですよ。帆谷先生は、他人を憎むことも覚えるべ
きだったんです。それを言ってあげられなかったのが、わたし、悔しくて」
 「……そうやなあ。そうかもしれへんなあ。他人を憎むことを覚えるべき、か。でも、それを覚
えると、あの人のええとこがひとつ減ったかもしれへんなぁ」
 それは、そうかもしれなかった。
 わたしはビールを飲み干した。山口教諭がビールを継ぎ足してくれた。もう一度ビールを半分
飲み干した。苦い思いをビールの流れとともに飲み干せるものなら。そう思って、苦いビールを
飲み続けた。ああ。苦い。生きることは、こんなにも、苦い。生きることは、こんなにも切ない。
なのに寡黙で不器用な人の心が、死んでなお、こんなにも生きることへの執念を教えてくれる。
どうして。
 わたしの中で、答えは出ない。わたしはどうするべきだったのだろう。
 たとえば、帆谷先生が、病気ではない、ただの不器用な話下手の教師だったとしたら? わ
たしは彼を許し同情しただろうか?──とてもそこまでわたしの心は広くない。
 たとえば、わたしが在職中に、事故か病気によって、授業に支障の出るような身体になり、そ
れを生徒に嫌悪されたとしたら?  自分だったらきっと何か手を打つだろう、と思う。自分の身
体について、障害者というものは、誰もがいつでもなり得るものなのだ、と説教のひとつもうつ
だろう。勝気なわたしの性格であれば。
 もしも自分がもう一度生理痛で倒れ、それを生徒にからかわれたとしたら?  わたしは、にく
しみを交えずに相手を諭すことが出来るだろうか。ああ、とても、無理だ。何の言い訳もせず、
ただ自分だけを責めた、帆谷先生のようには、とても振舞えない。
 帆谷先生は、馬鹿だったのだろうか。それとも、聖人だったのだろうか。
 きっとどちらでもないのだろうと思う。単に、彼はそういう性格の人だったのだ。ああ。
 あの時笑ったことを、あの時意地悪したことを、そして最後に出逢ったとき、せめてお詫びの
ひとことも言えなかった卑しい自分を、わたしは思い出すたびに後悔するのだろう。山口教諭
のあの言葉は、本当に正しかった……。
 帆谷先生は二回空を飛んだのだ。一度目は、たぶんみずから身体を叩きつけるために。先
生は飛び立つことは出来ず、地へ落ち、身体に障害を残した。
 そしてもう一度、先生は自らの意志ではなく、空を飛んだ。皮肉にも今度は飛び立つことに成
功したのだ。先生はもう地上に戻ってくることはなかった。天使が、彼の純情な魂を天へさらっ
てしまったのだから。
  「牧野?」
 山口教諭が、わたしの顔を覗き込んでいた。こらえていた目の熱いものが一度にこぼれ落ち
る感触を頬に感じた。
 「すみません、ちょっと」
 わたしはハンドバッグをつかんで、洗面所へ逃げ込んだ。小さな飲み屋の洗面所には、個室
がひとつしかなかった。鍵をかけて、わたしは立てこもった。鏡を見る。美しい水絵が、目をうる
ませてわたしを見つめ返す。ああ、こんなときにも、わたしはどこか自分に陶酔しているのだろ
うか? こんなときにさえ? それは醜いことではないの? そうだよ、わたしは醜い自分を知
っている。醜い自分に快感さえ覚えてきた。自分の持つあらゆる力を利用して、ひとをあやつ
り、ひとを殺し、ひとを傷つけ、それが気持ちよかった! これからも、きっとそうだ。そうやって
生きていくのが、自然なことで正しいことなんだ。みんなそうやって生きていくのだ。弱肉強食
だ。帆谷先生は変わっているだけだ。そう思わないとわたしはわたしを……そうだ、わたしは許
せないかもしれない。神様。わたしを助けてください。神様なんていないことは存分に知ってい
るけど。存分にわたしはうちのめされて生きてきたけれど。そしてひとをうちのめして知らんぷ
りをして生きてきたけれど。でも神様。わたしに言ってください。わたしの生き方もありだと。さも
ないとわたしはおかしくなりそうです。ああ神様、誰でもいい、おかしくなりそうですわたしを助け
てお願い誰か助けてどうか許して今までどおり生きていっていいと言ってお願いどうかわたしの
生き方もありだと!                                             
            

                                          <おわり>
                                 (2002.2.8 初稿)
(2002・7・6 改稿・挿絵挿入)
(2002.7.19〜27 再改稿)

















☆この物語はフィクションです。








この小説は、再改稿前の三人称版も置いてあります。一人称と
どちらにしようか迷いました。お時間に余裕のあるきとくな方がいらっしゃいましたら
比較・ご意見いただければ感謝いたします。