「悟。お父ちゃんも、見てみ。山椒にアゲハの幼虫がついてるで」
夏の日曜の晩だった。ベランダから暁美の煙草枯れしたハスキーな声が聞こ
えた。松井剛史(まつい つよし)と息子の悟は、投手戦で点の入らない退屈な 野球中継を放り出してベランダを覗きに行った。暁美は煙草をもみ消し、山椒の 葉を広げて見せた。
「わ。何コレ。黒いやん。アゲハの幼虫なら緑とちゃうん。お母ん、これ蛾やで
蛾。そのライターで焼いちまえや」
悟の言う通り、山椒の葉の間から見えるのは黒い醜い虫だった。鼻からは暁
美の吸う強い煙草の煙を吸い、目に映るのは黒い幼虫。胸が悪くなる、と剛史 は思った。
「アゲハの幼虫って確か、何回か脱皮するのよ。そのうち緑色になるよ。で、さ
なぎになって、アゲハになったら空に飛んでいくよ」
暁美は新しいマールボロに火をつけた。この家では女房が蛍族なのだ。
「この虫、ホンマに毒はないんか」
「ないでしょ。何。お父ちゃん、こわいの」
「何ほざいとんねん。刺されたら困るやろ」
「何イライラしとるのん。職場でイヤなことでもあった?」
ふうっ、と暁美は目を細めて煙を吐く。
「仕事たぁ苦痛に耐えるもんさ」
「そ、そ。今のご時世、リストラされないだけでもありがたく思わなくちゃ」
「お前は大丈夫なのか、リストラ」
「明日をも知れぬ身よ。頑張るしかないよ」
「悟には大学行ってもらわな、困るな……」
当の悟は興味を失い、さっさとテレビの前に戻りギターを抱えて何やらつまび
いている。
「悟、また家庭教師すっぽかしてね。今度やったらガツンと言ってやらなきゃ。あ
ーあ」
剛史は再度、ごわごわとした醜い虫に視線をやった。アゲハだと言われても、
剛史の目にはその虫は毒を孕んでいるように見えた。しかし妻は飼うことに乗り 気なのだ。反対する理由もない。それにしても毒虫に見える。そうか、お前も俺 たちの仲間か。剛史は思った。毒虫め。せいぜい辛い山椒を好き放題食い散ら すがいいさ。短い命を謳歌しろ。
四時四十五分。剛史の直属である上司の境の、命令を出すのが好きな時間
である。
「松井君。何を聞いていたのかね。私は確か、各企業の上半期人員整理の統
計とその分析を入れろと言ったはずだが」
「そこに入れましたが?」
「こんなものじゃないよ。私が指示を出したのは視覚に訴える数値だ。見る人の
目を誤魔化せると思うな。明日までに作り直せ」
「それでは、具体的にどういった形で統計を取り数値を出せば良いのでしょう」
「君はこの仕事を何年やってるんだ。確かもう十四年ここにいるんじゃないの
か。自分の頭で考えたまえ」
そうだ。俺のキャリアは十四年だぞ。半年前にここへ来たお前に何が分かる。
喉元まで上がってきた台詞を剛史はぐっと呑み込んだ。上司の境は東大卒、四 十代半ば、甘いマスクで毒舌を吐くことが自慢らしい。親会社からの出向者で ある。
剛史の職場は「企業都市みらい推進委員会」という、第三セクターの会社だっ
た。官民の役職者相手の会議の運営や広報物を取り扱う業務を行っている。高 卒の剛史が就職できたのは、縁故採用によるものだった。職場には大企業や 役所からの出向者が多い。実務をするのはプロパーの剛史たちで、最初から役 付きで入ってくる出向者は肘掛つきの椅子にふんぞり返り、退屈そうに煙草を ふかし、大声で電話をし、気まぐれな命令を出すだけだ。定時の5時半には出 向者たちはぞろぞろとふんぞり返りながら行進するかのように帰っていく。冷暖 房の切れた職場では、昼間、出向者に振り回されたプロパーたちの仕事の本 番が始まる。剛史も黙々とパソコンに向かい、広報用の書類を作り直した。
夜十時、剛史は帰宅の途についた。オフィスは、大阪市北区中ノ島の中ノ島
八鹿ビルの十八階にある。窓はあるが一年中閉ざされているオフィスはワンフ ロア。人口密度が高く、空気が澱み、何ともいえず息のつまる空間だ。剛史はこ の中で、十四年間、少しずつ諦めや悪意や憎悪を胸の内に育ててきたのだ。
通勤の往路は汗ばむのが厭でバスを使うが、帰途はバスには乗らない。剛史
は歩いて梅田の駅まで帰ることにしている。三十分の散歩である。たまに、同 僚が歩いているのを見かけることがある。そんな時はさりげなく自販機でジュー スでも買ってやり過ごし、相手の姿が見えなくなってから再び歩き始める。よく使 うルートは二つあった。土佐堀川沿いに歩く道、堂島川沿いに歩く道。どちらも 夏場はドブのような腐った水の匂いが鼻をつくが、夜、川のほとりを歩くというの は悪い気分ではない。道は煉瓦で舗装されていて、カンツバキやケヤキ、ユキ ヤナギなどの植物が市の施策によって美しく植え込まれている。そこはまた、ホ ームレスの憩いの場所でもある。クルメツツジ、ダンボールハウス、サツキツツ ジ、ダンボールハウス、ユキヤナギ、ダンボールハウス。可笑しくなるが不快に は感じない。土佐堀川沿いを歩くと、対岸に雑居ビルの裏側が見える。築何年 になるのだろう、四十年位経つのだろうか、と思いながらうらぶれたビルに思い を馳せるのも嫌いではなかった。対照的に堂島川沿いを歩くと、大企業のビル が連なって豪勢な光景を演出している。対岸にはNTTにサントリー、東洋紡に フジテック、こちら側には住友不動産、毎日新聞ビル、TORAY。国道二号線の 婉曲した高架と合間って、夜に見ると何やら近未来的な美しささえ醸し出してい る。朝日新聞ビルまで来たら渡辺橋を渡り、すぐに丸ビルが見え、大阪駅周辺 の喧騒が瞬く間に近づいてくる。歩きながら物思いに浸ることによって、長時間 かぶっていた事務職員の鉄仮面から、徐々に自分を取り返していくのが剛史の 常だった。
妻とは、剛史が新入社員だった十八歳の時、暁美が営業で職場に来た縁で
知り合った。子供が出来たので即結婚した。暁美は保険の外交員で、剛史より 七歳年上だったが、ハスキーな声、巧みな話術、常に取り乱すことのない落ち 着いた態度、細い身体、総てが当時の剛史には好ましかったのだ。十四年経 った今も妻の身体は細く白く血管がいたるところに透けて見えた。一人息子の 悟は一七〇センチを越え、剛史とほとんど背丈が同じになってしまった。剛史に 似て悟は音楽が好きで、小遣いをためて五万つぎこんで買ったモーリスのギタ ーは彼の一番の宝物だ。既成の歌手の歌や、怪しげなオリジナルの歌らしきも のを、悟は阪急甲東園駅の駅前で友人とつるみ、いつも歌っている。甲東園は 剛史の最寄り駅になるので、彼の歌を必然的に聴かされることになるのだが、 ホームレスには何とも思わない剛史が、息子の悟の歌に苛々するのだ。それ は十五年前の剛史の姿を思い起こさせた。同類嫌悪というやつだろうか。
そんなことをつらつらと考えながら歩いていると、やわらかいものに躓いて転
んだ。ポケットに手を入れて歩いていたため、容赦なく、アスファルトに顔をぶつ ける羽目になった。
「……いってえな……」
見ると、どうも泥酔して意識を失ったらしいOLが倒れている。剛史は自分の携
帯電話が転がってしまっているのに気がついた。火花の散るような鼻柱の痛み が治まってきて、起き上がり、自分がその腹部を思い切り踏んだらしい女の姿 を観察した。女は眠っている。気絶しているのか。どうするか。もし怪我をさせて いたら、まずい。だが、このままここに転がしておくのもまずいだろう。剛史はと りあえず自分の携帯電話を拾った。そして、女のハンドバックの中身が散らばっ ていることに気がついた。家に電話してやるか。手帳でもあれば、と思ってバッ クを手探りしてみると、手にあたったのは黒革の財布だった。中身を確かめて みる。六万。ふいに剛史は周りを見回した。誰もいない。ホームレスはダンボー ルハウスの中で寝ているようだ。こんないいカモがいたのに、呑気なものだ。五 万を抜き取った。一万残してやったのは、情けだった。呪うなら、こんな不景気 な街中で無防備に泥酔した己の馬鹿さ加減を呪え。悪く思うな。
剛史は五万をポケットにねじこみ、急いでその場を去った。剛史の背中を、鋭
い光がぱあっと照らした。一瞬、カメラのフラッシュが光ったのかと思った。しか しそれは車のヘッドライトだった。小悪党め。剛史は自分に毒づいた。どうせ俺 は虫けらだ。毒虫だ。
帰りの電車の中で剛史は、ぼんやりとズボンのポケットに入っている五万のこ
とを考えていた。悟がダビングしてくれたMDをウォークマンで聞きながら、音は 耳に入っていない。運の悪いことに、周りには酔客が多く、剛史を苛立たせた。 大声で説教をたれる上司、うんざりした笑顔を作り、適当な相槌を打つ若手社 員たち。コンパ帰りの大学生らしい男女の嬌声。何もかもに、苛立った。この五 万。何に使ってくれようか。これは天の恵みだ。惨めな俺にふって湧いた幸運 だ。何でもいい、俺はこの五万を心のままに使ってやるぞ。降りた駅の自販機 で500ml缶のビールを買った。一気に飲み干した。実に美味かった。
甲東園駅は、震災の後、駅前が美しく再開発されたので、子供たちの格好の
溜まり場になっている。夜通しスケボーをしている集団もいる。そして今日も悟 の歌声は響いていた。いい加減にしてくれ。近所迷惑を考えろ。十二時近いん だぞ。あの馬鹿息子が。
スケボーをしている少年の一人が、ジュースを買おうとコンビニに向かった。剛
史はその後をつけ、相手の体躯を観察した。百八十センチ近い逞しい身体、横 幅もがっしりしている。文科系の悟よりは断然強いだろう。剛史は思い切って声 をかけた。
「な、ぼく。金、稼がへんか」
「え」
「スケボーはええな。けどな、歌う奴らには俺はむかつくんや」
「ああ、あのいつも歌ってる中坊か」
「そや。うるそうて、かなへん。あの、帽子かぶってギター弾いてるヤツな。俺は
あいつの声が嫌いなんや」
「そうか? 結構上手いと思うけどな」
「中途半端に上手いんがむかつくんや。なあ。どうや、一万やる。あいつのギタ
ーをぶち壊してくれ。怪我はさせるなよ、警察沙汰になるから」
「一万?」
「成功したら、このコンビニへ来い。待ってるから。成功報酬にもう一万やる。ど
うや」
剛史は、胡散臭げな顔をして黙り込む少年の手に、万札を一枚握らせた。生
の金の感触は、少年の心を動かしたようだった。
「おし。やったる。そやけどおっさん、あんた何者や」
「ただの善良な住民。で、ただの酔っ払いや」
「さよか。まあ、ええわ。待ってろ。あんなガキ、簡単にいてもうたる」
「おい、乱暴は困るんや。怪我はさせるな。ギターをぶち壊すだけでええんや」
「オーライ」
剛史はそっと物陰に隠れた。そして、スケボー軍団と悟たちが揉めているのを
観察した。ギターは簡単に取り上げられ、スケボー小僧は悟の宝物のモーリス を数十回アスファルトにたたき付けた。ギターのなめらかな曲線は失われ、ぼこ ぼこの残骸になった。悟はスケボー小僧に殴りかかったが、スケボー小僧はす ばやく逃げた。剛史はそれを見届けて、そっとコンビニへ戻った。
「おっさん、ギターやで、ほら」
「ああ。サンキュ。さすが、強いな。ギターはその辺に捨ててくれ」
剛史は一万を握らせて、スケボー小僧を帰した。胸のうちの毒が猛り狂って歓
喜の叫びをあげていた。
帰宅した時には、暁美はもう寝てしまっていた。浮かれた気分のままシャワー
を浴びて、飯を食う。そのうちに悟が帰ってきた。
「お帰り。遅すぎるぞ、お前、ええ加減にせえや」
「うるさいわ」
「それが親への口の利き方か」
「……」
悟は黙って風呂に入った。
剛史は胸の内で悟に話しかけた。弱虫。ギターをなくして、さあどうする。アカ
ペラで歌うのか。母の財布から盗みでもするのか。俺の財布はアタッシュケース の中。鍵をかけてある。どちらにしてもお前に小遣いはやらんぞ。剛史は思っ た。俺は自分の子を憎んでいるのだろうか。違う。そうじゃない。ただ、うらやん でいるのかもしれない。気ままな子供時代を過ごしていることを。遠くない将来、 悟も俺と同じように社会の厳しさと虚無を知るだろう。悟の憧れるネオン街の中 には夢も希望もなく、ただ卑しさだけが棲みついていることを思い知るだろう。 昔の俺のように。そうは思っても、現に今、幸せな顔をして好きなことをしている 悟のしょぼくれた顔を見ることは、歪んだ快感を剛史にもたらした。
風呂場から悟の歌声が聞こえてきた。
「何時やと思ってんねん!静かにしろ!」
剛史は風呂場のドアを開けて怒鳴り、悟は静かになった。
ふと、滅多に吸わない煙草をすいたくなり、ベランダに出た。あの幼虫がいる
と思うとぞっとしなかったが、怖いもの見たさで剛史は山椒の葉を探した。幼虫 はすぐに見つかった。黒い姿で、じっとしている。虫も眠るのか。少し大きくなっ たような気がする。毒虫め。死ぬも生きるも、俺の気持ち次第だぞ。俺が今火を つければお前は焼け死ぬ。それを知る知能もないお前。お前はうちの金で買っ た山椒で生きているんだ。この野郎。毒虫め。
松井悟は湯船につかりながら、スケボー野郎のことを考えていた。いつもは縄
張りを侵したことのない連中が、今日に限って襲い掛かってきた理由を思う。
「うぜえんだよ!」と言われたが、夜中に遊んでいるのはお互い様じゃねえか。
だが、自分の歌はうざいんだろうか。親父が怒るから、小さな声でハミングす る。俺は歌いたい。どうしても歌いたい。駅前が駄目なら、どこで歌えばいい。 そして、ギターだ。ああ、ギター……。涙が湯船の中に落ちた。
悟はスケボー野郎の後をつけた。そして、スケボー野郎が自分の父親から金
をもらっているのを見てしまったのだ。ただ切なくて、哀しかった。自分の無力 に、悟は涙を流し続けた。何の力も持たない自分が悔しい。早く大人になりた い。最初の給料で買うのは、ギターだ。そして下宿。誰にも邪魔されずに、怒ら れずに、好きなだけ歌えたら。ああ。歌いたい。
「お父ちゃん、悟、どこへ行ったか知らん?」
「え? 知らんけど。ああ、土曜やな。家庭教師の日やな」
「そう。悟、さっきまでおってんけど、おらんのよ。まったくもう。あたし探してくる
から、お父ちゃん、先生にお茶出してくれる?」
剛史に探しに行け、といわないところが、暁美の出来たところでもあり、何とも
気に食わないところでもある。家庭教師の翔子さんは二十一歳、色白の愛くる しいタヌキ顔で、若いころの暁美よりも上品で目が大きく、剛史の好みなのだ。 暁美は剛史の好みをよく知っている。そして、剛史が慢性的にストレスを抱え込 んでいるのも承知である。そうして、こうした欲求不満解消のきっかけをさりげな く作ってくれる。まるで暁美の仏の掌の中で踊らされているように、だ。俺は快 楽までもが暁美の思うままなのか。と剛史は反抗的に思う。快楽、という言葉は 正確ではないが。自分は若い娘のおもてなしの権利を得ただけだ。彼女と寝て いいという許可が下りた訳では、勿論ない。
ふと、残り三万の、くすねた金のことが頭をよぎる。三万。いまどきの援交の
相場はどんなものなんだろう。どちらにしても、この翔子先生が援交に走るとは 思わないが。剛史は紅茶にミルクと砂糖を添えて出した。
「すみませんね、いつも」
「いえ、私こそ申し訳なくて。悟くん、勉強は出来る人なんですけど……私の教
え方が、どうにもまずいみたいで」
「美人だから、照れてるんじゃないですか」
「え、そんな。ご冗談を」
「先生、エニアグラムってご存知です?」
「え?」
「性格占いです。やってあげますよ。女房が生命保険のセールスやってるもんで
ね。こういうネタはたくさんあるんです、ウチには」
剛史は本棚に並んだ暁美のクリアファイルから、営業用の性格占い表を取り
出した。
翔子先生は真面目に解いていた。剛史は数値を計算した。
「7のタイプですね。快楽主義。僕と同じ」
「そうなんですか? 快楽主義って何だか恥ずかしい……」
「詳しく知りたいです? 本をお見せしますよ」
「ええ、是非」
話しているうちにいつの間にか、向かい合って座っていた剛史と翔子さんは、
斜め向かいの至近距離に座っていた。彼女のスカートから覗く白くて細い腿が 剛史の目を射す。
唾を飲み込むのを必死で堪えていた剛史は、突然の携帯の着信音に飛び上
がりそうになった。暁美だった。
「悟、おらんわ。先生に迷惑やから、帰ってもらって。月謝払ってね。駅まで送っ
てあげて」
剛史は翔子先生に事情を説明した。
「すみません、やはり行方不明のようで。これ、今月の月謝です」
「え……私、ほとんど仕事していないのに。月謝はお断りします」
「いいんですよ、お時間を拘束しているのは実際のことですから。駅まで送りま
す。」
強引に彼女の手に月謝袋を押し込み、剛史は翔子を車に乗せた。腿も腕も頬
も白く、みずみずしい。
「……先生、彼氏いてはります?」
「え?」
「いや、ごめんなさい、つい。あんまりキレイな方だから。もてるでしょう」
「いませんよ。剛史さんの方が素敵です」
「え」
「……なんて」
バックミラーに移る彼女の顔を窺ったら、視線がかっちりとあって剛史は吃驚
した。
そこに、剛史は見慣れた暗い沈んだ色を見た。自分と暁美に共通する、毒の
色だった。
「……あの、剛史さん。よろしかったら、少し話を聞いていただけませんか?」
誘ってきたのは、彼女だった。
二十一歳の身体は甘く、カリカリの三十九歳の暁美の身体とは格段の違いが
あった。そして、翔子は驚くほど感度が良かった。
満ち足りた気持ちの中、柔らかな髪を撫でる。
「……悟君より、上手なんですね」
「え」
「ごめんなさい。あたし、エイズなんです」
剛史は頭の中が真っ白になった。布団をはねのけた。そこには甘い娘の姿は
なく、ただひたすらに好戦的なまなざしが、剛史を厳しく見つめ返していた。
「きみは……」
「……冗談ですよ。安心してください」
翔子は歯を見せ、声を立てて笑った。剛史はベッドにへたりこんだ。
「ごめんなさい。……あのね、何だか剛史さん、いつ死んでもいいや、みたいな
顔をされていたから、ちょっと刺激してみたくなって。私の悪いクセなんです、オ トコの人を見るとからかいたくなるの」
「きみは、大人に向かって……」
「ふふ。エイズだと言われて、どう思った?」
「……」
俺は、どう思ったのだろう? エイズ。俺はショックを受けた。ならば、俺は死に
たくなかったということか。自分を毒虫と罵っていても、毒を巻き散らしながらで も、死にたくなかったということだろうか。
「悪い冗談やで」
「ふふ、ごめんなさい。シャワー使いますね」
別れ際、剛史は残りの三万を気前よく彼女に渡した。スケボー坊主に二万、
淫乱娘に三万。考えてみれば、酔っ払い女から横領した五万の使い道としては 妥当なところだった。
「遅くなったな……」
翔子を特急の止まる阪急西宮北口駅まで送り、Uターンしようとしたところで、
剛史は、悟を見つけて目を疑った。悟がギターを弾いて歌っていた。
「こら! 悟! お前!!」
車を止めて、逃げようとする悟の片頬をひっぱたき、車に引きずりこむ。
「翔子先生、長いこと待っててんぞ!それに、これ、俺のギターやんけ! 人の
モン猫ババしくさって」
猫ババを責める権利は、本当は自分にはないことを承知しての物言いだった
が。
「……お父ん、何でこんなとこにおるん」
「先生を送ったんや」
「先生と寝た?」
「え?」
「先生、感度ええやろ? 俺も寝た……アイツ淫売やで、でも、可愛いけど。俺の
周りの大人って、みんなスレてる」
「……」
「ギター勝手に持ち出して悪かったよ」
剛史は車を道脇に止め、悟の目を見つめた。
「悟。俺と母さんが何でお前に勉強しろって言うか、分からへんのか。お前に惨
めな思いをさせたくないからや。社会はお前が思っているよりずっとずっと厳し いんだよ。スレたくなかったら、勉強しろよ」
「分かるよ。でも俺は歌いたいんだ。俺のギターを壊したのは父ちゃんの仕業だ
ろ?」
剛史はぎくりとした。知っていたのか。悟は時々、不気味なほど鋭い。そして、
嘘をついても、無駄なのだ。剛史は否定せず、ただ、呟いた。
「……歌で食っていけるほど人生は甘くないんや」
「俺程度の歌で食っていけるなんて思ってへん。歌はそんなもんじゃない。父ち
ゃんはそう思わへんのか? 俺にギター教えたの父ちゃんやろ。歌は稼ぐため に歌うモンちゃうやろ? 何で忘れたんだよ」
「……でもお前は、勉強をさぼっとる」
「悪かったよ。勉強、します」
その後は二人とも無言が続いた。夕闇の中、剛史は車を走らせた。
「お帰り。あら悟も。二人とも遅かったのね」
「ごめん」
「先生ね、電話かけたよ。来週から来なくていいって言っておいた。ク・ビ。ちょ
ん、よ」
「……」
暁美のこういうところも、何ともいえず、鋭い。剛史と翔子の間に起こったこと
を知っているのか、知らないのか。悟と暁美は勘の鋭さがそっくりだ。
剛史は何ともいえない気分で、悟が倉庫から持ち出してきたギターをつまびい
た。チューニングしないと、音が狂いまくりだ。
「歌ってや。父ちゃん」
「何を」
「何でも」
剛史はビートルズを歌った。カラオケやスナックじゃなく、ギターの弾き語りで
歌うのは何年ぶりだろう。いつの間にか、悟が一緒に歌っていた。微妙に音程 を変えて、コーラスをつけて。
「二人とも、見てごらん。虫が脱皮して緑色になってる。可愛いよ」
ベランダから暁美の声がした。剛史と悟は覗きに行った。黒かった幼虫は、い
つのまにか脱皮をし、丸みをおびた愛嬌のある緑色の幼虫に変わっていた。も う、毒虫には見えなかった。もりもりと山椒の葉をたいらげるその姿には、頼もし ささえ感じられた。そうだ、食え。どんどん食って、立派な美しいアゲハ蝶にな り、青空へはばたけ。
でも、と剛史は思う。
ああ、俺たちはみな、毒虫だ。脱皮出来ない毒虫だ。黒いままで、いつまでも
緑色になれず、もがいてもがいて、どうしようもない毒虫だ。
けれどこの快楽は何だろう。忘れていた、この純粋な快楽を。どうして忘れて
いたのだろう。どうしてアオムシやら十四の息子やら下らない連中に物事を教え られたり感動させられたりするのだろう。俺という奴は。
今度は悟がギターを持った。
「音程、狂ってる」
「チューニングせんといかんな」
「でも、これ、ええギターやな」
「高校に合格したら、悟、お前にやる」
「ホンマに?……父ちゃん、サイモン&ガーファンクルのこの曲分かるか」
悟が前奏をつまびいた。
「ああ、分かるさ」
二人は歌った。いつの間にか、ベランダから灰皿を持って戻ってきた暁美も、
低い声でハミングしていた。
(おわり)
(2002・9・17)
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