小説(短編6) カルティエ受難 [ 前編 ]

  ★この物語には縦書き版(ミラーはこちらです)もあります。お好きな方でお読みくださいね。




 [前編]




                              








  「まだ頑張りまっか。年末でんのによう仕事ありまんなぁ」
 不意にかかった不躾な声が、哲哉の背中をびくりと動かした。
 張り詰めていた集中力の糸が途切れ、心拍数が急激に上がる。背中に汗がうっすらと滲む。
 寒い寒いと思いながら仕事をしていたのに、汗をかくとは。
 堀川哲哉は反射的にノートパソコンを閉じて内容を隠した。彼はワードで引継ぎの文書を作
成している最中だった。上司からは決して紙で印刷することのないように命令を受けていた。
 職務の内容上、引継ぎ書は秘密文書にあたる。
 ワードの文書にパスワードをつけて、直属の上司にのみ、そのパスワードを口頭で教えるよう
に指示されていた。
 顔をあげると、守衛の安東だった。
 老人のどす黒い顔は、カウンターの向こうから、迷惑そうな表情を隠そうともせず哲哉を睨み
つけていた。
 「何時ごろまでお仕事される予定ですのんか」
 「ああ。もうぼくが最後なんですか」
 「そうでっせ。この時期は皆さん早く帰られますからなァ」
 「すみません。そろそろ帰ります」
 「そうして戴ければ助かりますなぁ。わしも眠れますしなァ。寒くなると眠くなるのが早くなって、
年寄りの身体は頭よりも正直ですわ。はは。まぁじゃあ、たのんます」
 「……」
 言葉を返す気にもならず、軽く会釈をする。
 若いと思ってなめた態度を取りやがって。
 あの守衛は何かの縁故で入ってきたのだろうか。それとも単に傍若無人な性質なのだろう
か。
 守衛は何人もいるが、安東というあの親父はその中でも妙に態度が大きかった。残業してい
る社員を、自分が寝たいからと言って早く帰らせようとする。
 あいつに払っている給与は何のための給与だ。
 あの野郎。正社員は賃金カットであえいでいるというのに。
 総務の派遣職員担当の佐藤に文句でもつけてやろうか、と前々から思ってはいた。
 が、今更文句を言っても、去る身の自分である。
 来月の今頃は釧路支社だ。
 釧路。
 生まれてから今までずっと神戸を離れて生活をしたことのない哲也には、釧路の冬の生活は
想像もつかなかった。
 どうやって通勤するんだろう。雪が積もっているんじゃないだろうか。
 寒いのは苦手だ……。
 

 十二月も半ばを過ぎると、ボーナスの給付の時期も終わり、大概の会社の総務は一息つくこ
ろだ。
 堀川哲哉の勤めるS電気工業も、十二月下旬と一月上旬は一年でもっとも静かな時期といっ
てよかった。確かに守衛が追い返したがる気持ちも、まるきり分からないではないのだ。
普通なら誰もが羽根が伸ばせる季節。こう毎日一人だけ残っていられたら、目立つのだろう。
例年なら哲哉も早く帰宅している時期だった。
 しかし、今年はそうはいかなかった。転勤前の残務処理、引継ぎ書も作らねばならない。
時計を見れば二十四時。
 もうそんな時間か。切り上げないと終電がなくなる。
 ひとり残業をするフロアは、とうに空調も切れ、寒々しく、電気も哲哉のいる一角だけが点灯
しているだけで他は消えてしまっている。
 昼間は大勢の人間が黙々と働き、電話が鳴り、パソコンのキーボードを叩く音がせわしなく鳴
り、常にざわざわとしているこのフロアだったが、夜中にはすっかり空気が変わり、寒気と無機
物の静寂が空間を支配する。
 その中で一人蠢く自分は、無機質な空間の中の有機物、異質な存在だった。
 深夜の残業は、闇の悪意と戦うような一人相撲だ。
 思えば約七年間、このフロアで毎日のように残業を重ねてきたのだった。
 なかなかに厳しい思い出の詰まったこのフロアには何の愛着もないと思っていたが、釧路支
社のどのフロアよりも神戸支社のこのフロアは居心地が良いことだろう。
 おれは近々、ここを懐かしく思い出す羽目になるのだろうか。
 シベリア強制労働へ駆り出された囚人が、故郷の監獄を懐かしむように。
 釧路から神戸を。
 これは結構、はまる喩えかもしれない。可笑しくも何ともないけどよ。


 ニ十代もあと二年で終わる。最近哲哉はよく自分の年齢のことを考える。
 夢の挫折や世間に対する失望のない二十代を送れる奴など、今の日本には、いや人間の歴
史を通じて、滅多にいないだろう。
 二十代は、砂漠だ、と哲哉は思う。倒れたら干されて死ぬ。
 完全な自立への戦い、そして世間と己自身との戦い、孤独との戦いの季節、それが二十代
なのだろう。
 思春期よりも更にシビアな時期だ。思春期に育んだ夢や理想をいったん打ち砕き、自分の中
で現実と折り合いをつけて目標を再構築していく時期が二十代から三十代だ。
 そういうことはすべて分かっているつもりだった。
 二十八歳にもなってみれば尚更だ。
 失望への耐性も、不随意に流転する運命に対抗する気骨も、それなりに自己の中で確立し
ていたつもりだった。
 大手電気メーカーの人事部勤務。
 堀川哲哉は、入社以来、人事畑一筋に歩んできた。
 最初の二年は給与担当、その次の二年は社員研修担当、その後、合理化検討委担当──
首切りと、より厳しい条件での仕事の強要、労組と当局との折衝──の仕事をして三年にな
る。
 今の仕事は精神的に厳しい仕事だった。要はリストラ担当、社員向けの苦情処理係なのだ。
 顧客向けの苦情処理の方がいくばくか楽だろう、と同じ仕事をしている同僚は言う。
 顧客なら、腰を低くして応対すれば、どんな難癖をつける客でも、結局のところ一日あれば引
いてくれるからな。社員相手ではそうはいかない。死ぬか生きるかの意気込みでかかってこら
れるのだから。
 哲哉はこの三年で八キロ痩せた。もともとは中肉の体質だったのが、今は細身になってしま
った。
 毎朝、ベルトでぎゅっとスラックスの腰を締め上げなければならない。スラックスの腰部分の
皺が見苦しい。侘しくなる。
 「何だかんだ言ってもさ、哲ヤンのところは、倒産せえへんからええやんか。お前んとこが倒
産したら日本も終わりやでまじ」
 学生時代の友人たちには、羨望されることが多い。
 「分からんで。今はさ。どこだって」
 「まあ、マスコミは煽るけどな。でもなぁ、お前はええって」
 どこもかしこも、多かれ少なかれ不況は同じだった。
 新規採用の後輩が入って来ない悩み──いつまで新人扱いで朝の雑巾がけをやればいい
んだと愚痴る奴、早期退職勧奨で既に肩を叩かれた奴、目を疑いたくなるような基本給の横ば
いまたは右下がり、ボーナスのカットまたは不支給。リストラ。倒産。
 集まって酔えば、落ち着く先は愚痴の連発だった。
 学生時代の能天気さとは打って変わって、就職の洗礼を受けた途端、皆それぞれにスレて
老けていく。
 学生時代はここまで酷い時代になるとは思いもしなかった、というぼやき。中には不景気知ら
ずの業界で平和な顔をしている奴もいるが、逆に話題から浮いてしまって、飲み会でも少し辛
そうだ。
 それでも今は所詮、どんなに悲観的な言葉を吐いても、体内から自然に溢れ出る若さのエネ
ルギーが彼等にはあった。泥酔すればテンションは上がり陽気になる。
 哲哉の世代は、上の世代よりも厳しい二十代の挫折を経験する運命の下に生まれてきたの
だろうと思う。
 下の世代は更に厳しい。
 哲哉は神戸在住だった。不況の風は、東京よりも明らかに冷たい。
 震災の影響を未だひきずっているのだ。
 街の外観は復興したけれども、震災は悪性の腫瘍のごとく街に巣食い続け、人の心を冷やし
経済活動を鈍化させている。東京本社の連中には、この街独特の虚脱感や喪失感は、実感と
して分からないだろう。
 マーケティングの数字理論では図り得ない要素がある。群集心理を計算に入れず、数値でた
たき出した目標を押し付け、達成できないならばリストラクチャー。本社の連中は神戸支社の
業績の悪さを無慈悲にあげつらう。
 東海地震でも起これば、本社の連中にこの底冷え感を味合わせてやることができるだろう
か。時折、腹いせに考えてみることもあった。が、虚しい妄想だった。
 これ以上の大規模地震が起これば、本社の連中を苦しませるどころか、会社がダウンしてし
まう。国ごとダウンしてしまうのかもしれない。
 まあ、そのときは、そのときなのかもしれないが。
 贅沢に慣れたおれたちだが、考えてみれば百年か二百年前の時代の生活に戻ればいいだ
けの話だ。どんなに落ちぶれようと、所詮歴史は連綿と続いていくのだろう。
 とはいえ、そんなことは妄想だけの話だった。
 当面、哲哉は馬車馬のようにがむしゃらに働く。
 目の前に見え隠れする人並みの幸福を求めて働く。
 師走も近くなり、年末賞与の三十%カットを通告されたが、社員の士気は特に下がることもな
かった。停滞の空気に皆が慣らされてしまっている。
 三十%カットは確かに痛いが、ボーナスが出るだけ有難い。
 人事部の哲哉にしてみれば、個人的な事情はどうあれ、賞与のカット率は低すぎるのではな
いかと個人的には思う。
 大企業だけあって労組の力は強い。それが社員にとって果たして本当のプラスになっている
のかどうか。
 目先の賃金よりもまずは雇用の確保が大切なのだが。
 いずれにせよ、大切なボーナスだ。彼はほとんどを貯金に回す予定だった。
 その哲哉を、散財に走らせたのは、師走も半ばになってからの、突然の釧路支社配置の内
示だった。
 来年一月四日付の転勤となる。東京ではなくて釧路とは!
 エリートコースを歩んでいると思っていた。
 次は東京本社に行くものだと、何とはなしに予想していた。
 それが釧路。釧路とは……。島流しじゃないか。やられた。
 哲哉は一日あまり呆然としたあと、百貨店へ行った。
 ボーナス全額と、貯金の一部が消えたが、痛くも痒くもなかった。
 腹は据わっていた。それは哲哉の最善策だったのだ。
 ──そのつもりだった。

 哲哉と北川悠里の行きつけのブティックホテルは、北野の展望台からも新神戸ロープウェイ
からもよく見える。新神戸の町並みにそれなりに溶け込んだそれなりに品のいいホテルだっ
た。外観だけは、だ。
 内装は老朽化が進み、窓を開けようとしたら窓枠ごと窓がすとんと落ちたこともある。まるき
り二十年前のドリフターズのコントだ。
 けばけばしい趣味の悪い内装は、ハリボテの装飾だった。
 けれど、内装はそれほど問題ではなかった。
 いったん行為に入ってしまえば、シャワーと空調、清潔なシーツさえあればいい。
 冬場は空調さえもいらないのだった。寒くてもじきに互いの熱で熱くなる。
 悠里の身体は、小さくて、細く、熱く、なめらかな肌も吐息も淡雪のように脆い甘さだ。脆いよ
うでもしっかりとした実のある身体、女の生命のたしかなぬくもり。
 悠里はそれほど技巧にたけているわけではない。
 いつも無口でおとなしい悠里は、ベッドの中でも積極的に動くことを知らない。
 哲哉がリードし、突き進む。
 前戯で悠里の身体を愛撫し、少しずつ慣らしていくうちに、悠里の方からも、ためらいがち
に、そろそろと哲哉の身体に手を伸ばしてくる。
 口を使ってはくれない。悠里がフェラチオをする場面など想像もつかない。
 それは決して女としては上手な愛撫とはいえなかったけれども、哲哉は充分に興奮するのだ
った。
 いつもはおとなしく、冷淡に感じるほどに毅然とした寡黙を保つ悠里に、思い切り声をあげさ
せたい。この女を征服したい。その熱が、思えば最初の交歓から九年、哲哉を常に燃やしてい
た。
 悠里の感じる場所も覚えた。最初はそこを刺激はしない。だんだんに彼女を揺さぶり突き上
げ、そこへ迫っていく。
 悠里は小さな声を立てて逃げようとするが、腰をしっかりと押さえ、ずれあがることを許さな
い。
 悠里はあえぐ。かすれた声をあげて。悠里の小さな屈服だった。哲哉は快感を覚える。
 「あ……あ……あぁっ」
 哲哉は無言で悠里を突きあげる。
 日頃の悠里の寡黙に復讐するように、哲哉は行為のとき、声をほとんどあげない。
 いつもは哲哉の話を黙って聞いている悠里に、自分を曝け出してほしかった。
 悠里は哲哉の背中に爪をたてる。
 力の弱い悠里だから、哲哉は微塵の痛みも感じない。
 ただ、自分の身体を締め上げる悠里の力に感嘆しながら、負けまいと敏感な部分を探り当
て、揺さぶり、体位を変え、悠里が悲鳴をあげるのを待つ。
 女の膝を曲げ、両肩の上に上げさせる。もっとも深いところで交わったときに、哲哉ははじめ
て声をたてる。悠里は既に叫びっぱなしだ。
 「ああ!……あ、う、……あ……!」
 「あ………うッ」
 哲哉は放出する。
 いつか悠里の中に思い切り放出したい。
 今は薄いゴム一枚をへだてて、悠里は安全なところに守られている。おれはまだ彼女を征服
していない、と哲哉は思う。
 しばらく肩で息をしながら抱き合ったあと、ゆるゆると悠里の中から抜き出し、そっと白濁した
精液のたまったゴムをくくってゴミ箱に捨てる。それは狂乱の後の興ざめな日常。
 おれはまだこの女を征服していない。
 けれども、征服する日は近そうだ。


 シャワーを浴び、服を着け、悠里が化粧を直している間に紅茶を入れる。
 そして哲哉は用意してきた箱をテーブルの上に置いた。
 紅茶の湯気、運命の小箱。
 薄暗い黄色の照明の中、その小箱は見えない光を発し、哲哉の背に新たな汗をうっすらとに
じませる。
 「ごめんね、ありがとう」
 身支度を終えた悠里がベッドの隣にかけた。
 紅茶の碗に手を伸ばし、悠里はその箱に気がついた。
 「……?」
 悠里は無言で哲哉を凝視する。
 悠里の疑問符はいつもこうだ。最初は無言。暫く経って、相手が不安を覚えるほどの間をお
いて、彼女は言葉を発する。
 哲哉は彼女の凝視に耐えた。指先が震え、汗ばむほどの緊張感を読み取られてしまうだろう
か。読み取られてしまうのだろう。
 外に感情を発しない分のエネルギーを、彼女は世界を細やかに観察することに回す。無口な
悠里は「いるのかいないか分からない」とよく言われるけれども、親しくなればなるほど、彼女
がいかに聡明であるかに周りの人間は気づき、彼女の猫のような魔性に惹かれる。
 哲哉は悠里が言葉を発する前に、先回りして言った。
 「プレゼント。あけてみ。気に入るかな」
 「……」
 悠里はそっと手を伸ばし、小箱を手に乗せた。
 「……カルティエ?」
 「そうやで。好きやろ、カルティエ」
 悠里は慎重に包装紙をはがし、箱を取り出し、蓋を開き、微かに息を呑んだ。
 繊細に光る無数のパヴェのダイアの中央に、大きく白い光をはなつダイアモンド。柔らかで重
厚な光をたたえるプラチナの台。
 クリスマスプレゼントとは思えない、それは明らかに、もっと別の特別な指輪だった。
 悠里は指輪から視線を外し、哲哉を凝視した。
 その悠里の表情からは、彼女の抱いている感情はほとんど読み取れなかったが、それはい
つものことだった。
 哲哉は緊張を隠し、さりげない声を装って続けた。
 「おれ、来年の一月から釧路支社に転勤になってな」
 「釧路?」
 「うん。東京やなくて釧路。島流し。よりによってよ。港があるからなぁあそこは。雪積もってる
んやないかな。で、そんなところで申し訳ないんやけど──お前についてきて欲しい」
 「……」
 悠里は、下を向いた。
 「悠里。結婚しよう」
 「……嬉しいけど……ごめん。弟が高校卒業するまで、待って」
 「そう言うと思ってたけど」
 哲哉は冷静を装った。
 シナリオは頭の中で想定済だったが、現実になると臆する。
 悠里は父子家庭で育っていた。
 彼女の母は、九年前、二人が交際をはじめる直前に交通事故で死んだ。
 同乗していた悠里の幼少時からの親友、今では哲哉の親友でもある、穂高明子の母もその
とき一緒に亡くなっている。
 子供を通して知り合い、意気投合した悠里と明子の母親は、二人で時折平日の昼間、気楽
なドライブへ出かけることがあった。出石へ蕎麦を食べに行った、その帰り道で、二人は対向
車と衝突し、帰らぬ人となったのだった。
 悠里には昭和六十一年生まれの弟、凪(なぎ)がいた。
 悠里は哲哉の一級下の昭和五十年生まれだから、随分年の離れた弟だった。
 母が死んだとき、悠里は十八歳、凪はわずか七歳。
 葬式に参列した哲哉は、悠里が泣きじゃくる弟の肩を蒼ざめた顔で抱きしめていたときの彼
女の顔を鮮明に覚えている。悲しみや自分への哀れみよりではなく、闘志さえ秘めた厳しいま
なざしだった。
 それから九年。悠里は仕事で忙しい父に代わって家事をこなし、弟を母親のように誰よりも
大切に育ててきた。
 その情愛の深さにも惚れ込んだ哲哉だったが、いざ結婚するとなると、その弟の十六歳とい
う若さが障害となる。それも、分かっていたことではあった。
 「でもな、悠里はそう言うと思っててんけど、おれはなるべく早く結婚したい。凪やって、もう十
六やん。十六やったら、何とか自分でもやっていける年やで」
 「……」
 「寮生活している高校生もたくさんおるんやから。母子家庭や父子家庭で一人っ子をしている
子も世の中にはたくさんおるし。お前、自分の年考えてみ? 二十七やで? 凪が高校卒業す
るのを待ってたら、三十やで」
 「……」
 「それから子供を産むリスクを考えたことはあるか? おれの従姉妹の姉ちゃんは、高齢出
産で死んだんや。お前はあんまり身体も丈夫やないし、なるべく安全に早く子供を産んで欲し
い」
 「……」
 「だから、プロポーズするんなら、今や、っておれは思った。──釧路に、ついてきて欲しい。
今すぐとは言わへんけど、お前の職場の都合がつけば。三月末退職なら、ちょうどキリもええ
やろ?」
 「ちょっと待って。そんな、思い込みで言われても、困る」
 「思い込み?」
 「……」
 「何が思い込みや? 仕事のことか? 弟のことか? 子供のことか? はっきり言ってくれ
へんと、分からへん」
 「職場は、いいねんけど。凪が、高校を卒業するまで、待って」
 「何で凪やねん」
 「部活してるし」
 「部活なんか誰だってしてるやろ」
 「まだ子供やし。待って。わたしは凪を置いて遠くへは行かれへん」
 「──それがお前の本音か。所詮、凪がいちばん大切なんやな」
 「……」
 「凪が大人になっても、凪を置いて遠くへ行かれへんのやろ? 典型的なブラコンやで。それ
って。異常やで。おまえが幾ら内気で、慣れた人間としかまともに話せへんとしてもさ。凪のほ
うは、そのうちおまえを置いて彼女作って行ってまうで。傷つくのはおまえの方やで」
 「……ひどい」
 「どっちがひどいねん! おれは待ったで。おれやってもう二十八や。おれの言うこと、冷静に
考えてくれ。おれは何か間違ったことを言ってるか? 理屈に合わんことを言ってるか?」
 「……」
 「答えろよ」
 「……」
 「黙ってたら分からへんねん。おまえがその無表情の下で何を考えてるか。……なぁ、この調
子やったらおれ不安になってくるわ。何を考えてるねん、おまえは。こんなんで結婚やっていけ
るんやろか」
 興奮してはいけない。逆効果だ。
 しかし、哲哉は自分を抑えることが出来なかった。転勤と引継ぎのストレスで、哲哉は普段よ
りも性急になっていた。
 声を荒げることは、冷静で内気な悠里にとってはもっとも好ましからざることであると、分かっ
てはいたが、どこまでこの女に合わせてやればいいのか、という思いが哲哉をふと捕らえてい
た。
 毎晩のように二十四時近くまで働いて、働いて、貯めた金で買った、彼にとっては分不相応
に高価なカルティエのリング。
 それを悠里はテーブルの上に放り出し、むっつりとした顔で押し黙っている。
 哲也の眼には悠里のその姿が思い遣りのない態度に映った。
 こういうときの悠里はテコでも動かない。
 冷静で頑固な彼女の魂に近寄ることは、しばしば彼にとって非常に困難な作業だった。
 「何か言えよ」
 「……ごめんなさい。どうしても、凪が卒業するまでは、釧路には行けへん」
 「おれは三年も待てへんで。三十の嫁なんか願い下げや」
 って、言ったらどうする? と続けるつもりだったが、その言葉を続ける前に、悠里は彼女に
しては非常に珍しい速さで言葉を返してきた。
 「じゃ、仕方ないね」
 「仕方ないって……」
 哲哉は絶句した。
 ここまで情のこわい、高慢な女だったか。悠里は。
 おれは彼女に何を見出して九年間も付き合ってきたのだったろう。
 哲哉は分からなくなる。分からない。いざというときに、頼りにならない冷たい女。
 「仕方ないって、別れたいってことか。悠里。おまえは弟の方がおれよりも大切なんやな。お
れのプロポーズは断るってことやな」
 「そう。どっちが大切とかじゃないけど。三十の嫁は願い下げやって言うんやったら、わたしは
条件に合わないってことになるでしょう。だから、待てない、って言うなら、お断りします」
 悠里は涙の一滴も見せずにさらりと言い切った。
 哲哉は、返す言葉を見出すことが出来なかった。


 電車のドアの傍に立ち、悠里は夜闇の硝子窓にくっきりと反射する自分の顔を眺めていた。
今、男と別れてきた二十七の女の顔が、この顔。周りの乗客の、疲れた顔、酔った顔、居眠り
をする顔、そしてわたしのこの顔は相変わらずの表情にとぼしい顔。電車は冷徹な正確さであ
らゆる顔を映しながら、黙々と走る。
 朝も昼も夜もほとんど変わらないわたしの顔。
 たぶん結婚しても、同じこと。わたしの無表情に耐えてくれる人がどれほどいるんだろう。
 哲哉は耐えてくれた。九年もの、あいだ。
 けれども、だからといって譲ることはできない。哲哉には分からない。
 どうしてあんなに酷い言葉を投げつけてきたのだろう。彼は。わたしには分からない。
 運命の糸がつながっていなかったということだろうか。
 悲しいけれどそうなのかもしれない。信じられないほど唐突な破綻だけれど。
 窓の外を流れてゆく夜景。家族が家に揃う時間だ。それぞれの家の光は、それぞれの家族
の数。幸せか不幸せかは人それぞれだろうけれども、それなりに生活を営んでいる光を灯し
て、ひとびとの暮らしが窓の外を流れていく。
 流れて去っていく窓の光は蛍が飛んだ軌跡のようにゆらめく闇を瞳孔に残し、か細い闇は窓
の数だけ増幅して針の痛みで悠里の瞳を蝕んでいく。
 頭痛にこめかみをおさえる。
 痛みに耐え切れなくなって目を閉じたとき、悠里は温かいものが頬を伝うのに気がついた。
慌ててハンドバッグを探り、ハンカチを取り出す。そのとき、電車が止まり、数人の乗客が降り
て行った。悠里は泣き顔を見られぬようにうつむいて、ハンカチで顔をぬぐう。
 ドアが閉まり、再び滑り出した電車の車内放送で、悠里は自分が自宅と反対方向の車両に
乗っていることに初めて気がついた。
 新神戸のホテルからはいつも哲哉に車で家まで送ってもらっていたのだ。
 悠里は普段仕事には自転車で通勤している。
 デートのときはたいてい車なので、電車に乗る機会が極端に少ない。
 今日はそれでも、送ってくれる相手がいないため、JRに乗らざるを得なかった。
 傷つけあった台詞の応酬の記憶を反芻しているうちに、逆方向のホームの列車に乗ってしま
ったらしい。
 ため息をついて列車を降りた。
 重い足取りで駅の階段を降り、家へ向かう方角のホームへ登り、冷たい風が吹く中、誰もい
ないホームで電車を待った。


 帰宅したときには十二時をまわっていた。父の寝室の明かりは消えている。もう寝たのだろ
う。凪の部屋の明かりも消えていたが、リビングの電気が点いていた。テレビでもみているのだ
ろうか。
 そっと鍵を開けて、家に入る。目が赤いのに気づかれないだろうか。家族に自分のことで心
配はかけたくなかった。
 「お、悠里ちゃん、お帰り。遅かったね。飯あるけど、お茶漬けでも食う? 何、今日はクルマ
やないの?」
 ソファの上に寝そべって、テレビを見ていた凪が陽気な声をかけてきた。
 「ありがと。今日は電車やってん。明日は日曜やね、部活あるやろ? お弁当作った?」
 「弁当作った。おれ、いつでもお婿に行けるわ」
 凪は笑った。悠里に似て華奢で色白な凪は、野球部に所属している。
 性格は、悠里と違い外交的で無邪気で明るい。
 凪は日焼けをしてもすぐ白くなる。声変わりも遅く、中学に入ってからだった。
 まだ背も低く子供子供したこの弟を、どうして今、一人に出来るだろう。
 哲哉はどうして分かってくれないのだろうか。
 悠里はコートとバッグをハンガーにかけ、ソファに横になった。
 「ああ、疲れた」
 「疲れた? 指圧したろか」
 「うん。して」
 「しゃあないな。じゃあ、うつぶせ、うつぶせ」
 凪は悠里の傍に座り、部活で覚えた指圧をはじめた。背中に沿って力強く押してくる指の感
触が、何とも心地よかった。
 「うう……気持ちいい」
 「オバンみたいな声出すなよ」
 「オバンでもいいもん」
 悠里は心地よさに身を委ねた。うつぶせた顔を乗せた腕にじわりと涙が染み込んでいく。
優しい快感に慰められて、涙腺が緩んでしまったようだった。
 「悠里ちゃん、また哲ヤンと喧嘩したん」
 「うん。何で分かるん」
 「デートしたのにクルマで帰ってけえへんからさ。はよ仲直りせえへんと、クリスマスがくるで」
 「もう、ええわ。今年は家でお父さんとアンタと過ごす」
 「いや、おれはカノジョと過ごすもん」
 「え。カノジョできたん」
 「……って言いたいなぁ。来年は言うで」
 凪の彼女。その言葉を聞いた途端、悠里の背中に氷を入れられたような悪寒が走った。
 そのことに悠里は衝撃を受けていた。
 哲哉の言うとおり、確かにわたしはこの子を愛しすぎているのかもしれない。
 愚かな世間の母親たちのようになってはいけない。
 凪に彼女が出来れば、わたしは心からおめでとうと言ってあげられるような姉でありたい。け
れど、今、わたしが感じている否定できない安堵感はどうしたことだ。
 九年間、わたしはこの家の主婦だった。この子が七歳のときから、わたしはこの子の母親が
わりだった。そして九年間、わたしは哲哉の恋人だった。
 口下手なわたしは、人見知りが激しくて、友人も少ない。
 わたしと同じ日にお母さんを亡くした、親友の明子は華やかで人懐こい性格だ。
 明子と比べたら、たぶんわたしの友達の数なんて十分の一なんだろう。
 それで、いいのだけれど。わたしは、広く浅くの付き合いは好まない。
 けれども、それにしたって、わたしは凪にどれほど依存しているのだろう。
 哲哉にどれほど依存してきたのだろう。
 考えてみるとふと恐ろしくなる。
 「悠里ちゃん、泣いてるん」
 「ん……」
 「哲ヤン、ホンマ思い遣りのない奴ちゃなぁ。おれがあいつやったら、悠里ちゃんを泣かしたり
せえへんで」
 「ありがと」
 背中から凪の指が離れた。凪は悠里の髪をかきあげた。悠里は泣き顔を見られたくなくて、
顔をそむける。
 凪の息が、耳元を掠めた。
 その唇が悠里の頬に触れる。
 「元気出せよ。ほら、風呂、風呂」
 「うん」
 どうしてこの子は、照れずにキスなんてしてしまうのだろう。
 子供のときからの癖なのだが、もしかすると、将来はとんでもない女たらしになってしまうのか
もしれない。
 凪は魅力的だ。凪といると、とても温かかった。哲哉の鋭い言葉で痛めつけられた心の破れ
が、凪の接吻で繕われていくような気がした。悠里は涙だらけの顔を凪に向け、抱きついた。
 「ホント、哲、哉が、アンタ、みた、いに優しい、といいのに……、あ……」
 しゃくりあげる姉の肩を驚いて抱きしめながら、凪はそっと悠里の背中を片手で撫でた。
小さな肩だ、と凪は思った。
 どうして哲哉は、こんなに小さくておとなしくて優しい姉にしばしば当り散らすのだろう。そんな
にハンサムというわけではないけれど、一見好青年に見えるのに。
 優しくするだけが恋愛ではない。それは分かっているけれど。
 分かっているから、口出しは出来ないけれど、──凪は思う──おれがあと十年早く生まれ
ていればよかったんだ。そうすれば、もっと頼り甲斐のある弟でいられたのにな。
 凪は早く大人になりたかった。
 そして悠里は、凪にいつまでも子供でいて欲しかったのかもしれなかった。


 十二月二十二日。堀川哲哉は定時に退社し、百貨店のカルティエ・ショップへ向かった。
 店内には幸せそうな二十代らしいカップルが二組。
 店員たちは応対で忙しそうにしていたが、哲哉に、「いらっしゃいませ」と声がかかった。
一緒に指輪を選んでくれた、若い女性の店員だった。サイズが合わなければお直ししますの
で、どうぞお気軽にお申しつけください、と丁寧に言ってくれたことを哲哉は覚えている。
 店員も哲哉の顔を覚えているらしく、微笑みながら哲哉が近寄るのを待っている。
 どうして返品したいなど彼女に言うことが出来るだろう?
 哲哉は未練がましく百貨店に来てしまった自分の間抜けさを呪いながら、そそくさと逃げ出し
た。
 もう二度とこの店には来れないな、と思いながら。
 カルティエのものなど、心配せずとも買う余裕もないので、どちらにしても来る機会もないだろ
う。
 第一、自分は釧路に行く身なのだ。この支店にはもう来ることは永遠にないだろう。
 それどころか、関西に住む機会すらもうないかもしれない。支社は全国各地にある。東京本
社の人員が圧倒的に多い。普通に考えて、関西支社に戻ってこられる可能性はゼロに近いほ
どに低い。
 冬至の夜は寒く、空の闇は澄んで深かった。見上げれば星が瞬いている。
 街はクリスマスモードで華やぎ、星やクリスマスツリー、トナカイやサンタクロース、柊などをか
たどったクリスマス仕様の照明が、いたるところであでやかに街を彩っている。
 空の星もかすんでしまう人工的な明るさの中を、泳ぐようにひらひらと歩く恋人たち。
 寒いのは苦手だった。トレンチコートの襟をたて、マフラーを持って来ればよかったと悔やみ
ながら、哲哉は空しく街を歩いた。心も寒ければ懐も寒く、身体はといえば寒いなんてものじゃ
ない、骨の髄まで凍るほどに痛い。内臓まで凍てついてしまいそうなほどに。
 こごえきった哲哉の全身の中で、ひとつだけ、異様な熱を持った場所があった。
 カルティエのリングを入れた箱だった。箱は、コートのポケットの中で、直接肌に当たっている
訳でもないのに、熱く脈を打っている。あたかも心臓がもうひとつ出来てしまったかのような異
様な感触。心臓というよりも腫瘍というべきだったろうか。
 いずれにしても余分なものには手術が必要だった。
 哲哉はルミナリエの混雑を避けて道を選び、海へ向かって歩き続け、メリケンパークへたどり
着いた。案の定、やたらとベタベタとした貧乏そうなバカなカップルで広い公園は溢れかえって
いたが、──こいつらは寒さを感じない生物なんだろうか、と哲哉は腹立たしく思うが、もっとも
ほんの少し前までは彼と悠里とてそのバカなカップルの中の一組でいたのだった──その中
でひとりうろつく惨めな男という役回りにも、いっそ自虐的な心地よさがあった。
 哲哉は海辺に立ち、熱を持った箱を取り出した。
 かじかんだ手の中で、箱の放つ熱は痒いような違和感を哲哉の皮膚に与える。
 そのまま海へ放り投げようと思ったが、思い直して、蓋を開いた。
 街灯の光を受けて燦然と白く輝く高貴なダイアモンドとプラチナ。
 こんなものを欲しくないという女がいるのだろうか。男のおれから見ても、繊細で美しいデザイ
ンであるものを。いや、欲しくないと言う女がいてもおかしくはない、けれども九年間つきあった
女に欲しくないと言われたこの指輪はとても哀れだ。
 買った男が悪いのだ。これも運命。悪く思うな。
 哲哉はカルティエの指輪に心の中で話しかけた。
 指輪はいろいろなものの象徴だった。
 彼の労働の結晶。エンゲージリングは月給三ヶ月分が相場だというけれども、彼は悠里の歓
ぶ顔が見たくて、ほとんど給料の半年分に近いほどの金を費やしたのだった。
 そして何よりも九年間の交際と思い出の結晶。
 あっけなく切り捨てられた愛情の象徴。それが、このきらきらとした指輪だった。
指輪を見たときに、悠里に似合うだろうと思ったのだ。小さくて色の白い、はかなげな悠里。繊
細なデザインのリング。悠里の顔にその指輪は印象が似ていた。
 冷たい海の底へ沈め。あの女の高慢な顔と一緒に。
 そしておれは身軽になる。
 年が明ければ釧路へ行く。新しい世界がおれを待っている。身軽なおれを……。
 涙がこみあげてくる。惨めだった。こんな感情的な男だから、いつでも同じような失敗を繰り
返すのだ。それは分かっていた。けれど、持って生まれた性質をどうして突然変えることが出
来るだろうか。
 隣に座ったカップルの、女の方が、好奇に満ちた視線を哲哉に向けていた。哲哉はその視
線で我に返った。娘を睨み返すと、彼女は慌てて視線をそらし、彼氏に抱きつく。
指輪の蓋を閉じる。くそ。場所を変えて、海へ投げよう。
 そのとき、携帯電話のメール着信音が鳴った。哲哉は携帯を開いた。
 悠里との共通の友人、穂高明子からだった。
 『呑みに行かない? 身体空いてませんか? イブイブイブで悪いけどぉ。空いてたらぜひぜ
ひtelください Lonely 明子』
 cc:悠里になっている。悠里とおれに同じメールを飛ばしてきたのか。
 ということは、明子は悠里とおれが別れたことを知らないのだろう。
 転勤で釧路に行くことだけはメールで伝えてあった。が、悠里と彼が別れたことは明子にも言
っていない。
 哲哉は苦笑した。
 ロンリーなわりにはカップルを呑みに誘う。豪快な奴だ。 
 イブイブイブって何だ。イブイブまでは聞いたことがあるが。
 明子はちゃきちゃきとした、口八丁手八丁、竹を割ったような性格だ。彼女と話をすれば、気
が晴れるかもしれない。哲哉は迷わずに電話をかけた。スリーコールで元気な声が聞こえてき
た。
 「もしもーし? ごめんねー。いきなり誘って」
 「いや、ええねん。ちょうどおれも身体空いててさ。わびしく三宮をさまよってたとこ」
 「そうなの。よかったぁ。いや、転勤だっていうから、少しでも長くご尊顔を拝んでおきたくって」
 「ええ男がまた減るやろ」
 「ホンマよお。まじ、さびしいわ。悠里は忙しくて来れないって。残念だけど。じゃ、三宮で飲も
うか。えーと三十分くらいで行けるから、八時に……うーんと、JRのTis前くらいでどう」
「いいね。じゃ、待ってるよ」
 電話を切って、ふと平常心に戻っている自分に気がついた。ここのところずっと落ち込んでい
たので、鼻歌でも出そうな気分の良さだ。持つべきものは友人だ。
 指輪の箱に目をやる。
 そうだ、明子にやろうか。別れの記念に。
 明子は一応女で、おれは一応男なのだが、別に気にもしないだろう。
 彼女は医者の家に生まれ、親の病院で医師をしている。超エリートの超お嬢さまだ。誕生日
会に万単位のプレゼント交換をするお嬢様連中とつきあっている。おれみたいな一般人から見
ればほとんど社交界だ。
 カルティエのリングも、ファッションリングの感覚でつけこなすだろう。
 結局、哲哉は月給半年分の指輪を潔く海へ捨てる度胸はもてなかったのかもしれない。
 明子にやろう。そう思って、箱をコートのポケットに戻した。先ほどまで異様な熱を持っていた
 箱は、もはや熱を持たず、ただの小さな箱になってポケットの中にちんまりと納まっていた。
 電話の一本でおれは平常心を取り戻すことが出来たのか。
 哲哉はふと、奇妙な感慨に囚われる。
 そうか、おれは今まで気鬱にすぎたのかもしれない。無口すぎる悠里と話しているときは、こ
んなすがすがしい気持ちにはなれない。
 おれは、悠里をあきらめることが出来る。
 無口なくせに強情な女に振り回されるのは、もうこりごりだ。
 新天地で新しい女を見つけよう。今夜は釧路に乾杯だ。


                                   (カルティエ受難 前編 おわり)
                                      後半へ続きます。