小説(短編6) カルティエ受難 [ 後編 ]



 [後編]










 穂高明子はいつもの滑るような早足で歩いてきた。
 長い髪、百七十センチの長身にハイヒールを堂々と履いて大股で歩く彼女は、群衆の中でひ
ときわ目立つ。モデルのように骨格のしっかりとした抜群のスタイルと、彫りの深い美貌の持ち
主だった。
 目鼻立ちも華やかで、黒目が大きく、額から鼻への線は高く、唇は薄いが口の幅は大きい。
 一度見れば忘れられないだろう、印象的な、明るい顔立ちだった。哲哉が手を振ると、明子
は笑い、小走りにすっ飛んできた。
 「ごめん、待った?」
 「いや、おれもさっきついたとこや。今日は休みやったんか」
 「というか非番で。昼寝して、夕方に起きたの。イブイブもイブも仕事。つまんない。だから思
わずメールしちゃった。クリスマスは休みなんやけど。でも二十五日って何か寂しいよね」
 明子の勤務する穂高病院は精神病院だ。入院施設もあるため、交代で夜勤がある。なかな
かに忙しいらしいが、明子は難なく勤めているようだ。学生時代にテニスで鍛えた体力がもの
を言っているのだろう。
 「そっか。二十五日は確かになぁ。何か終わってるよな。祭りのあとの静けさというか」
 「わ、あまり言わないでよ。悲しいー。ねえ、何食べる? 北野に行く?」
 「北野……高い店が多いよなぁ」
 「何。お金ないの」
 「めちゃ貧乏。訳ありで」
 「そうかあ、そうやね、引越しせんとあかんしね。年末なのにね、たいへんやねぇ。じゃあさ、
イタリアンにしようよ。安いし」
 「ああ、いいね」
 ここで「奢る」と言い出さないところが、明子のいいところだった。
 決して金銭に細かいわけではないが、人の対面にさり気なく気を遣う。明子は後輩に当たる
ので、いくら友達づきあいをしていても、半歩だけいつも引いてくれている。口はタメ口だが。
 哲哉にとって、イタリアンだろうがフレンチだろうが寿司だろうが中華だろうが、何でも同じこと
だった。要は呑めればそれでいい。食欲不振が慢性化しているのだ。精神科医の明子のアド
バイスを受けたいくらいだった。
 明子は三宮から歩いて五分ほどのイタリアンレストランにさっさと入り、メニューに爛々と輝く
目で見入って次々と前菜、パスタ、ピザを注文した。
 「哲ヤン先輩は? 何にするの?」
 「あー、酒。ワイン」
 「ワインはいいけど。何か食べないと」
 「何でもいいよ。明子、決めろよ。ああ、じゃあ、大根サラダ」
 「何それ。大丈夫? ストレスためこんでない? ってためこんでるよねぇ」
 「お前も結構たいへんだろ」
 「精神科だからねー。でもね、わたしは食べてストレス解消」
 「おれは呑んでストレス解消。おまえ、そのうち太るぞ」
 「うちは太らない家系やもん」
 「分かるかよ。三十代になると、どかーんとくる人多いねんで」
 「まーねー。でも食うべからざるもの働くべからずよ」
 「何やねんそれ」
 「名言でしょ。よく患者さんに言って聞かせるの」
 まずサラダとワインが運ばれてきて、ピザ、パスタの順に皿がやってくる。他愛のないことを
喋りながら、明子は気持ちがいいほど勢いよく皿を平らげていく。
 休みなく喋りながら、手は忙しくフォークとスプーンを操っている。
 哲哉は圧倒される思いで、大根をつつきながら、ワインをちびちびと飲んだ。
 ピザを二切れかじり、パスタを小皿に一杯、それでもう胃袋の方は満杯になった。
 「ねー、これ美味しそう。店長のお勧めだって。モッツアレラチーズとアンチョビのピザ。注文
していい」
 「好きなものを食えよ」
 答える前に明子は手を上げて店員を呼んでいる。パワフルな女だ。
 昔から明子はパワフルだった。
 明子と悠里が入部してきたとき、久々に美人が入ったと、大学のサークルでは激しい争奪戦
になったものだ。哲哉は明子と悠里の一級上だった。学生の地味さでは有名なH大の、彼等は
演劇サークルで知り合った。
 明子は勉強もハードな医学部に属しながらテニスサークルまで兼部する元気の良さだった。
対照的に、親友の悠里はおとなしく小柄で楚々とした雰囲気で、男子の人気はどちらかという
と悠里のほうが上だったかもしれない。
 明子は少し大柄すぎたし、強気すぎて、恋人というよりも友達というタイプだよな、という奴が
多かった。哲哉もそう感じたので、明子ではなく悠里に猛然とアタックしたのだった。
 「いつ引っ越すの? 良かったら、引越し準備手伝いに行くよ」
 「ああ、サンキュ。引越しは二十八日。荷造りはもう出来てるねん」
 「ええっ、あと五日やん! 送別会しなきゃ」
 「当分、引継ぎやら何やらあるから、年が明けても神戸と往復の生活になると思う。実家もあ
るし、よく来ると思うよ」
 「そっかぁ。じゃあ、新年会ってことで、企画しなきゃね。ね、悠里はどうするの? もしかして
……」
 「うん。プロポーズした」
 「ひゃあ! また既婚者が増えるぅ。焦るよ、ホント」
 「いや。断られた」
 「え?」
 明子が忙しく動かしていた手を止める。
 眉をひそめる彼女に、哲哉はぎこちない笑顔を向けた。
 立ち上がり、壁にかけたコートのポケットから、指輪の入った箱を取り出す。
 「これ、余りもので悪いけど、捨てるのも何やし、貰ってくれへんかな。あ、もちろん、お前にプ
ロポーズしてるんやないで。ただ、記念にさ」
 「何言ってんの……別れたって、そんな簡単に」
 「まあ、呑めよ。カルティエのリングに憧れるって、お前ら、小林の披露宴で話してたろ」
 「ええっ! カルティエを買ったの? 奮発したね」
 「見てみ。綺麗やろ」
 哲哉は蓋を開けて、指輪を取り出し、明子の前に置いた。
 「……」
 明子は大きな目を丸くして指輪を見ていた。
 「やるよ。ホントは捨てようと思ったんやけど勿体ないし」
 「何で捨てるの。それに何でわたしが貰うの。こんな大切なもの受け取れへんよ。返品した
ら?」
 「出来るかよ。格好悪い」
 「そりゃ確かに、格好悪いけど……何でそんなことになったの? 悠里と喧嘩しちゃったの?
 こんなときに。クリスマスだっていうのに、まぁ。お気の毒」
 「喧嘩というか、今回はもう決定的。悠里はおれより凪を取るってよ」
 「凪くん? もう高一だよね。え……何でかなぁ。今すぐ、ってのは引越しの準備もあるし、職
場の都合もあるやろうし、まあ無理かもしれないけれど、キリのいいところで釧路に追って行け
るやん。わたしは哲ヤン先輩と悠里がいなくなっちゃったらすっごく寂しくなるけどさ」
 「やろ? おまえもそう思うよな? でも悠里は凪が高校を卒業するまで実家を離れる気はな
いんだと」
 「ナルホド。責任感強いもんね、悠里は。いいお母さんになるよ、きっと」
 「そういう問題か? あの姉弟は異常やで。お互いに仲が良すぎる」
 「年が離れてるからよ。きっと。わたしなんか弟と仲が悪い悪い。顔を合わせたら罵詈雑言の
嵐だもんよ。同じ病院で働くことを思うと、ぞーっとするわ。ヤツが就職してくる前にゼッタイ結
婚退職してやるって思うもん」
 「嫁入り先のあてはあるんか」
 「うるっさいなぁ。ないわよ」
 「まあ呑めよ」
 「呑むわよ。哲ヤン先輩も呑みなよ」
 「呑むよ。あ、どうもどうも」
 互いに何度も杯を交わし、気がつけばワインを三本空けていた。
 四本目を注文するころには、流石に二人とも、酔っていた。
 「はうぅ。さびしいなぁ。哲ヤン先輩も悠里は釧路かぁ。あーん、友達がみんな東京方面やら
外国やらに転勤しちゃって、ホント寂しい。関西に残ってる友達って、三割くらいになっちゃった
よ」 
 「そやからな、言ってるやん。悠里は神戸やって。凪が神戸にいる限り、悠里も神戸に住み着
いて離れないんやろ」
 「そんなことないよぅ。凪くんやって、お年頃やし、そろそろお姉ちゃん離れするって。哲ヤン
先輩も、今はかあっと来てるけど、心の奥底では悠里と別れるつもりなんてないのよ。精神科
専門のわたしにはお見通しなんやから」
 「いや、そうじゃないって。今度はおれ心底思った。いざってときに、おれをいちばんだと思わ
ない女、絶対的な味方じゃない女は、ダメだ」
 「んー? 悠里は哲ヤン先輩のことをいちばん好きなんやと思うよ。たださぁ、彼女は責任感
が強いし、筋を通す性格だから、いきなり高圧的にゼッタイ今すぐついて来いって言われても、
ついて来ないよ。待てばいいやん。哲ヤン先輩。あと、三年……ううん、たった二年と三ヶ月や
ん。それに神戸にはたびたび帰ってくるんでしょ。何を意地になってるの」
 「……」
 「わたしから見たら、哲ヤン先輩と悠里は、強情っぱりなとこが、そっくりよ。……ぷはぁー、
目が回ってきました。ねえ、指輪、綺麗ね。ちょっとだけ、はめてみてよい? 憧れるなぁ、カル
ティエ。いいなぁー。わたしも誰かにもらいたい。哲ヤン先輩以外の誰かね。唾つきじゃないオ
トコ」
 「何やねん。指輪はだから、やるって」
 「いらん。ヒトのもんやもん。喧嘩別れの指輪なんて縁起悪いしさ。そうそう、わたしは今回、
仲直りを取り持つ気もないわよ。期待しないでよ。こんな大切なことは、やっぱり二人の間だけ
で解決するべきやもん。──それはそれとして、これ、試着してもいい? 悠里には悪いけど、
こーゆーのって、お店ではなかなかはめる機会もないし。うーん、きつい。わたし指太いなぁ」
 「関節の骨が太いんやろ。でも、店でははめる機会がないってか? カルティエ、おまえ持っ
てなかった? 何だっけ、時計かファッションリングか。金持ちやから何でも買えるやろ」
 「はぁ、はまったぁ。やっぱキレイー! カルティエっていいよねぇ。私も持ってるよ。トリニティ
っていうシリーズのリング。でもねー、ファッションリングならともかく、相手もいないのに婚約指
輪は試着する気にはなれないわ。何か惨めやん」
 「ははは」
 「笑わないでよ。深刻なんやから。……う。あ。やだ、抜けない……」
 「え」
 明子はとろんとした目で、指輪をぐるぐると回していた。左手の薬指が、見る見るうちに真っ
赤に染まっていく。
 「取れないよぅ、どうしよう。先輩、引っ張って」
 「無茶するなよ。いいよ、だから、やるってば」
 「そやから、他人のモノなんかいらないって。意地をはらずに、ちゃんと仲直りしなさい。でも、
う、抜けない。イタタ……」
 「じゃ、抜けたら返してくれよ。今無理に引っ張るなよ。酔ってるし、お前の怪力じゃ指の骨を
外しかねないぞ」
 「失礼ね。でも、そうする……ああ、惨め。もう、なーんでこんなに、わたしの指は太いんやろ」
 「何号?」
 「秘密。この指輪九号?」
 「おうよ」
 「九号かぁ。それは無茶だわ。はめるんじゃなかった。ごめん、哲ヤン先輩」
 「あー、いいっていいって。それより、真剣におれ、目が回ってきたんやけど」
 「うん、わたしも。帰ろうか。また連絡するね」
 二人はふらふらと立ち上がり、勘定を済ませて外へ出た。
 酔いでほてった頬に、冷たい外気が何とも心地よかった。
 一人で歩いていたときは華々しさが鼻についたクリスマス仕様の街路も、二人で歩けば心弾
む演出となった。恋人同士でなくとも、気の合う異性と歩く感覚は何とも言えず心地よい。
 別れ際に、明子が言った。
 「ね、哲ヤン先輩。釧路に行っても、神戸に帰ってくるたびに、わたしにも連絡してよね。約
束」
 「連絡するさ。メールも送る」
 「しょっちゅうくれる?」
 「しょうもないのでいいならな」
 「しょうもないのでいいの。何だかさぁ、寂しくって、わたし。みんな離れていくんだなぁって。学
生時代は楽しかったね。あの頃には二度と戻れないんやね、当たり前やけど、みんな自分の
家庭を持って、世界中に散り散りになって」
 「そりゃ、そうや」
 「悠里もね、不安なんやと思う。知らない土地へ行くことが。あれだけ内気な性格だし。もっと
もっとゆっくり、彼女の信頼を得なくちゃ、ね、先輩」
 「ハイハイ」
 「分かった?」
 「どうかな」
 「冷たいなぁ」
 「冷たいのは、アイツやで」
 ふと、心の中にどろどろと渦巻く鬱憤が酔いに任せて言葉に混ざる。
 明子は肩をすくめた。言い合っているうちに、のろのろと歩いていたつもりが、あっという間に
駅だった。二人の乗る電車は、明子は阪急、哲哉は市営地下鉄だった。手を振って別れる。
 哲哉はコートのポケットに手を突っ込み、背中を丸めて歩いた。
 明子と会う前までとてつもない違和感を発していた指輪の箱がない。そういえば、箱はどうし
たんだろう。店へ忘れてきたんだろうか。まあ、どうでもいいことだが。明子はああ言うが、おれ
はもう、本当に悠里には冷めてしまった。
 それでもポケットの中が寂しい。あんなにうっとおしいほど熱かった指輪の箱が、失ってしまっ
た今はまるで身体の一部分をなくしてしまったかのように、うら寂しく、うずく。
 おれは、ダメな奴だな。この違和感は何だ。明子のように、悠里のように、動揺しない精神が
欲しい。おれは男のくせに、揺らぎっぱなしだ。あいつらの方が余程肝が据わっている。早くに
母親を亡くしたことも一因なのだろうか。
 どうしておれは明子とつきあわなかったのだろう。
 その考えは唐突に哲哉の頭をよぎった。
 明子と話すと、いつも無条件に楽しい。不躾に言いたい放題を言っているようでいて、押し付
けがましくない思い遣りを忘れない明子。打てば響くような返事を返す明子。
 しんなりとした悠里とは大違いだ。悠里といると落ち着きはするけれども、決して明るい気分
になるようなことはない。
 あの指輪が、本当に明子へのプレゼントだったとしたら、おれの人生も明子の人生もまた違
うものになっていたかもしれないなぁ。
 哲哉は一度だけ、悠里と付き合う以前に、明子と寝たことがあった。明子は遊びだと言い、
実際妙にセックスが巧かった。それはそれで、男としてはひいてしまうものがあったのだが。
そして、明子は軽い口調で哲哉の耳元で囁いたのだった。
 「センパイ、わたしよりホントは悠里が好きなんでしょう? わたし、取り持ってあげようか」
 あのとき、おれはどう答えたのだったか……。


 「明子先生、ご結婚されるんですか」
 これでもう何人目になるだろう。
 翌十二月二十三日、朝から外来を担当していた明子は、何人もの患者に同じことを聞かれ
てうんざりしていた。精神科は常連客の顔見知りが多い上、明子は穂高病院の中でももっとも
若くて親しみやすい院長の愛娘、というイメージを持たれているので、患者も気軽に声をかけて
くる。
 医師の左手のくすり指に、華やかなエンゲージリングはいかにも場違いで、目立つ。
 一度ダイヤの部分を掌の方へ裏返してみたが、それはそれで仕事の邪魔になるのだった。
 「いえ、これは、違うんですよ。オモチャなんです。ゆうべ雑貨屋で試着してみたら取れなくな
って、買ってきたんです。うちの病院指輪禁止なんですが、取る暇がなくって失礼させていただ
いてます」
 「あらまぁ。たいへんですね。お医者さんに行かなくちゃ」
 「ねぇ。医者が病院に行くなんて洒落にならないですよね。本当、すみません」
 苦しい弁解を繰り返し、患者を一人片付けるたびに明子はこめかみを押さえる。
 二日酔いだ。吐き気と頭痛、おまけに指輪。明日の晩まで泊まり勤務だというのに。どうして
あんなに呑みすぎてしまったのだろう。やはり、寂しいのだ、わたしも。
 昨日の晩はどうやってベッドに入ったのかさえ覚えてもいない。
 朝は悲惨だった。危うく寝過ごすところを、家政婦の前田さんに叩き起こされ、酔ったまま半
裸で眠っているところを目撃されてしまった。
 焦って洗面所にかけこみ、歯を磨いていた弟の浩樹を突き飛ばして文句を言われ、「酒くせ
え」となじられたのでにおい消しのつもりで牛乳を飲んだら、出かけに吐いてしまった。
 死ぬ思いで診察室に入れば、指輪について質問攻めである。
 わたしも、プロ意識を持たないと、いけないんだけどなぁ。
 祖父の院長にこの醜態を見られたら、怒鳴りつけられるだろう。
 明子は急いで液体歯磨きで口をゆすぎ、マイクに向かって次の患者の名を呼ぶ。
 夕方までの時間は長かった。最後の患者を帰したのが二十時半。
 これから夕食、そのあとは入院病棟詰めだ。ただ、二十三時を過ぎれば、何事もなければ仮
眠を取ることが出来る。
 給湯室へ行くと、期待通り恒(こう)がいた。
 穂高恒は明子より四歳上の三十二才だが、明子には義父にあたる。
 死んだ母親、穂高浩子の再婚相手である。
 恒は高卒で、二十一才のときに三十五才の浩子と結婚した。
 浩子は、明子と浩樹の父親とは離婚していた。
 明子の祖父、穂高甚太郎としては病院の跡継ぎとなる婿養子が欲しかった訳だが、恒は医
師の資格を持っていない。当初はハードルの高かった浩子と恒の結婚だったが、真面目で朗
らかな恒の人柄に祖父の心も動き、また気の強い浩子に何を言っても無駄だと諦めも半分、
恒が穂高の婿養子に入るという条件で結婚を許した。
 しかし、結婚生活が始まって二年後に、浩子は交通事故で亡くなっている。
 浩子が死んだあとも、恒は甚太郎の強い勧めで穂高病院に残り、事務員として働いていた。
 明子にとっては恒は心強い存在だった。父のようにとはいかないけれども、穏やかな兄のよ
うに頼ることが出来る。
 「恒さん、お疲れ様」
 「ああ、明子ちゃん、お疲れ。今日の幕の内、チキン南蛮入っててうまいで」
 恒は一日の疲れを見せない穏やかな笑顔を明子に向けた。年齢不詳の顔だ、と明子は思
う。基本はハンサムだと思うのだが、どこか垢抜けずもっさりしていて──きっと長い前髪が悪
いのだ──大人しい大型犬のような瞳。
 「いただきます。ホント今日は疲れたわ。大きな声では言えないけれど、二日酔いで」
 「昨日は呑みに行ったん? え。明子ちゃん──結婚するの?」
 「もう恒さんまで言うしー。これねぇ。これが疲れの元凶なのよね。あ、そうそう、恒さん、これ
取るの手伝ってもらえへんかしら。関節が太くて取れない」
 恒は、明子の手を石鹸で濡らし、器用に指輪を外してくれた。明子は濡れた指輪をそっとハ
ンカチでぬぐい、箱の中に片付けた。
 幕の内を食べながら、明子は恒にことの成り行きを話した。
 「ふーん。釧路か。大企業は支社が多くてたいへんやな。でも国内でよかったんじゃない」
 「まぁね。中国やマレーシアにも支社があるって言ってるし。そう考えると釧路はまだ近いよ
ね。でも先輩は島流しって言ってた」
 「ははは」
 「笑い事でもないのよ。暮れも押し迫ったのに、喧嘩は深刻やし。でも本音を言えば、本当は
ね、悠里と哲ヤン先輩がいっぺんにいなくなったら寂しいなぁ。悠里だけでも、もう少しの間残
ってくれると思ったら、少し気が楽」
 「まぁ、大人だから。仕方ないって。失業するよりまし、まし」
 「それは、そうなんだけどね。すっごくブルー。みんな、遠くへ行っちゃうんやなぁって。旦那や
本人の転勤で、関西に残ってる子ってすごく少なくなった」
 「そうやんなァ。その点、明子ちゃんは病院の跡を継げば、ずっと関西にいられるからええや
んか」
 「真っ平よ。病院は浩樹に継がせる!」
 「でも浩樹くんは外科を希望してるって言ってなかった?」
 「そうなのよねー。精神科はいいよ、おいでおいでって言って聞かせてるんやけどね、おれは
騙されへんぞって」
 「ははははは」
 「だから笑い事じゃないんですってば。もう」
 「この指輪、悠里ちゃんに直接届けたらええやん」
 「うーん。ナルホドね。先輩には今回、わたしは間に入らないよ、って宣言したんやけど」
 「でも引越し二十八日なんやろ? 時間がないやん」
 「うーん。そうね。そうなんやけどね……」
 「僕はもうちょっとで帰るから、良かったら悠里ちゃんの家へ届けてくるけど」
 「あーあ。悔しいけど、仕方ないなぁー。じゃ、お願いします」
 「悔しいの? 明子ちゃん、もしかして……」
 「やきもち妬いてます。はい。でも、哲ヤン先輩が好きってことじゃなくって、いや、でも好きな
んだけど、悠里も好きだし。要はヒトの幸福が妬ましいというか」
 「ホラ、分からないことを言ってないで、箱貸して」
 「厳しいなぁ」
 恒は優しい笑顔は崩さずに、しかしきっぱりとした態度で、未練がましい明子から指輪の箱を
取り上げた。
 明子はふいに何ともいえない切なさに囚われた。
 ああ、本当に、二人は結ばれてしまうのだ。
 そして、行ってしまう。新しい人生を歩き始める。
 わたし一人を取り残して。みんな、みんな、行ってしまう。
 「そんな泣きそうな顔されると、困るやん。明子ちゃん、本当に哲ヤンのこと好きじゃないの。
もし、そうなんやったら、無理強いはせえへんよ」
 「いや、そうやないの。そうやないんやけどね。……ひがみっぽいだけ」
 「僕がいるやん僕が。二十五日は食事に行くって約束してるし」
 「うん。お義父さま。はー。わびしい」
 「じゃ、行ってくる。お先」
 「あ。ごめんなさい、お願いします。悠里によく言って聞かせて。哲ヤン先輩みたいな熱いオト
コはなかなかおらへんでーって」
 「了解」
 恒が出て行き、静かになった給湯室の中で、弁当がらを片付け、日本茶をすすりながら、明
子はため息をついた。
 恒さんはわたしのことが好きなんだろうか。もしかすると。
 気のせいかもしれないけれど、恒さんはポーカーフェイスだから。
 どちらにしてもわたしは恒さんのことが好き。
 昔から好きだった。お母さんが死ぬ前から、わたし、お母さんに嫉妬していた。
 けれど、お母さんが死んで、わたしは思った。
 わたしが醜く嫉妬したから、天罰が当たって、お母さんを殺してしまったのかもしれない。
 それ以来、恒さんを家族として、父親というのは無理だけれども、兄貴として思うように努めて
きた。わたしはいろんな男と付き合って、セックスした男の数は数十人。なのに、なぜか長続き
しない。
 悠里はいいなぁ。何だか彼女の傍にいるとほっとするもの。だから九年も同じヒトと付き合え
るのだ。わたしだって彼女のことが、同性の友人という感覚以上で好きだ。何だかとても彼女
は好きだ。
 でも悠里はいなくなる。恒さんがキューピットの役割を果たしに行ってしまった。
 お節介なんだから、まったく。
 胸ポケットの呼び出し用携帯が鳴った。板井婦長からだった。
 「明子先生、ご休憩中にすみません。三十一号室の横川さんが、また暴れて」
 「あ、はい。すみません、すぐ行きます」
 明子は慌てて立ち上がった。横川竜彦は、覚せい剤中毒後の精神分裂病で、大男なので暴
れだすと手がつけられない。失禁はするし、暴力は振るう、わめく、噛みつく、叫ぶ、手のかか
る患者の一人だ。
 そうだわたしは仕事中なのだった。
 甘い感傷に浸っている場合じゃなかった。厳しい現実に立ち向かわなければ。
 それにしても、精神病院で遭遇する現実というものは、必要以上に過酷なような気がするぞ。


 一日の立ち仕事を終えると、足がぱんぱんにむくんでしまう。
 悠里は、家の近所のスーパーで働いていた。十二月は特に忙しい。お歳暮、クリスマス、正
月とあるので、客足も多く、めぐるましい一日が過ぎる。
 家に帰ると、ぐったりと座り込みそうになるのだが、座ってしまえば立ち上がるのが辛くなるの
で座らずに慌ただしく夕食と弁当の準備、洗濯、風呂の準備、夕食の後片付け。
 凪が手伝ってくれようとする思い遣りがとても嬉しい。が、凪には勉強をさせたかった。
 「予習は済んだ? 勉強しなさい、片付けは姉ちゃんがするから」
 「ほーい」
 その声が、妙に男っぽかったような気がした。のそのそと自分の部屋へ引き返す凪の後姿を
悠里は振り返り、見つめる。
 そういえば体つきも少したくましくなってきたような気がする。数ヶ月ごとに大人になっていくよ
うな年頃なんだなぁ。この前までは本当に子供子供していたのに。
 頼もしい気持ちが三割、寂しい気持ちが七割。
 気を取り直して皿を拭いているとき、玄関のチャイムが鳴った。
 「はい? あ……恒さん」
 「こんばんは。遅くにすみません。サンタクロースを申しつかったもんですから」
 「は?」
 「これ。明子から伝言なんですけど。哲ヤン先輩みたいな熱いオトコはなかなかおらへんで、
って」
 「え。これ。指輪……ああ、昨日、呑みに行ったんですね、哲哉と明子」
 「そうなんですよ。それで」
 「やだ。わざわざ、申し訳ありません」
 赤面する悠里に、恒は優しく微笑を向けた。
 「こちらこそ、夜遅くに、すいませんでした。じゃ、失礼します」
 「あ、はい……あの、お茶でも」
 呼びかけたときには、恒は踵を返し、歩き始めていた。
 悠里はぼうっと恒を見送った後、掌の中の指輪を見つめる。
 戻ってきた。わたしのところに、また、哲哉のカルティエが戻ってきた……。


 凪は窓からするりと家を抜け出した。恒の後を追う。足音に気づき、恒が振り向いた。
 「こんばんは……恒さん」
 「ああ、こんばんは、凪くん」
 「あの……今日は姉に、何の用事で」
 「ああ……」
 恒は少し戸惑った。姉の細かい事情を語るには、相手の少年は幼すぎるような気がしたの
だ。
 「こないだから、姉ちゃん、様子おかしくて。どうも哲ヤンと喧嘩したみたいなんですけど、お
れには何も話さへんし」
 「うーん。喧嘩したけど、仲直りするんやないかなぁ」
 「そうですか。それやったらいいんですけど。元気ないから」
 「いいね、君の家は、きょうだい仲がよくて。うちの家は、明子と浩樹、喧嘩ばかりしてるよ」
 「そうでしょうね。ってすみません。何か、活発そうやから」
 「似たもの同士やから、喧嘩になるんやと思うけどね。心底仲が悪い訳じゃないけど、でも、
悠里ちゃんみたいに大人じゃないから、明子は」
 「……」
 何と言っていいか分からず、凪は曖昧に微笑んだ。その頭に、恒の大きな手が伸びた。
 「ええ子やな、きみは。お姉ちゃんを、大切にして」
 「でも、おれがおるから、姉ちゃんは婚期遅うなっとんちゃうかな。気になりますよ」
 「まぁ、なるようになるさ」
 恒は目を細めた。感受性が鋭くて、しかも素直な子だ。まだ手放したくない、という悠里の気
持ちが、分かるような気がした。


 悠里が食器を片付け、リビングのソファに腰掛けたとき、携帯が鳴った。明子だった。
 「悠里? 恒さん、そっち行った?」
 「うん。ごめん、何だか迷惑かけて」
 「そうよ、大迷惑よぉ。イブイブなのに、今頃哲ヤン先輩、落ち込んでるよ。一人で島流しだと
思って。あかんやん、こういうときに力になってあげるのがカノジョでしょ」
 「でもねぇ……まあ、そうなのかなぁ」
 「そうよぉ! しっかりしなさい。……あのね、ところでわたし、悠里に謝らないといけないこと
が」
 「え」
 「その指輪ね、わたし一日はめてたの。哲ヤン先輩と呑んでるときに、出来心ではめたくなっ
て、はめたら抜けなくなっちゃって。指が抜けそうやってね」
 「あは。そうなん」
 「もー、九号なんでしょう。十三号の指に無理やりはめると、そりゃ地獄よ」
 「あはは」
 「じゃ、仕事中やから。この電話終わったら、すぐに哲ヤンに電話するんよ? いい?」
 「ん。ありがとう」
 くすくす笑いながら電話を切って振り向くと、凪がテーブルに載った指輪を眺めているのを見
つけ、悠里は仰天した。
 「あ。それは」
 「悠里ちゃん、結婚するん」
 「……今は、せえへん。凪が高校卒業するまで」
 「何で。別にええよ。気を使うなよ。哲ヤン近所に住んでるし」
 「哲哉は釧路に転勤やねん。来月から」
 「釧路! ええっ……もう、すぐやん。それで喧嘩しとったん」
 「ん」
 「哲ヤンはすぐに着いて来いって言ったんちゃうん。行ったれよ」
 「行かへんよ。あんたが高校卒業するまで。……凪、高校卒業したら、姉ちゃん、行ってもい
い?」 
 「今すぐでも行ってやれよ。おれもう子供じゃあれへんで」
 「行かない。行きたくない」
 ──なら、行くな。一生、行くな。悠里ちゃん。
 言葉を飲み込んで、凪はうつむいた。
 「おれは姉ちゃんの幸せを祈ってる。姉ちゃんに育ててもらったし、感謝してるし。でも、おれ
のせいで嫁き遅れたら、困るわ」
 「大丈夫。ありがと」
 悠里は泣き笑いの顔で、凪の肩に額を置いた。
 明子。恒さん。凪。哲哉……みんな、ありがとう。
 わたしの周りの人は、とても温かい。胸が熱くなった。
 悠里は明日がクリスマス・イブであることを思い出した。
 「悠里ちゃん、明日はホワイトクリスマスになるかもってよ。天気予報で言ってた」
 凪が悠里をそっと押しのけた。
 「電話しなよ、哲ヤンに」


 十二月二十四日、夜。外はしんと寒かった。
 「明子先生、雪ふっとるわ」
 澤田という若い男の入院患者に声をかけられて、明子は窓の外を見た。
 小さな粉雪が、ちらちらと舞っていた。
 「本当! ホワイトクリスマスですね」
 「クリスマスかぁ。クルシミマスって感じやわなぁうちらには」
 中年の女性患者、良子が、キンキンとけたたましい笑い声をたてる。
 「やかましいなぁ、黙れ」
 「何やって。笑って何が悪いねん」
 気色ばんでつかみ合おうとする二人の間に、明子は慌てて割りこんだ。
 「やめなさい。暴力は何の解決にもならないって、いつも言ってるでしょう。あ、板井婦長! 
ちょっと来てください! とめて!」
 「何してるんですか! 二人とも、やめなさい!」
 周りの患者と明子が澤田を押さえ込み、板井婦長が良子を押さえ込んだ。
 「夜興奮すると、眠れなくなるわよ。隔離室にいきたいの、澤田くん」
 興奮した患者を隔離するための隔離室には、澤田の好きなテレビは用意されていなかった。
澤田はむっとした顔で黙り込んだ。
 「どうせ薬で無理矢理眠らされるんやん、あたしたち」
 傍で若い鬱病の少女がぼそっとつぶやく。
 「飲みたくないと思ったときは、飲まなくてもいいねんよ、志乃ちゃん。眠れないときに、飲みな
さい。飲まなかったお薬は、返してね」
 明子はそっと少女の肩を抱いた。
 「うん。でも、あったら飲んでまうねん」
 「じゃ、今夜は渡さないでおこうか。で、眠れなかったらナースコールを押して言ってくれたらい
いから」
 婦長がちらっとこちらを見るのを感じ、明子は慌ててつけ足した。
 「先生の携帯を鳴らしてくれてもいいからね」
 立場は「先生」でも、明子はまだ駆け出しの新人だ。
 「じゃあ、今度騒いだ人は、隔離室に行ってもらうからね」
 婦長がおごそかに言い残して部屋を出て行った。
 明子はほっと胸を撫で下ろし、静かになった病室を見渡して、患者の表情を観察し、それぞ
れの顔から興奮の色がおさまっていることを確認してから、病室を出た。
 控え室の机から化粧ポーチを取り出し、職員用トイレに向かう。
 化粧ポーチには、院内呼び出し用携帯電話ではなく、自分の携帯電話をいつも入れていた。
 個室に閉じこもり、急いでチェックする。
 十数件のメールが入っていた。明子はマメに休みの日に友人に連絡を取るので、学生時代
から仲が続いている友人が多い。
 休みの日には精神的に安定した友人たちと接することで、何とか自分の心のバランスが取
れる、と明子は思っている。友人は明子の精神安定剤だ。
 慌ただしくメールに眼を通す。たくさんのメリー・クリスマス! のメッセージ、雪だるまやサン
タクロースの絵文字、二人で幸せそうに写真つきメールを送ってくるマメな奴。
 その中に、哲哉からのメールが入っていた。
 『メリー・クリスマス! 明子、サンキュ! 二人でイブを楽しんでます。恒さんにもよろしく! 
明子ラブラブー 愛のかけらを二人より  哲哉・悠里』
 「何よこれ、むかつくなぁー。悔しいなぁ、もう」
 明子は苦く笑った。二人は仲直りして、よろしくやっているということだ。
わたしは、あの良子さんの言葉を借りればメリー・クルシミマス。今夜も患者たちの心の門番を
勤めて、髪を振り乱してるというのになぁ。勝手に楽しんでよ、もう。それにしても、写メールじゃ
なくて良かった。そんなものを送って来られた日にゃ、わたしはもう、泣くわよ。
 明子は弾丸のような速さで、メールを打ち込んだ。
 『メリー・クリスマス! わたしは病院のトイレの中からこっそり打ってます。カルティエの指輪
はもうこりごり。わたしが結婚するときはティファニーにするぞぉ。わたしはわたしの道を行く!
 Lonely明子 』
 そこまで打って、思い直し、消去した。もう一度打ち直す。
 『メリー・クリスマス! ホワイトクリスマスになったね。いい感じ♪ 今年のクリスマスは思い
出になるね、きっと。わたしも明日はクリスマス本番を楽しみまーす  明子』
 強がりかな、と思う。けれども、弱音を吐くのは好きじゃない。酔ったときだけで、充分だ。送
信ボタンを押し、二人の携帯宛に送った。
 そして、携帯を閉じようとしたとき、新しいメールが入っているのに気がついた。
 『メリー・クリスマス。明日の食事、楽しみにしている。人も減って優雅に過ごせるに違いな
い。雪はもう五cmほど積もっている。明日までもつかもしれないよ。 恒 
p.s. もらいそこねた指輪、僕が君にあげたい』
 明子は黙って携帯を閉じた。
 たくさんの想いが胸の中を渦巻く。
 恒さん。わたしも好きです。好きです。あなたを知った十五才のときから執念深く愛してます。
でもね。お母さんは黄泉で何て思うだろう。おじいさんは何て言うだろう。浩樹が精神科でなく外
科を選び、わたしが恒さんと結婚したらわたしは一生ここで勤務ね。きっと。そんなことはどうで
もいいけれど。
 ねえどうして今メールをよこしたの。タイミングが良すぎるよ。
 わたしは泣きそうよ。仕事中なんだから泣かせないでよ。
 何かメッセージを返したいけれども、こんなトイレの中ではいい言葉が思い浮かばない。
 明日を待とう。
 恒さんの目を見て、自分の心を唇から直接、そのときに浮かんだ言葉で伝えよう。


 明子が病院のトイレで涙を拭いているとき、哲哉と悠里は北野で食事を取っていた。フランス
 料理はどこもいっぱいだったので、またしてもイタリア料理のレストランだった。
 けれど、何を食べるかは二人にとってはどうでもいいことだった。
 数日振りに手をつなぎ、互いのぬくもりを確かめ、瞳を見つめた。哲哉と悠里は接吻し、二年
と半年後の結婚を誓い合った。
 柔らかな黄金色の蛍光灯の下で、蝋燭の火がゆらめく。
 悠里の左手には、明子と恒の手を渡り、舞い戻ってきたカルティエの指輪が蝋燭の光をちら
ちらと映し煌いていた。
 思ったとおり、繊細なデザインが悠里によく似合う。
 「来年のクリスマスは一緒に過ごせるやろか。悠里、北海道で過ごすクリスマスはどうや」
 「うん。……雪祭りに行ってみたい」
 「それは時期が違うやん」
 「ふふ」
 悠里はあでやかに微笑んだ。花のような微笑だと哲哉は見とれた。
 静かな光の下、背筋を伸ばして椅子にかけ、ふうわりと笑う悠里の姿は聖母像のようだ、と
思う。
 九年前の記憶がふいに蘇ってきた。悠里の母の葬儀の日。
 晩秋の午後、早くも翳り始めた光を受けて、泣きじゃくる小さな弟の肩を抱き、激しい感情を
隠して爛々と目を光らせていた、母を亡くしたばかりの少女。
 そのとき、哲哉は、その痩せて険しい表情を浮かべた少女のことを、何故か聖母のようだと
思ったのだった。
 九年の時を経て、彼女は今、大人になり、おれの傍にいる。
 時の流れと共に、皆は離れていくけれども、彼女はおれの傍にいる。
 いや、皆が離れていくわけじゃない。何が起こるか分からない。また新しい出逢いもあり、別
れもあるだろうけれども、大切な友人たちとはきっとこれからも、メールや葉書を交換し、機会
を作っては再会していくのだろう。
 な。明子。そうだよな。
 「ね。哲哉」
 「え?」
 「雪が降ってる」
 「あ。本当だ。雪やなぁ。ホワイトクリスマスやな。あー、釧路ではきっと山のように雪が見れ
るぞ。毎年がホワイトクリスマスや」
 悠里がまた、くすくすと心から幸せそうに、仔鳩のような咽喉声で笑った。






(おわり)          
                                    
                                                           (2002.11.27)          




Wishing Your Merry Christmas!



   ☆読んでいただいて本当にありがとうございました。 カルティエの婚約指輪は、私の友人が何人も選んだ、
    けれども私にとっては憧れで終わってしまった指輪です。 とても繊細で綺麗なデザインなのです。
    よろしければ、カルティエの公式HPをご覧ください。こちらよりどうぞ。 小室&KEIKOもカルティエを
    婚約指輪に選んだそうです……(−−) クヤシイ!