小説(長編2) [ 冬の陽炎、哄笑響く 第2話 ]
[ 第2話 (全5話) ]
国道四十三号線から一七一号線に入り北上する。道路沿いにはさびれたレストラン、喫茶
店、紳士服店、仏壇屋、眼鏡屋、中古車ショップ、コンビニエンスストア、和菓子屋、さまざまな
店がたち並ぶが、その半分近くがすでに廃業して無人屋敷と化している。立ち退いた跡地を買
えるだけの金を持つ人間は少なく、売れないままにほとんどの店が寂れた姿を晒したまま残っ
ている。シャッターが下ろされ、割れた看板が侘しく立つ廃屋の庭先に、そして店と店の間に広
がる雑草で荒れ放題の多くの空き地の中に、ホームレスのテントやダンボールハウスが無数
に立ちならぶ。それは、終戦後に植え替えられ、生き生きとした葉を茂らせた街路樹のみずみ
ずしい端麗とシュールな対照をなす、索漠と寂びれた光景だった。
車の窓を開ければ、排気ガスの匂いとは別に、ホームレスたちの腐った排泄物のような体臭
と、生活臭、ごみ溜めの腐臭の混じった空気が流れ込み微かに鼻をつく。
倒壊したニッポンスーパーの倒壊現場に到着したとき、翠の言ったとおり、あたりは既に略奪
に押しかける人の山でごったがえしていた。
興奮した人の群れにどさくさにまぎれて叩き壊されるのを惧れ、大雅は車をスーパーから二
本離れた路地裏に停め、二人は現場へ走った。
粉塵が鼻と喉に入り、翠は咳き込む。
見慣れたニッポンスーパーは跡形もなく崩れ落ち、瓦礫の山と化していた。恐竜がまるでこ
の場所だけを踏みつけて去って行ったかのような、無残な崩壊だった。
瓦礫になったスーパーの周囲にはパトカー、消防車、救急車、ショベルカー、一般人の乗用
車やトラックが数十台集合していた。
パトカーや消防車は数で圧倒する群集の攻撃にあって横倒しになっていた。救助活動にあた
る救急車やショベルカーでさえもが攻撃の対象になり、あちらこちらで警官や消防官、救急隊
員が袋叩きにあっている。喧嘩祭りのような昂揚の光景だった。集まった人間皆が暴力に酔い
しれ、日頃の貧しい生活の中で鬱屈して溜まった凶暴なエネルギーを激しく発散させていた。
長い戦争の間に民間に氾濫した拳銃が治安を悪化させ、拳銃の使用規制はより強くなった
のだが、そのために警察官までもが簡単に発砲することを許されなくなっていた。下手に発砲
して民間人を殺したら、懲戒免職である。ゆえに、群集はいっそう調子づき、四六時中、暴動を
起こす。警視庁には諦めの雰囲気が漂っている。犯罪に巻き込まれて殺傷されても捜査は進
むことなく、泣き寝入りを余儀なくされる被害者がほとんどだった。故におのれの身をおのれで
守ろうとする人々は、殺傷力の強い武器を買い求めようとする。闇に出回った銃器は、飛ぶよ
うに売れる。悪循環だった。
倒壊による圧死者は二名のみと報道されていたが、辺りには血痕が散乱し、あちこちに倒れ
ている人間がいた。あとから押し寄せた連中の争いの痕跡だ。このぶんでは死者は数十名に
のぼるかもしれない。流通店の倒壊の都度起こるおなじみの現象だ。直接の死者に加えてそ
の後の騒乱の死傷者が非常に多いのは、殺伐とした今の日本の皮肉な現状である。
人々は興奮し、歓喜の哄笑をあげながら、瓦礫の山によじのぼり、足を取られてよろけなが
らも物品を掘り返していた。晴れわたる十二月の秋の澄んだ青空の下、この一角だけが粉塵
で灰色に濁り、男たちも女たちも興奮に頬を赤黒く染める。流れ落ちる汗はてらてらと光り、物
欲に目が眩んだひとびとの猥雑な表情をいっそう卑しく見せる。
大雅はその風景を見渡し、中に混ざることに対して身震いするような嫌悪感を覚えた。
が、翠はといえば大雅が慄然として立ちすくんでいる間にひらりと瓦礫の山の上へ飛び上が
り、敏捷な身のこなしで建材を威勢良く持ち上げては振り落としている。
「おいこら!」 ──翠! と叫ぼうとして、慌てて大雅は言葉を飲み込んだ。万が一素性がば
れたら困る。「──おまえ! 瓦礫を投げるときは下を見ろ! 人に当たるぞ」
翠の耳には届かないようだった。何を捜し求めているのか、翠は夢中で身体を動かし、重い
建材を取り除き、掘り返そうとしている。
翠の背後にいると危ないので、側面から大雅は必死で瓦礫の山をのぼり、翠の傍に近づい
た。出し抜けに翠が満面の笑みを浮かべて、大雅を見た。
「ほら、お宝ひとつ発見や。──プラスチックやから、損傷してへん。オリーブオイルや」
二リットルはありそうな大きな瓶を三本、四本、五本と掴み出し、大雅に手渡す。
「ちょい待て、こんなにオイルばっかりあっても、使いきれへんぞ」
翠は聞いていなかった。横から中年の女が手を伸ばしてきたところを、蹴り上げたのだ。
「おらてめえ! ここはおれが掘ったんや! ネコババするな、このドブスが! 豚!」
女は負けていない。翠を蹴り返そうとし、転倒したが、転倒した顔の傍にあったオイルを一
瓶、嬉々として拾い上げた。その光景を見つけた他の連中が、ぞくぞくと押し寄せ、たちまちオ
イルの瓶は奪い合いになった。罵声をあげながら、ひとつの瓶を数人がもぎ取ろうとする。たく
さんの指がひとつの瓶を争って絡まり、圧力をかけられて歪んだプラスチックの瓶から蓋が飛
んで外れ、オリーブオイルが飛び散った。一面にオリーブの油臭い匂いが立ち昇る。
「あかんわ、火でもついたらえらいこっちゃ」
翠は舌打ちをして瓦礫の山を踏み越え、別の場所を掘り返していく。大雅は六本のオイルを
急いでワゴンを停めた路地に走り戻って積み込み、トランクから軍手を取り出し、息を切らせて
再び倒壊現場へ走り戻る。
「おい! 軍手や、ほら」
「おう! サンキュ。ほら、二つ目や、高級品やで、羽根布団!」
「おいーーー。頼むし、やめてくれや。重いしかさばるし。そんなもん要らんやろ。今家にあるぶ
んで充分やんか」
「病院にどうや?」
「ああー。そうか、ナルホド。そりゃいい。じゃあもらった」
再び大雅は、大きすぎる餌を抱えてよろよろと歩く蟻の子よろしく、ビニールのケースに入っ
たピンク色の花柄の羽根布団を抱えて走り出す。
戻ったときには、翠は両手いっぱいに冷凍のシーフードのパックを抱えていた。さらに損傷を
免れたタグ・ホイヤーの腕時計、ポロ・ラルフローレンの帽子、ヴィトンの旅行用バッグ、フェン
ディのマフラー、ポール・スミスのセーター、ドゥニームのジーンズ、ロシア産キャビアの缶詰、ク
ラッカー、ベルギー産ブルーチーズ、ミネラルウォーター、ウォッカ、缶ビール、安眠枕、木製の
ワゴン、盆、プラチナのネックレス、風邪薬、ビタミン剤。翠は魔法のように掘り当てていく。翠
の胸は躍っていた。ひとつ探し当て、またひとつ。どんどん出てくる、宝の山だ。倒壊したニッポ
ンスーパーは、名前は貧相なのだが敷地面積は広大で、高級品を大量に取り扱っていたディ
スカウントショップなのだった。
争奪戦は、翠には楽しくてたまらなかった。罵りあい、掴み合い、子供であれ女であれ、誰彼
かまわず弱いものは容赦なく瓦礫の山から蹴り落とす。身体ひとつが、勝負のすべてだ。
新しい宝を見出す度に、翠はバケツリレーのごとく大雅に手渡し、大雅は車へ走り戻り、再び
翠のもとへ駆けつける。翠は暑くなってきたのだろう、ひとつずつ上着を脱いで腰に巻きつけ、
十二月の空の下、黒のタンクトップ一枚で作業をしている。見る度に、翠の身体にはかすり傷
がどんどん増えていき、あちこちから血が流れている。興奮しているので、痛みも感じないのだ
ろう。大雅は思う。こんなくだらない物欲のために──いや、翠の欲しているものはモノそれ自
体ではなく、この狂乱の雰囲気だということはよく分かるのだが──破傷風にでもなった日に
は目もあてられないぞ。
「おい、いい加減にしろ。トランクも後部座席もぎゅうぎゅう詰めや。もうずらかろうや。これ以上
ものは積めん」
「あ、そうか。オーライ。じゃ、これを最後に……」
翠が引きずり出したものを見て、大雅はうんざりした。それは、暗い色合いの木彫の椅子だ
った。
「そんなでかいもん、積めへんで」
「いける、いける」
その時、翠が背後から走ってきた何者かにぶつかられて転んだ。慌てて体勢を整えようとす
る翠の背後から、いちはやく起き上がった相手が襲い掛かる。その手には出刃包丁が握られ
ていた。相手は包丁を大きくふりかざした。
血に染まった銀の刃が陽光に反射する。振り返った翠は驚愕の悲鳴をあげた。
大雅は死に物狂いで翠を突き飛ばし、襲撃者ともみ合った。
相手は小柄で、腕を逆手に捻りあげると、悲鳴をあげて包丁を落とした。翠が叫ぶ。
「放すな! その女! 毛利梨花や!」
「え」
大雅は驚いて、娘の顔を覗き込んだ。日本人形の切れ長の黒い瞳が、厳しい戦意を湛えて
凛と大雅を睨み返す。腕に噛み付こうとする梨花を、大雅は慌てて放し、梨花はすり抜けて逃
げようとした。そのとき、立ち上がった翠の振り降ろした椅子の足が彼女の背中に打ち込ま
れ、梨花はあっと叫んで崩れ落ちた。
「おまえ、無茶するなよ。殺す気か」
「殺す気満々やったのはコイツの方やで。見ろよ。今気がついたけど、刺された奴がたくさん倒
れてる」
翠の指差した方角を見て、大雅は息を呑んだ。あたり一面に、背中から血を吹いて倒れてい
る人間がぞろぞろといる。動かない奴、苦しみもがく奴。数十人はいるだろう。掴み合いになっ
た相手に殴り倒されて昏倒している人間もいるが、血を流している人間は梨花が刺したのだろ
うと思われた。見ると、梨花は、右腕から胸まで、鮮血の真紅にびっしょりと濡れていた。
大雅は倒れている人間の存在には気がついていた。それは略奪の現場では常だった。
しかし、このように通り魔的な殺意を持って凶器を使う奴に出くわしたことは、これが初めてだ
ったのだ。
翠は打撲の痛みで動けなくなった梨花の胸倉を掴みあげた。
「これが今日のいちばんの戦利品や。思いがけない収穫やったな。行こう、大雅さん。こりゃ早
く逃げないとやばいわ」
「その子を拾うのか」
「当たり前や。踏んだくられた金、返させる」
面倒なことになったと思ったが、骨折しているかもしれない梨花を放っておくのも大雅としては
気がひけた。
大雅は翠の腕から梨花を取り上げ、彼女の膝を持って肩に担いだ。少女の柔らかい上半身
が、ぐんなりと大雅の背中に垂れ、男の厚い胸板にぶつかって跳ね返り、ぐらぐらと揺れる。
遠くから次々に響いてくるサイレンの音と、血眼になって争い略奪を続ける群衆を尻目に、二
人は路地を抜け、車を置いてある通りに走った。翠は命を狙われた直後だったが動揺してい
る様子はなく、ちゃっかりと繊細な彫りの椅子を放さずに小脇に抱えてついてきていた。
翠は梨花を抱えた大雅を追い抜かして先に車に到着し、嬉々として運転席に乗り込んだ。大
雅が助手席のドアを開けて、叫ぶ。
「おい、翠! 運転はおれがするって言ってるやろ!」
「家へ帰るんやないで。おれの『城』へ行くんや」
「あー。あの粗大ゴミハウス……」
「ゴミやない。城や。そのために、椅子をゲットしたんやから」
「そうか。分かったから、席をかわってくれ。頼むから。おまえは助手席で、この子を抱っこして
人殺ししないように捕まえてろ」
「しゃあないな。安全運転するっていつも言ってんのに」
「どこがやねん。今なんか特に厭やわ。コーフンしやがって」
「ほいほい。興奮してますよ確かに。サカリがついとるわ」
「けだものやな、まるで」
翠は大雅から梨花を受け取り、彼女の両腕を後ろに回し、略奪してきたマフラーを使い、容
赦のない強い力で固く縛りあげた。
梨花は無言で目を光らせ、されるがままになっている。
翠は助手席に座り、梨花の胴に腕を回し、しっかりと自分の膝に固定した。暑苦しい帽子を
脱ぎ捨て、大きな黒のサングラスを取る。
そのとき翠は、ふっと、バックミラーに小さく銀灰色の髪の若い男が映るのを見た。
どこかで見覚えのある男だった。どこだったか。
確かめようと振り返ったときには、車は発進し、角を曲がって大通りへ出ていた。
黄金色に色づきかけた桜並木を抜け、ワゴンは南下し、さらに西へと向かう。アスファルトの
ひび割れの盛り上がりが、時折車を揺らし、その都度三人とぎゅうぎゅうに詰め込まれた荷物
は跳ね上がったが、それも日本人ならば皆誰しもお馴染みのことだった。道路を直す作業は
遅々として進まず、人々は自衛手段としてそれぞれが衝撃に強いタイヤを購入する。その結
果、今や日本のタイヤ産業は世界のトップの技術を誇るようになっていた。
錆びた鉄条網に囲われ、草がぼうぼうと生え茂る荒れ地の裏側に、翠の『城』のある廃校と
なった公立小学校が建っていた。
大雅の知る限り、この小学校は廃校になって十五年は経過している。主に売春を生業とする
ホームレスの若者連中の溜まり場になっているのだが、未だに取り壊されていないのは、市役
所の慢性的な財政難のためだった。
「おい、梨花ちゃんよ。この辺りはよう知っとるんとちゃうか。おまえの住所はこの近くやろ」
「……」
「口をきかねえか。それなら、こうや」
翠は少女の乳房を背後からわしづかみにした。梨花は悲鳴をあげた。翠はせせら笑って、少
女の黒いジーンズのジッパーをおろし、手を入れ、ショーツの中をまさぐる。強奪の余韻に、翠
は興奮冷めやらず、生理的に昂ぶっていた。
「い、いやっ! 痛いっ」
「おっ。初めて、まともな口をきいたな。カワイイ声出しやがって」
梨花の声はその冷たい表情に似合わず、澄んで高く細い、気持ちの良い声だった。
闇雲に暴れて逃れようと足掻く梨花を軽々と抑えて、翠は梨花の股間をさぐった。ぬるりとし
た感触が指を濡らした。
「いたいっっー!」
「──何や。おまえ、生理か」
翠は濡れた指を引っ込め、ショーツから出して、指先に付着した思わぬ量の鮮血を見、眉を
ひそめた。
「気持ちわりぃ」
悪態をついて、梨花のすべすべとした頬に指先の鮮血を塗りたくる。
乳白色の頬が、みるみるうちに赤黒い血に汚れていく。屈辱に、梨花は唇を噛み締める。血
の匂いが微かに漂いはじめる。
大雅は中庭内に車を乗り入れ、ブレーキを踏んだ。
「おい。翠。やめろ」
翠は肩をすくめて眉を吊り上げたが、おとなしく梨花の顔から手を離し、元通り彼女の腰を
抑える位置に腕を戻した。大雅の声には、逆らってはいけないと翠に本能的に感じさせる、強
い憤怒と嫌悪感を押し殺した響きが混ざっていたからだった。無言で子供のような膨れっ面を
する。それが翠に出来る精一杯の反抗だった。
「梨花ちゃん、出血が止まらへんのか」
大雅が穏やかな声で梨花の顔を見て尋ねる。梨花はうつむいた。
「中絶といっても、梨花ちゃんの場合は出産したのと同じ負担が身体にかかっているんやか
ら、安静にせんといかんねんで」
「……」
「痛くないか?」
「……痛い」
梨花の目に、みるみるうちに涙が膨れ上がってくる。ぽたり、ぽたりと涙は頬に落ち、血液に
汚れた頬を洗い流す。
「わ、わたし、死ぬんでしょうか、せ、先生」
梨花はしゃくりあげた。その梨花を膝に乗せている翠の身体には、彼女の背中が激しく震え
る感触が伝わってきたが、翠はかえって用心のために梨花の腰に回した腕に力を込めた。
信じられるか。三日苦しんで出産したその日に病院を逃げ出し、つい先刻、十数人の人間を
出刃包丁で殺傷した女が、股を弄られたくらいで涙を流すものか。これはフェイントだ。この娘
なら泣き真似など朝飯前の技だろう。おれは騙されないぞ。翠はそう考え、隙を見せまいと思
う。
大雅は梨花に何の不信も抱いていない様子で、安心させるように優しく言う。
「安静にすれば、大丈夫、治るよ。薬を飲めば、やけど。とりあえず、今、痛み止め、要るか
い。車の中にあるけど」
「……ごめんなさい。申し訳ありません。ください。お願いします、痛くて、わたし、ああ……」
さらに梨花は大きく嗚咽する。顔中が涙まみれになっていた。腕を後ろ手に拘束されている
ため、涙を拭くこともかなわない。
「おい、翠。マフラー、ほどいてやれ」
「何やって。人が良すぎるよ大雅さん。コイツなんか信用できるか。何が、痛いや。腹の痛い人
間が、さっきまで何人殺したと思う。ほどいたらコイツはとっとと逃げるで」
「とっとと逃げてもええやん。おれたちに何の不都合がある。それに、おまえも見たとおり、出血
しているのは確かやないか。痛いのはホンマやと思う。放してやれ」
「ち。ブラジャーの中にカミソリでも隠し持っとるかもしれへん奴を……」
ぶつぶつ言いながらも、翠はそれ以上逆らわずに梨花の腕から手を離した。車のドアを開
き、梨花を支えて下ろし、後ろ手に拘束したマフラーを解いてやる。梨花は突っ立ったまま、不
自然な形に拘束されて強張った腕の筋肉をそっとほぐすように肩を上げ下げした。
「ほら」
大雅が梨花にハンカチを差し出した。涙を拭く梨花に、二粒の薬とスーパーの倒壊現場から
盗んできたばかりのミネラルウォーターを渡す。
梨花は薬を飲み干し、おずおずとばつの悪そうな微笑を見せた。
「……ありがとう」
「さっき、背中を椅子で打撲したやろ。肋骨は何ともないかい」
「ええと……」
梨花はぎこちなく自分の胴を撫で回した。
「……大丈夫です。ありがとうございます」
翠は唐突に理由の分からない苛立ちを覚えて、二人の傍を離れた。むしゃくしゃした気分の
まま、車の荷物を乱暴に降ろしにかかる。
──何だ、あの娘。いきなりしおらしい態度に出やがって。あいつの血塗れの右腕、大雅さん
の目には入らないのか。どういうつもりなんだ。毒蜘蛛に餌を与えるようなもんだぞ。
大雅も梨花の傍を離れ、車のトランクを開き、羽根布団を引きずり出した。
「何や、それ。病院に持っていくって言っとったんと違ったか」
「いや、とりあえず梨花ちゃんを休ませてやろうと思ってな」
「けっ。惚れたんか、あんた。イカれてる。二十も下の女やで。二十やでおい! この、ロリコ
ン」
「おれ、もともとロリコンやもん。そやないとおまえを飼ったりするか」
「開き直りやがった。──はっくしゅん!」
翠は大きなくしゃみをした。考えてみれば、タンクトップの上に何も羽織ってないのだった。梨
花を膝の上に乗せていたため、今まで寒さを感じなかったのだ。
「ほら上着を──」
大雅が説教を始める前に、翠はさっさと車の中から長袖シャツとジャンパーを取り出し、身に
着けた。腰骨にコトリと堅いものが当たった。何だろう、と翠はポケットをさぐり、ひやりとした鉄
の感触にいきあたった。出掛けに持ってきたブローニングだった。翠は拳銃の手触りを確かめ
ながら、苛立った神経が嘘のように鎮まっていくのを感じた。武器があれば安心だ。武器があ
れば命を守れる。武器さえあれば、ああ、いとしいおれのブローニング。
翠は盗んだ食料品、酒、椅子、オリーブオイルなどを取り出し両腕いっぱいに抱え、自分の
『城』へ向かった。大雅は羽根布団を肩に抱えて車に鍵をかけ、手持ち無沙汰に立ちすくんで
いる梨花を促し、翠のあとへ続いた。大雅は振り向かなかったが、おずおずと小さな足音が後
ろからついて来る気配を感じた。
梨花は校庭へ入り目を丸くした。朝礼台のまわりにぐるりと丸い空き地があったが、あとは見
渡す限り、ダンボールやビニールで作られた、ホームレスの家が立ち並んでいたのだ。校庭の
隅には、柵の壊れたウサギ小屋の残骸、鎖が片一方外れてゆらゆらと虚ろに揺れるぶらん
こ、錆びた鉄棒とジャングルジム、砂場にはペンキの禿げた象やリスの形の椅子。もちろん、
こんなところで子供を遊ばせる親はいるはずもなく、使われない遊具たちは雨ざらしとなって朽
ちかけた姿を晒していた。
ホームレスは日本中に怒涛のごとく溢れかえっているので、梨花も見慣れてはいたが、この
小学校のホームレスの小屋は、普通のホームレスの小屋よりも清潔な感じがした。あたかも
小さな街のように、秩序に従って整然と並んでいる。何よりも、テントとテントの間に電線がはり
めぐらされて、豆電球がぶら下がっている様子が、彼等の生活の精神的なゆとりを表してい
る。
陽が沈みかけていた。オレンジ色の大きな太陽は、逆光の中暗く浮かび上がる山の裾に半
分身を隠し、山の輪郭は鮮やかな茜色に染まり、頭上を見れば靄のかかった濃いラベンダー
の黄昏が広がっていた。その中に浮かび上がる無数の小さな小屋は、灯りはじめた豆電球の
灯に照らされてぼんやりと浮かび上がり、一種の郷愁さえ感じられる。夏祭りの宵のような、幻
想的な光景だった。
翠は先に立って歩き、校庭の隅にある、黴の生えた水が入ったペットボトルと缶、新聞紙、雑
誌、得体の知れない紙コップなどがごちゃごちゃと猥雑に積み重ねてあるゴミの山の前で止ま
った。そして新聞紙を払いのけ、何やら鍵を開けて中に入って行った。大雅があとに続こうとし
て立ち止まり、梨花を振り返る。
「驚いた? 来てごらん、中は意外と居心地いいから」
梨花は中に入り、驚いて口をぽかんと開けた。ゴミ溜めの中は、まるで彼女がテレビで見た
ことのある『ゲル』──モンゴルの遊牧民が生活をするしっかりとしたテント──のように、頑丈
な柱が立ち、床はフローリングのカーペットが敷き詰められた上にカーペット、天井には洒落た
ランプが吊られ、煌々と三人の姿を黄色い灯で照らしていた。
「ちょっと、換気しよう。大雅さん、そっちの戸、その椅子を挟んで開いとってくれ」
「おう」
翠は反対側の扉を開き、固定した。新鮮な風が小屋の中をすうっと通り抜けていった。
「すごい……」
梨花がはからずも漏らした、という様子でつぶやく。大雅は梨花を見て笑った。
「ちょっとしたもんやろ? 外のゴミは盗難防止のためのカムフラージュなんや。……梨花ちゃ
ん、横になるか。今布団出してやるから」
梨花はおとなしく羽根布団にくるまれて横になった。布団から顔と手をのぞかせ、魅せられた
瞳で、飽きることなく小屋の中を見回す。
翠はカセットコンロを出し、油と調味料、冷凍食品を持って外へ出て行った。やがて、炒め物
の香ばしい匂いが小屋の中に流れ込んでくる。
「よぉ、スイやん。久しぶりやないか。相変わらずええモン持ってるな」
「ああ、ヨシさん。久しぶりです。今日、ニッポンスーパーの倒壊現場、行かれませんでした?」
「ああ。行ってる奴多かったけどな、おれは気がつくのが遅かった。酔っ払ってたしよ。ニュース
で酔いも醒めたが、もう遅かった」
「そうですか。残念でしたね。いいものがたくさんありましたよ。酒も。あとで一杯、奢ります」
「いつも、悪いな」
「いやー、お互いさまですから」
翠は出来上がった料理を持って小屋の中へ戻ってきた。
「ヌシさまはまた酔っとんか」
大雅が声をかけるのに、翠は人差し指を唇の前に立て、黙るように合図をした。大雅は慌て
て口をつぐんだ。翠は声を潜めて囁く。
「し。聞こえるで。ヨシさんがおるから、この小屋は荒らされずに済んどんや。ありがたいもん
や」
「ああ、悪かった。まったくな」
「大雅さん、紙皿と箸、取って」
「おう」
翠は六枚の大きな紙皿に、ざっと炒め物を取り分けていく。そしてその中の三枚の紙皿を盆
に載せて、再び外へ出た。
最初にヨシさんの家、そして両隣の家に差し入れをする。
翠が戻ってきたとき、梨花はぴょこんと起き上がり、正座をして紙皿を凝視していた。おあず
けを食らわされたような子犬のようなその表情を見て、翠は思わず笑った。
「何や、梨花。腹減っとんか」
「──うん。とても」
「食えよ」
「……ありがとう」
礼を言うのもそこそこに、梨花は割り箸を割り、勢い良く食べ始めた。翠と大雅は毒気を抜か
れるような心持ちにとらわれ、顔を見合わせ苦笑した。
翠は荷物をさぐり、キャビアとチーズとクラッカー、ミネラルウォーターとビールを取り出す。
「大雅さん、ビール?」
「いや、水。運転するから」
「あ、そうか。じゃ、ほら。おれはビールを貰おうっと。梨花、おまえは?」
「……」
梨花はもごもごと口いっぱいに頬張って咀嚼していた料理を飲み下し、間を置いて答えた。
「わたし、ビールが欲しい」
「不良娘」
笑いながら、翠は梨花に気前よくビールを渡した。それから、何本かのビールを持って、また
外の連中へ配りに行く。
戻ってきて、ようやく腰を据えて食べ始めた翠に、梨花がそっと話しかけた。
「──あんたの家、ここなの?」
「ん? ま、そうとも言えるしそうやないとも言えるし。普段は大雅さんの家に居候してるから…
…別荘やな」
「なんで学校の建物の中を使わないの?」
「そりゃ、分かるやろ。いつ倒壊するか分からねえからよ。築百年くらいになるし、大きなヒビが
そこら中に入っているからな。誰も入るアホはおれへん」
「そう。だから外に。すごいね……」
大雅がキャビアを載せたクラッカーを梨花に回しながら、口を挟む。
「ちょっと凄いやろ。こいつ一人で、ここまで凝ったものを作りやがった」
「すごい。これなら、気持ちよく生活できそう」
「生活といえば、梨花ちゃん、あれからどうやって生活してたの」
「……いろいろ。トモダチの家にお世話になってました」
「おまえのトモダチは、オトコばっかりやろ。それもヤク中アル中色情狂の不良ぞろい」
まぜかえした翠の言葉に、梨花は真面目な顔で頷いた。
「うん。どうして分かるの」
「おまえが殺人狂やからさ」
「……」
「なぁ。何でおまえは今日、出刃包丁を振り回してたんや。何人殺した」
「……殺した数は分からへんけど……刺した数は、たぶん、二十人くらい」
「ほとんど致命傷やったよな。すげえよなぁ」
「……練習してるねん」
「練習。何の。ああ、人殺しのか。すっげー。エグい」
「いざ、っていうときに、躊躇いたくないから」
「いざ?」
「殺したいヤツがいるねん。あの女と、あの男」
「あの女とあの男ぉ? 何やねんそれ」
「ああ」
大雅が口を挟む。
「もしかして、きみのお母さんと、きみを妊娠させた人?」
「そう。どうして分かるんですか」
「そりゃ、それくらいしか殺したいヤツっていないやろうな、って思って」
「わたしを妊娠させた奴っていうのが、母の愛人なんです。わたしはレイプされたのに、母は嫉
妬して。わたしは髪を引きずりまわされて、鼻血が出るくらいに頬を張られて、下腹を蹴りつけ
られて──その様子を見たあの変態のサディスト男は面白がって仲間を呼び込んで私を六人
がかりで輪姦させて──いつやってその調子なんです。あの女はわたしが四歳の頃からわた
しをダシに男を引っ掛けて、わたしを男にレイプさせる代わりに自分の生活費を貰ってた。そ
のくせあの女はレイプで出血しているわたしの股座に包丁の柄を突っ込んで『おまえがあたし
の男を奪った、この怪物』ってお腹や向こうずねを殴って蹴って頭を割れそうになるほど踏みに
じって──それでもわたしの顔だけは決して傷つけないんです、商売道具になるってきっちりあ
の女は計算しているんですから。サディストの男ばかりを選んでは私を虐待させて、風俗で働
かせて、わたしが泣いたり喚いたりするたびにあの女は折檻と称してはわたしの腕に降圧剤を
うって貧血を起こさせて、もうろうとしているところを柱にくくりつけてお腹を殴って、わたしが失
禁するのを罵って掃除機のコンセントの紐や柄で殴りつけて、男をたくさん呼んでわたしを輪姦
させて、お金を集めて──要は虐待を生き甲斐に生きている狂人なんです、あの女は。去年、
わたしは妊娠して出産しました──あの男の息子です。家で、お医者も助産婦もなしで。その
ときあの女がどうしたと思いますか。客を呼んで見物料を取って、陣痛で苦しむわたしを皆にい
たぶらせたんです──叫ぶわたしを鞭で打って、水をかけたり赤ん坊の頭を子宮口に押し戻し
たり、その様子をビデオに撮影して──四日間苦しんで、産まれたわたしの息子はすぐに売り
飛ばされました。今回はわたしは自分で稼いで中絶費用を何とか捻出したんです──わたし
は悔しい。力が弱いからって、どうして踏みにじられないといけないんですか。わたしは強くなっ
て母を殺さないといけないんです。そうやないとわたしはいつかあの女に手足を切られて売ら
れてしまうような気がする──毎晩のようにあの女を惨殺する夢をみてきました。あの女を、わ
たしは殺してやるんです。そしてわたしに無理に妊娠させて二度も産みの苦痛を味あわせ、不
幸な赤ん坊を作らせたあの男も」
訥々と話す梨花の頬を、大粒の涙がぽろりとひとしずく零れ落ちた。大雅も翠も息を呑んで
言葉を発しない。
大雅は思った。子供を虐待する親は多いが、そうまでわが子をいたぶる母親というのも珍し
い──殺してしまわず意図的に生かして、商売道具にしながら折檻するとは。確かにあの母親
の表情はどこか精神の異常を感じさせた。それは異常性欲の歪みだったのだろうか。
ふと大雅は心配になって翠を盗み見た。翠も幼い頃に同じような虐待を受けて育っている。
彼女の話は翠に苦い追憶を呼び戻し、心を不安定にするのではないだろうか。
翠は酒を唇に寄せて、陶然とした目で正面を見つめていた。その鳶色の瞳に、どんな虐待の
記憶が映っているのだろう。大雅には分からなかった。
「悔しくて、悔しくて、死にたかった。でも、あいつらを殺すまでは、わたしは死なへん。生き延び
て、絶対笑ってやるって決めたんです」
「──で、関係ないヤツを大勢殺して回ってる訳かよ」
早くも酔ってとろりと潤んだ目を梨花に向けて、翠は嘲るように言い放つ。
梨花は唇を噛む。その梨花の顔を数秒間凝視し、翠はにんまりと口許をほころばせた。
「ええやないか。おれ、そういうヤツ、好き。おれ梨花チャンに賛成」
「おい、翠」
「ホンマやもん。おれもな、おまえみたいな幼児体験をしとんやで。おれはいつでも思ってる─
─絶対殺されてやれへん。殺してやるって。同じようなことを考えてた。おれとおまえは気が合
うようや。なぁ。こんな世の中や、生き延びるためにはそれぐらいの心構えでないとあかんよ
な。人間の百人や二百人殺せないでどうする。でもなぁ梨花チャン。問題は、おれたちも、そう
いう世界で生きているってこった。分かるか」
「……?」
梨花は目を丸くして、暫く考え、首を振った。頬が酒で桜色に染まっていた。
「鈍いなあ。つまりやなぁ、利害関係が反するってこと。おれは加害者になるのは好きやけど被
害者には絶対になりたくねえ。相手がおまえでも、同じことや。金を踏み倒されたら落とし前は
つけてもらわにゃ困るってことよ」
「あ……」
「まぁ殺すとは言わねえよ。そこまでの恨みはないからな。そやけど、返してもらおうか。ざっと
二十万」
「おい、翠。その話はもうええって言っとるやないか」
「……ごめんなさい。お金は今はないんです。でも、母を殺せば、実家にお金はあります。必ず
お返しします」
「甘いな。借金したら、利息がつくねんで」
「四十万でも、五十万でも、返します」
「信用出来へんな。一度逃げくさってからに」
「じゃあ。とりあえずこれを」
梨花は今にも泣きそうな表情を浮かべながら、ネックレスを外し、翠に渡す。
「十八金です。五万くらいしました。とりあえず、これを」
「ふーん」
翠はランプの光を映して煌くネックレスを、掌でちゃらちゃらと馬鹿にしたように弄び、梨花に
返した。
「いらねえよ。こんなもん。質に入れても数千円や。それよりなぁ。梨花ちゃん。おまえはもっと
ええお宝を持っとるやないか」
「え」
「カ・ラ・ダ。身体で払ってもらおうか」
言ってから、翠は自分の言葉にひとりで笑い転げた。
「ごっつ陳腐なセリフ。一度言ってみたかったで。あはははははー」
「……」
「おれはな、梨花、今日は欲情しとんや。ヤラせろ」
「おい、翠。見たやろ。彼女は出血してるんや。よせ」
「あー。せやったな。でもセックスは他の部分使っても出来るやろ? なあ梨花チャンよ。口で
も、何でも使ってや。脱げよ」
梨花は頬を緋色に高潮させ、目を潤ませて翠の顔を凝視していた。
「あのなぁ。どうせ、おまえの膣はたーっぷり見たんやでおれたち。三日間も。今更恥ずかしが
ることでもないやろ。脱げったら」
翠が梨花のセーターに手をかけた。梨花は素早い動作で翠の腕を振り払った。翠は転がっ
た。泥酔しているのだ。
「あー。逃げやがったなァ。このヤロ」
「脱ぐわよ。自分で脱ぐから、触らないで。触られたら、殺したくなる」
「へー、こえぇ」
「梨花ちゃん、コイツは酔っ払ってるんや。真面目に相手することはない」
「いいんです。確かに翠さんの言ってることは正しいことですから。大雅さんも、どうぞ。わたし
なんかでいいなら。今、痛くないですから。お薬のおかげで」
梨花は掠れた声で呟き、立ち上がり、服をさっさと脱ぎ捨て、素裸になった。
ランプの下、小さな裸身が露になる。
十六歳であることは初診のとき健康保険証でも確かめたのだが、乳房は小学生のように小
さい。
身長は百五十センチメートルそこそこに見える。体重は四十キロぐらいだろう。脚の内側に、
血がこびりついていた。あばら骨が浮いている。
こんなに未発達な身体しか持たない幼い小娘がどうやってあんな出産に耐えたのだろう。大
雅は一瞬、胸が潰れるような苦しい感慨を抱いた。
「おー、胸ぺちゃ」
「……脱げって言ったのは、あなたでしょう」
「怒るな怒るな。おれの方が、胸ぺちゃだから」
「え」
翠はよろよろと起き上がり、シャツとタンクトップ、ジーンズ、トランクス、靴下、と威勢良く脱ぎ
捨てていった。
「……」
「ほーら。よーっく、見ろよ。見たこと、あっか」
梨花の両肩に手をかけて、座らせ、翠はその目の前で足を開き、羞恥心の欠片もない様子
で、自分の股間を見せつけた。梨花は息を呑んだ。
「──おとこ女……!」
「失礼なやっちゃなぁ。あのなぁ、ここでそーゆー差別用語使うと、みんなが黙っとらんで。ここ
の連中は、みんな障害をネタにして身体売って生活しとんや。いろんなフェチが来る。両性具
有フェチ、手無しフェチ、足無しフェチ、三つ目フェチ、双頭フェチ。ここはなぁ、おまえら健常者
さまから見るとなぁ、要するに化け物屋敷の売春宿や」
翠は笑いこけ、梨花に抱きつき、押し倒した。微かなシトラス系のコロンの香りが意外な爽や
かさで梨花の鼻腔をくすぐった。
「おれはな、完璧なんやで。ちゃーんと、役に立つんやで。男にも、女にも、どーっちも。ええや
ろ。人生二倍楽しいで。真性半陰陽、知ってるか」
「聞いたことはある……」
「仮性やないで。真性。卵巣も精巣も持ってるんや。性器も、ほら、ちゃんとふたーつ。完璧や。
そやからなァ、大雅とも梨花とも寝ることが出来る」
「ん……胸、すこし、あるんやね……あ、痛い」
「痛いか」
「痛い」
「オイルを使おうぜ、オイル。大雅さん、あんたも脱げや」
「この、けだもの。さかりやがって」
「気取るなよぉー。あんたやって、けだものやないか」
「男はみんなけだものや。でもなぁ、おれは乱交は好かん」
「さよかぁ。好きにしたらええやん」
翠はよろよろと立ち上がり、オリーブオイルの二リットル瓶を三つずつ両方の手にぶらさげ
て、裸のまま外へまろび出た。
そしてすぐにもう一度戻ってきて、ウォッカの瓶をかき集め、全ての瓶の中身を大鍋にひっく
り返し、その中に得体の知れない薬物を溶かし込んでにやにやとほくそえんだ。
「ごっつええ気分になるでぇ」
大鍋と、御玉杓子、紙コップを持って再び外へ出る。
「おーい! 梨花ぁー。はよ来いやー。テントの中は暑苦しい。外はええで」
「行かんでええ、梨花ちゃん」
苦虫を噛み潰すような顔で大雅が梨花に囁く。梨花はにっこり笑った。
「行きます。大雅さんも、行きませんか。確かに、外は気持ち良さそう」
梨花が立ち上がり、悠然とした足取りで外へ出て行く姿を大雅は凝視した。
彼女の薄い尻の下、太腿からすねにかけて、止まらない血が痛々しくこびりついている。
大雅はため息をついて畳んだ羽根布団にもたれ、新しい缶ビールのプルトップを開けた。
翠は躁鬱病の気がある、と大雅は内心診断している。鬱の翠は聡明で冷静で冷酷だ。取り
つくしまもない、と思わされることもしばしばあるが、それでも、鬱の翠の方が余程あつかいや
すい。
翠が躁になると、大雅の命令を聞かなくなる。引っ叩いても殴っても何をしても駄目だ。そして
躁になった翠は暴力的になり、露出狂になり、色情狂になり、どこまでも身勝手になる。
やはり、スーパーの略奪を許したのはまずかった。あの狂騒が、翠の躁状態への引き金を
ひき、欲情させたのだ。
無理にでも止めるべきだった……大雅はやるせないため息をつく。そして次の缶ビールのプ
ルトップを開ける。ほろ苦く喉をさす金褐色の炭酸を一気に飲み干す。
正気と狂気の狭間を綱渡りのように刹那的なバランスを取りながら彷徨い続ける翠。おれは
とんでもない爆発物を飼っている。けれど、あの狂気がなければ、おそらくおれはあいつを拾っ
てはいなかっただろう。
おれもフェティッシュなのだ。狂人フェチ。ホモセクシャルの気もあるのかもしれない。立派な
変態だ。はは。さらに缶ビールのプルトップを開ける。飲み干したビールの缶が、大雅の周りに
散乱していく。
外では、翠が陽気に大声を張りあげていた。
「おーいい! おーらぁーっっ! みんなぁー。今日は土産があるでぇー。 ウォッカとラヴ・オイ
ルの大盤振る舞いや! 早いモン勝ちやでー!」
「おお、翠、元気そうやね。何、すっかり出来上がってるやん。どうしたの」
「翠。よぉ。元気にしてたか」
「ラヴ・オイル! ローションじゃなくてオイルかい。ええかもしれへんな。ちょっと貰うで」
「ウォッカもあるで。紙コップもあるけど、コップのあるヤツはコップを持ってきてくれ」
翠の馬鹿でかい大声に、次々とそれぞれの小屋の中から手を取り合ったカップルが出てく
る。
梨花がよく目を凝らして見ると、翠の言ったとおり、カップルの一方には何らかの顕著な身体
的特徴があった。
そして彼らは皆、揃って若々しい顔をしていた。おそらく十代の若者がほとんどだろう。
対する客の方は、もっと年齢層が幅広く、老人の域に達しているように見える客もいた。
「おい、翠。何や、めっちゃ可愛い子連れやがって」
「ホンマや。何やこの子、小学生ちゃうんか。あら。生理中なの?」
足が三十センチほどしかない、眼の飛び出た太った娘に触られそうになって、梨花は思わず
悲鳴をあげた。
「何。失礼な子やね」
「ちょっと待ってや、ミサキ姉さん。この子はおれの客なんや」
「あ、そうなの。それはあたしが悪かった。こんな幼いお客さんがいるとは思わへんやんか。で
もごめん。お嬢さん、すいませんね、失礼しちゃって。ついお酒が入ると」
「い、いえいえ、こ、こちらこそ……」
目を白黒させて謝る梨花を見て、翠は豪快に笑い、オリーブオイルを梨花の首筋から注い
だ。
「ひゃぁ。ぬるぬるする」
「ぬるぬるすんのが気持ちええんや。な。行こう、梨花、行こう」
「ど、どこへ」
「原っぱ。草の中」
梨花の手を取って翠は校門を出て、鉄条網の壊れて歪んだところをまたぎ、隣の雑草だらけ
の空き地へ転がり込んだ。
梨花は、素足に食い込む砂や小石が微かに痛いと感じたが、酔った頭には、その感覚もほ
とんど苦痛ではなかった。
翠は梨花を抱きしめて、草の中を転げまわった。草の匂いと土の匂いが、心地よく二人の鼻
腔を刺激した。オイルを塗った互いの若い身体の感触が、すべすべと気持ちよかった。
じじじじじ、りりりりり、と高い音色で鳴く秋虫の輪唱が、耳に快い。
陶然と眼を閉じていた梨花は、はっと眼を開いた。
「ちょっと、やだ、虫がいるん?」
「虫やって生きる権利はあるんや」
「ええーっっっ。やだ、こわい」
「おまえはこわいものが多いな。悲鳴ばっかあげるしよ。こわがりのくせに、出刃包丁を振り回
しやがって」
「強くなりたいのよ」
「お母んを殺すために?」
「うん。殺すために」
「強くなれよ。虫なんかこわがってたら、強くなれへんで」
「それとこれとは別の話……あ、うぅ。いい」
「いいか?」
「ん……いい」
翠の手が、驚くほど繊細に優しく、梨花の胸を愛撫する。
梨花は翠の胸に手を伸ばしてみた。左胸に大きく走る手術痕が痛々しい。その痕をなぞり、
乳房に手を触れてみる。
ほんの微かな膨らみは温かく、妙に物悲しく、愛しかった。
(第3話に続きます。)
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