小説(長編2) [ 冬の陽炎、哄笑響く 第3話 ]
[ 第3話 (全5話) ]
「ねえ……」
「ん」
「入れなくてもいいん? こんなに固くなってるのに」
「ええねん。おまえ出血してるやん。お互いが気持ちようないと、セックスじゃあらへん」
「くわえてほしい?」
「くわえていらん」
「何で」
「シャワー浴びたときやったら、喜んでお願いするんやけどな」
「ぷっ。意外と、上品なんだ」
「意外って。失敬やな。おまえも、意外と、気ィ遣いィやな」
「うん。意外と」
くっくっと笑って、梨花は翠の顔を覗き込み、鳶色の短くウェーブした柔らかな髪を撫でた。
「今まで気がつかなかったけど、あんたって、とっても綺麗な顔をしてるね。睫毛が長くて、彫り
が深い……だから、あんな素敵な大雅さんに愛されるんだ」
「大雅さんに愛されてもなぁ。何か別の意味やと思う。男女の愛やなくて、親子の愛っていうか。
兄弟愛というか、飼い主とペットというか、何かそんな感じ」
「でもセックスしてるんでしょう」
「してるけど。たまーにな。大雅さんの気が向いて、おれの気が向いて、そんなとき。ごっつ稀」
「まれなの?」
「大雅さん年やもん。なーんか、そういう対象やないわ。やっぱ、父親みたいな感じ。大雅さんと
セックスしてると、親父とセックスしているみたいな気分になって、自分が倒錯的な変態になっ
たような気持ちになって、……何か、厭やねん。厭やと言えば語弊があるけど」
「変態じゃないんだ。翠は」
「うーん。おれ、おまえは好きかもしれない」
「ええっ」
翠は梨花の頬に口づけた。身体の上に乗りかかった梨花を抱きこみ、ぐるりと反転させ、自
分が梨花の上に乗って覗き込む。
小さな小さな顔だった。翠の大きな片手できゅっと掴めてしまいそうな、赤ん坊のようなミルク
色の顔。無言の二人の息遣いが、虫の音に混ざりながら高まっていく。抱かないと言ったそば
から身体が昂ぶっていく。翠は堪えた。
切れ長の瞳は黒い部分が大きく潤んで輝き、ほっそりと優美な線を描く卵形の輪郭、小さくて
低めの鼻、両端が微笑むように少しだけ上にしゃくれた小さな唇。小さな桜色の胸、手足、身
体、細く長い黒髪。そして、童話に出てくる妖精のような先のとがった耳。何もかもが華奢で小
さくて頼りなくて、それでも絶妙にバランスが取れた、なめらかで健康的な薔薇色に染まった梨
花の身体だった。
「──というか、もしかすると好きになるかもしれない」
「……」
梨花は黙ったまま、静かに、まっすぐに翠の瞳を見つめ返す。小さな胸が上下していた。
翠は不意に訳も分からず泣きそうな気分になり、そっぽを向いて梨花の身体の上から降りた。
「おまえ、まだ人を殺す練習をする気はあるか」
「え。……警戒してるの? わたしを」
「そうやない。いや、警戒するべきなんかな」
「しなくていいよ。って、わたしが言っても仕方ないけど。翠と大雅さんを殺したりは、せえへん
よ。恩があるもの」
「ふうん。恩かぁ……。恩、なぁ。うーん。……あのさ。それなりに恩があるとも言えなくはない人
間を殺したいと思うって、おかしいことやろか」
「え。翠にも殺したい人がいるの。誰を殺したいの」
「あいつら」──翠は小学校の校庭の方角へ向けて首をしゃくった──「全員。大雅さんを除い
て」
「なんで? 友達じゃないの?」
「かつての、仕事仲間。化け物小屋の売春仲間」
「そんな風に考えるのは、おかしいよ」
「おかしくないよ。実際、自分の化け物ぶりを売り物にしてたんやもん」
「化け物じゃないよ。何言ってるの」
「そやけど! あいつらがいる限り、おれは昔を思い出す。あいつらだけがおれの幼馴染み
で、友達で、それがおれにはたまらなくおぞましい。なのに、どうしても戻ってきてしまう、ここに
おれは。何だか自分の本当の家がここにあるような錯覚が起きるんや。そして、戻ってきては
背中に怖気が走る」
「翠……そんなこと」
「健常者のおまえには分からへん。──なぁ。で、聞いてるんや。おれと取引をする気はない
か」
「取引?」
「おれはおまえの母親と母親の愛人を殺すのを手伝う。おまえはおれのクソ仲間を殺すのを手
伝う」
「取引じゃなくても、いいんよ。翠。わたしに何かして欲しいんでしょう。何をして欲しいん」
「燐寸棒一本投げるだけのことや。よっしゃ決めた。おれは今夜こそやる。今まで何度手をつ
けようとして失敗したことか。連中の身体に油を塗らせて、酒に眠り薬をもって、何度も何度も
──でも今までどうしても踏ん切りがつかなかった。決めた。今夜はやる。おまえはどうする。
逃げるなら逃げろ」
「……」
梨花は不安気に表情を曇らせて聞いていたが、しばらく考えて首を振った。
「逃げない。ついて行く」
「じゃあ来い」
二人とも酔いは既に醒めていた。しかし、何か別のものが二人を酔わせていた。それは虫の
りりりりと鳴く涼しげな声だったかもしれないし、むせかえるような草いきれの清々しい匂いだっ
たのかもしれないし、炯炯と輝く月と星々の白い光だったのかもしれないし、互いの柔らかな肌
の甘い感触だったのかもしれないし、素裸で地べたに横たわる開放感だったのかもしれない
し、昼間の略奪の余韻だったのかもしれないし、新たな殺戮の予感だったのかもしれないし、
そのすべてだったのかもしれない。
翠は梨花の手をひいて冷たいアスファルトの上を小走りに歩き、校庭に戻った。
校庭に入った途端、アルコールの饐えた臭いが鼻をついた。皆、だらしなく半裸や全裸で小屋
を飛び出し、あちこちに眠り呆けていた。隣の原っぱでは虫の音色の合唱だったが、こちらの
廃校では人間の鼾の大合唱だった。
翠は慎重な足取りでそろそろと校庭の隅の自分の小屋まで歩き、中に入った。大雅が羽根
布団に埋もれて、眠りこけていた。空になった缶ビールが七本、大雅の周りに散乱していた。
「おっさん、呑みすぎやで、ホンマにもう。おい、梨花、服を着ろ」
「うん。大雅さんを起こさないの」
「まだ、あかん。起こしたら絶対止められるし。ギリギリまで寝かせとく」
翠は素早く服を着た。スニーカーの紐をきゅっと締める。ジャンパーのポケットに手を入れ
て、ブローニングをぐっと握る。ブローニングの小さな銃身の、重く確かな鉄の感触を味わう。
鈍く光る鉄の肌の頼もしさを思い浮かべる。これさえあればおれは何でも出来る。こいつがお
れに勇気をくれる。
小さな食器棚の中から燐寸箱を取り出す。それから、小屋の隅に置いてあった灯油のケース
を二つ、運び出す。
「灯油! 本当に、準備してたんやねぇ。ね、重い? わたし、持つの、手伝うよ」
「じゃ、こっちが軽いから、頼む」
翠と梨花は足音を忍ばせて外へ出た。鼾は大きく響き渡っているのに、おのれの荒々しい息
遣いのほうが遥かに耳に大きく響く。その音は二人の胸をさらに轟かせる。
「──人間の身体にかけるなよ。目を覚まされると全部おじゃんだ」
二人は慎重に、灯油を掌にすくい、ほとんど音を立てずに油を各小屋にじっくりと入念にかけ
ていった。灯油独特の危険な匂いがたちのぼり、鼻をつく。やがて翠と梨花の手と腕に灯油の
匂いは染みついてゆき、二人の身体からも身動きするたびに灯油の匂いが揺らめきのぼる。
アルコール臭、嘔吐物の饐えた臭いに灯油の匂いが混ざり、悪臭はみるみるうちに強くなっ
て、二人の気持ちをともすれば萎えさせる。
惧れとの地道な戦いは続き、作業は数十分におよんだ。誰かが寝返りをうつ度に、二人の心
臓は破裂しそうになるが、それでも深呼吸を繰り返し、目と目で励ましあい、地道な作業を続け
ていく。
永遠にも続くかと思われた時間ののち、二人は校庭を一周して翠の小屋に帰ってきた。灯油
のケースはほとんど空になっていた。翠は梨花に囁いた。
「よっしゃ。ほんなら、いちばん反対側の小屋に火をかける。灯油のケースも、燃やすんや。行
くで」
「うん」
二人は駆け出したくなる欲望を抑えながら、そろそろと人々の間を歩いて行った。
いきなり人の腕が、がんと翠の足に当たった。
「……!」
翠はほとんど飛び上がりそうになったが、見れば相手は寝返りをうっただけで昏々と眠り続
けている。ヌシのヨシさんだった。
──世話になったな。あばよ。
翠は清閑とした心境でそう思う。そして、迷うことのない足取りで、ひっそりと歩み続ける。
目指した位置にたどりつき、灯油ケースをその傍にふたつ並べた。
燐寸の箱を取り出す。そのとき、梨花が言った。
「わたしにも、一本頂戴」
「え」
「燐寸を一本。一緒に投げるわ」
「……ああ。それなら、よく手を拭え。油がついているから、燃え移るといけない」
「うん」
翠は自分も右手を服になすりつけて拭い、燐寸の軸木の頭薬を箱の側薬にこすりつけた。
ぽっと火が灯る。火に近い方の軸を持ち、梨花に渡す。そして、自分も燐寸の火を点けた。
「投げたら、思い切り小屋までダッシュや。おれのあとを着いて来い」
「うん!」
二人は、同時に燐寸棒を投げた。
驚くほどの大きな炎が、爆発するように音をたててぼおっと燃え上がった。瞬く間に炎は小屋
を次々とその口の中に呑みこんでいく。
翠と梨花は飛びのき、後ずさりして、その光景を魅せられたように眺める。二人のあどけない
白い顔は炎の橙に燦爛と輝き、赤鬼のように闇の中に浮かび上がる。炎の光の届かない部分
は東雲色から臙脂色、臙脂の中の藍の色は次第に強まり、やがて深い墨の闇へと鎔けてい
く。闇は凛冽と広がり二人の背中にひやりとした腕を差し伸べ二人の背中に震えを走らせる。
その間にも熱い炎は疾風迅雷の勢いで小屋から小屋へと燃え移り、ナイロンが焦げる独特の
刺激臭をたちのぼらながら、闇の冷気に攻めこんでいく。
翠は身震いし、首を振った。
「行くで!」
翠は、梨花の手を引いて、校庭の最端の、人のいないところを全速力で走った。
途中で振り向いて、火の回りが追いついて来ないことを確かめて、もう一度燐寸を投げ入れ
る。ぼっと炎がたちのぼる。ぐるり校庭を半周しながら、翠が追加した燐寸棒は、合計八本だ
った。
二人は翠の小屋に走りこんだ。
翠が大雅を叩き起こす。
「起きろ! 早く! 死ぬで!」
「う、うーん。何や、もう朝か。ううっ」
翠は焦って、大雅の頭をスニーカーで蹴りつけた。
「起きろ! ぼけ!」
「……ってえ……このガキ、何すんねん。痛いやろ」
「このまま寝てたらもっと痛い目にあうで。大雅さん、起きろ。走るで」
梨花も叫んで大雅を揺さぶる。
「大雅さん! 起きて、お願い、起きて!」
「な、何や」
大雅はようやく目を覚まし、頭を振った。翠は大きく小屋の扉を開き、外の炎を大雅に見せ
た。
大雅は驚倒し、叫んだ。
「うわあああ! 燃えとる! 火事か!」
「そやから、火事やって言ってるやんけ。行くで」
大雅は慌てて靴を履き、外へ飛び出て、傍に寝ている連中を揺り起こそうとした。
「おい! 起きろ! 火事や!」
「大雅さん、早く」
「大雅さん」
その大雅の腕を、翠と梨花は両側から掴み、中庭へひきずっていく。
「おい、あの人ら、起こさんと、みんな死んでまうで! 自分らだけ逃げるんか! こら、翠!」
「そうや。おれらだけ逃げる。そのつもりや」
翠は小気味良さそうに、嘲るような微笑を大雅に向けた。大雅が足を止めた。
「まさか、──おまえ」
「きゃあああ!」
梨花が振り向いて悲鳴をあげた。
炎に包まれて、黒く焦がれ、無言で踊り狂い、もがき苦しむ人々が数人、校庭から中庭に飛
び出してきていた。
中に一人、無傷で泡を食って飛び出してきた小さな人影がいる。
翠はブローニングを取り出した。射撃の練習は、夜中にこっそりとひとけのない河原などで何
十回か繰り返していたが、引き金を引く時は神に祈る気持ちだった。
──頼む! 当たってくれ!
銃声とともに、人影は数歩歩いて、よろめき、倒れた。
「あああああー! いたい、いたい、いたいー! たすけて、やめて、やめてえっっー! だれ
かぁ、たすけて、ああああああ! ころされる!」
叫び声は、まだ若い娘のものだった。翠はためらわず泣き叫ぶ娘の傍に駆け寄り、容赦なく
頭部にもう一発銃弾を打ち込んだ。
血と脳漿が飛び散り、翠の頬を汚す。娘の身体はびくりと高く跳ね反り返り、それでも暫くも
がいていたが、やがて力を失っていき、宙を掴もうとした腕はゆっくりとアスファルトの上に落ち
て軽く跳ね返った。
「翠! この、馬鹿野郎!」
いきなり拳で背後から大雅が翠の頭を力いっぱい殴りつけた。翠はよろめき、血塗れになっ
た死体の上に崩れ落ちそうになるのをなんとか堪えた。
その襟首を大雅は引き戻し、さらに頬を張る。
「何てことをしたんや! この気違い! 大馬鹿野郎!」
「大雅さん、やめて、そんなことをしてる場合じゃないわ! 人が来るよ! 逃げなきゃ!」
梨花が大雅の首にぶらさがって止めた。大雅は舌打ちし、車へ翠を引きずって走った。大雅
が車のキーを開けた途端、翠が運転席へ滑り込んだ。
「飲酒運転やで大雅さん。おれが運転する」
「……」
言い争っている場合ではなかった。銃声を聞いた近所の住民に目撃されるかもしれない。
大雅は梨花を膝の上に抱いて、助手席に乗り込んだ。
翠がアクセルを乱暴に踏み込み、車を発進させた。ハンドルを大きく切って九十度回り、校
門の外へ出て、さらにアクセルを踏み続け加速させる。
線香花火からほとばしる火花の光のような軌跡を残し、爽快なスピードで街灯が車窓を流れ
ていく。メーターは時速百九十キロを越えた。
死んでもいい。最高だ。最高。
翠は笑う。腹の底から哄笑が湧きあがり、異様に昂ぶる猛烈な性感に身をゆだね。
大雅の、梨花を抱きしめる腕がぶるぶると震える。
梨花は慰めるように、そっと大雅の腕に小さな掌を重ねた。
酩酊の饗宴は過ぎて、不思議に静かな十二月が秋の季節の中、終わろうとしていた。
やって来る新年を祝福するように、樹々は黄色から橙色に彩られ、ぬるい寒気の中で、次第
に紅葉が本番を迎えようとしている。
小学校の大火事は、焦げて炭化した死体があまりにも多かったため死者の数は正確には分
からないが、推定死亡者数約百四十名という報道だった。
翠は丹念にモニタのNHK放送や、紙管口から流れ落ちてくる新聞、ネット情報に目を通し、
関連の報道をチェックしていた。
不審火であり、また銃弾で撃ちぬかれた変死体もあったということで、それなりに大きなニュ
ースにはなったが、もともと不法侵入者たちが売春という不法行為をしていたアウトローな集団
だ。警察は捜査を進める気もないようだった。戦後の不景気により、治安が極端に悪化してい
るので、凶悪犯罪は毎日のように日本全国で立て続けに起こるのだ。
少なくとも、この半月で翠を訪ねて来る者はいなかった。大雅の家から小学校は、電車なら
ば八駅も離れていたし、翠は連中に常に殺意を抱きながら接していたので、誰にも自分の居
場所を伝えてはいなかった。
生存者がいたかどうかは分からないが、小屋は六十五個ほどだったから、ほぼ全員死んだ
のだろう、と翠は思い、安堵した。生存者がいたとすれば、あの日翠がオイルと酒を配ったこと
は覚えているだろうが、翠の生死はおそらくは誰にも分からないことだったし、翠の居場所を知
っている人間はいない。そして翠の知る限り、撃ち殺した女以外の目撃者はいない。心配は、
大雅の車のナンバープレートを目撃した住人がいなかったかどうかだったが、人々が寝静まっ
た夜中の四時頃の出来事でもあり、警察の照会も未だに来ないことを見ると、ないと見てよい
ようだった。廃校に住み着いていた連中には、真相究明を嘆願する家族もいないだろう。客の
家族の中にはいるかもしれないが。
翠の放火の翌日、ひと晩寝て起きた大雅は、再び翠を責めることはなく、黙々と仕事に戻っ
た。
翠も、何事もなかったかのように静かに大雅の助手を勤めた。
ただ、大雅が翠に服用させる薬の種類がその日から増えた。
翠は薬の種類を薬物辞典で検索し、追加された薬が強い精神安定剤であることを知り、苦
笑した。それでもおとなしくそれを服用した。その薬のためか、それともかねてから思いつめて
いた殺戮を遂行した満足感によるものか、以前のように内臓を口から吐き出す奇怪な夢を見
ることもなくなり、翠は深い眠りに恵まれるようになった。
そして、二人の生活の中でもっとも変化したことは、家に帰ると明かりがともり、綺麗に片付
いた部屋の中、暖かな夕食が用意されているということだった。
大雅は梨花の同居を許した。男友達から借りただぶだぶのトレーナーと裾を深く折り込んだ
穴の開いたジーンズを履いている梨花に、翠はトップスは自分の服を自由に使って構わない、
と気前よく申し出、さらに二万円を当面の衣料品を買う小遣いとして渡した。梨花は近所のユ
ニクロへ行き、安いシンプルなボトムスとインナー、そしてコートを上手に買い揃えてきた。
梨花は穏やかに家事をこなす。酷薄な虐待を繰り返す母親から逃げ回り、男の家を転々とし
た暮らしが、彼女に家事能力を習得させていた。
金を使いすぎることもなく、プライバシーに立ち入りすぎることもなく、手馴れた様子でまめま
めしく掃除、洗濯、炊事を片付ける姿は、大雅に死んだ母の姿を思い起こさせる。それはま
た、翠にとって、初めて経験するまともな女のいる生活だった。大雅と翠はすぐに梨花のいる
生活に馴染んでいった。
時折、図書館で借りてきた料理の本がリビングのテーブルの上に広げてある。懸命に努力し
ている様子が、いじらしく、可愛かった。
大雅は翠に、ときおり病院を休むように命じるようになった。
「何で? おれ、さぼってええん」
「梨花ちゃんと居たいんやろ。それにな、おれちょっと考えてんけど、おまえには休息が他人よ
りもたくさん必要や」
「おれはキチガイやないで」
「そんなつもりで言ってるんやない。まあ大人の言うことを聞いとけ」
大雅は翠の髪を優しく撫でる。翠は怪訝な顔で大雅の横顔を盗み見る。
寂しげな微笑が、翠に何故とは分からぬ微かな罪悪感を覚えさせたが、じきに忘れ、翠は梨
花と戯れはじめる。
十二月三十日、梨花はキッチンで焚き物を始めた。
「何作っとん?」
「おせち」
「おせち? おせちって何」
「翠、おせち料理知らへんの? 嘘」
「いや、何か聞いたことはあるような気がするけど、よう知らんなぁ。大雅さん、知っとるか」
「あー。おせちか。婆ちゃんが生きてた頃は、田舎で食わせてもろた」
「あんたの田舎ってどこ」
「舞鶴。っておれの田舎やなくて、お父んの田舎やけど。もうみんな病気と戦争で死んでしもた
わ」
「へえ。で、おせち料理って、美味いんか」
「いやぁー。どうやろう。地味な味やったなぁ」
「美味しく作るわよ。ばっちり。期待して」
「お。言うたな。期待すんで」
笑いながら、梨花は忙しく小芋の皮を剥き、海老の殻を取り、ぜんまいや干し筍を水で戻し、
鍋の味を見、甲斐甲斐しく働く。
唾の出るような出汁の香りが、家中を包む。
翠と梨花の若く弾む声が、キッチンからリビングへ響き渡る。
大雅は新聞を広げ、ソファにもたれていたが、他愛もない記事に向けて幾度も目が泳がせる
自分に気づき、表情を曇らせる。
壁のモニタでは、年末特番の歌番組が賑やかに流れていた。大雅は喧しい芸能人のトーク
に苛立ち、リモコンのスイッチを押し、番組を切り替える。そして世界の雪山をクラシックととも
に二十四時間流し続ける、リラクゼーション系の番組にチャンネルを合わせた。大雅は雪の山
が好きだった。学生時代は戦争の合間に登山を楽しんだこともあった。今は仕事でなかなか
時間が取れないが。
──今のおれが見る山といえば、山の形に盛り上がった白い女の股だ。
大雅は苦く微笑する。そういえば、翠の腿がかたちづくる山は、雪山のようにどこまでも凛と
厳しく、しっとりと冷涼に、絶妙に精巧な流線を描くのだ。大雅の脊髄を官能が熱く走る。
──もう何日、いや何十日、おれは翠を抱いていないのだろう……。
百四十人の人間を瞬く間に焼き殺した無責任な冷酷、それを韜晦する優美な妖精の身体。
今の大雅には、翠は果てしなく遠い憧憬にも似て、その憧憬は大雅の胸に蒼茫とした雲海をじ
わりと広げていくのだった。雲の海はもがけばもがくほど大雅の足を取り、峻烈な霞に大雅は
戦慄し、喉を詰まらせ、あてどもなく彷徨いつづける。
大雅はぶるっと身を震わせて、嘆息した。新聞をめくり、新薬開発の記事に目を通そうとす
る。文字は虚しく大雅の網膜に映るのだが、翠と梨花の歓声が聞こえてくる度に、脳は大雅の
意志に反して聴覚に集中し、視覚から入ってくる文字の羅列を意味のある情報に変換する作
業を放棄する。彼はついに舌打ちして新聞を投げ出し、自分の書斎に逃げ込んだ。
翌十二月三十一日、大雅は所属する医師会の緊急救急指定医の当番に当たり、国見クリニ
ックに出勤した。
基本は休業日なので、たいして人も来ないだろうということで、大雅は翠の手伝いを免除し
た。
翠の胸は甘い鼓動に弾んだ。年越しを、梨花と二人で迎えることが出来るのだ。
「翠。この家って、重箱……ないよね?」
「重箱って何や? 弁当箱ならあるけど」
「いいの。訊いたわたしが馬鹿やった」
「なんやねん」
翠はつまみ食いを繰り返し、美味いのまずいの食ったことがないのとやいやい言い言い、大
皿に美しくおせち料理を並べる作業を手伝う。
まるで新婚夫婦だ、と梨花は思い、一人で赤くなった。
夜になって、梨花が言い出した。
「ね、国見クリニックってここから歩いてどれくらい?」
車は大雅が乗って行ってしまっているので、今、家にはなかった。
「歩いて? ……近いで。二十分くらい」
「大雅さんに、年越し蕎麦を配達しない?」
「年越し蕎麦?」
「え。まさか年越し蕎麦も知らないの」
「馬鹿にすんな。知っとるわ。いや、ええアイディアやと思ってさ。思いつきもせんかった、おれ。
よっしゃ、持っていこう。大雅さん、喜ぶやろ。そーゆー家庭的なもんに弱いんや、あのヒトは。
年やから。ただ、患者が来てないことを確認してから行かんとあかんけど」
「じゃあ、三人分、作るね。おそばが配達できるような入れ物、あるかな」
「え。えーっと、ああ、あるある。クーラーボックスに入れて持っていったらええわ」
梨花はいそいそと、大きな海老に溶き卵と衣をつけて、天麩羅を揚げる。くつくつと鳥と葱の
においを漂わせて、蕎麦のかけ汁が煮えていた。
翠はモニタの前に立ち、国見クリニックの電話番号を入力した。画面に『現在通話中です。お
それいりますがのちほどおかけ直しください』との文字が表示され、同じメッセージが音声でも
流れる。十分ほど待ち、もういちど入力すると、大雅の姿がモニタに映った。
「忙しいん? 大雅さん。電話かかってたやん」
「いや。ヤボ用。どうした」
「あのな。あとでそっちに、年越し蕎麦を持って行っても構わへんかな? 梨花が持って行きた
いって言い出してさ。ええと、十時ごろ」
「──ああ」
大雅は一瞬、顔を無表情に強張らせて、すぐににっこりと顔を綻ばせた。
「サンキュ。気がきくなぁ。年越し蕎麦、食いてえよ。患者さんが来てたら、流しに置いとってく
れ。まあ多分、来ないと思うけど」
「了解。じゃ、またあとで」
翠はモニタをTVに切り替えて、少しの間その場に立ったまま、大雅の頬をよぎった無表情の
意味を考える。
──おれが思っているよりも、もしかして大雅さんは嫉妬しているんだろうか。おれと梨花の仲
のよさに。そんなことって、あるんだろうか。
あるのかもしれない、と翠は思った。絞り出すように吐息をつく。大雅さんの愛情は、何だか、
おれには重すぎる。もちろんおれも、大雅さんを愛してはいるのだけれど。でも、梨花と大雅さ
んは違う。違う。
梨花の愛情は、羽のようにふうわりと甘く肌を掠めては離れ、離れてはまた戻り、優しく翠をく
すぐり撫でるものだった。
「翠? お蕎麦できたよぉー。食べよう」
「あ、おう」
梨花の声を聞いた途端に、現金なもので、嘘のように気持ちがすうっと軽くなる。二人はリビ
ングに蕎麦を運び、モニタのバラエティに笑いながら蕎麦をすすった。揚げたての海老天が、
何ともいえず旨かった。
大雅はモニタの前で頬杖をつき、ペンでコツ、コツ、コツとメトロノームのように机を無意識の
うちに叩く。その音が、さらに大雅の神経を攪乱させる。
彼は逡巡していた。
数分、机を叩き続けたあと、踏ん切りがついた。気が変わらないうちに行動するしかないと思
った。
彼は手を止め、ペンを離し、モニタに数字を打ち込み始める。
吐く息が夜闇の中に白い。
大晦日になって、突如寒気が押し寄せてきたようだ。紅葉も、じきに見ごろになるだろう。
九時半、翠と梨花はラップでくるんだゆで蕎麦の上に海老天を載せた椀と、かけ汁を入れて
しっかりとガムテープを貼った鍋をクーラーボックスの中に入れて、外へ出た。クーラーボック
スは翠が右腕に用心深く水平に抱え、左手は梨花の小さな手を握っていた。
「おまえ、指、冷たいな。寒いか」
「ううん。寒くない」
「冷え性か」
「そうかも」
「おれのジャンパー、羽織るか」
「ううん。着ぶくれしちゃう。ありがと」
「着ぶくれしてもええやん。誰も見てへん」
「翠が見てるやん」
「……」
翠は梨花の顔を見下ろし、微笑んだ。冷たい手をくるむように、しっかりと握りなおす。
「かーわいいな、おまえ」
「翠も、かーわいい」
「どこが」
「かわいくないときもある」
「悪かったな。おい、なぁ、大雅さんにこの蕎麦を届けたら、そのまま初詣に行かへんか」
「初詣! いいね。久しぶり」
「……」
翠は不意に立ち止まって、後ろを振り向いた。
街灯がところどころに蒼白い光を放つ歩道には、犬を連れて散歩する夫婦連れが一組。他
には誰もいない。
「翠? どうしたの」
「いや、何か、何となく。誰かがついて来てるのかなぁーと思ったら、犬の散歩やっただけ。─
─寒くないか?」
「ううん。全然。大丈夫。嬉しい、翠と初詣」
梨花の綺麗に澄んだ声が弾んだ。
国見クリニックには、看板の明かりがひっそりと灯り、窓からは電気の光が漏れていた。翠は
インターフォンを鳴らし、大雅に自動ドアのロックをはずしてもらった。大雅は明るく笑って二人
を出迎えた。
「おう。梨花ちゃん、翠。サンキュー! ありがてえ。今夜は冷えるな」
「暖房入れてへんのか? 大雅さん」
「頭を冷やしたくてさ。少し寒いくらいが、ちょうどいい」
「頭を冷やすって。妄想でもしてたん」
「いや、客が来ないから、眠くなるし」
「たるんどるなぁー」
「ホンマはなぁ、大晦日やし、熱燗の一本も欲しいとこなんやけど。それは我慢」
「藪医者め」
梨花が、流しのコンロで鍋を温め、蕎麦の椀に箸を添えて診察室に入ってくる。
患者の椅子には翠が腰掛けていたため、梨花はベッドの隅にちょこんと腰掛けた。
「何や、おまえらはもう食ってきたんか」
「うん。お先に」
「薄情な奴っちゃなー。何や、年越し蕎麦ってのは、みんなが揃って食べるもんと違ったか」
「アホかいな。三人前、こんなトコまで持ってこれるか。重いっちゅーねん」
「そりゃそうだ」
梨花がくすくすと笑う。大雅は気持ちのいい食べっぷりを発揮し、勢いよく蕎麦をすすり、汁を
呑み干し、あっという間に平らげた。
「旨かったぁ。梨花ちゃん、ごちそうさま」
「いいえ。ありがとうございます」
空になった椀をクーラーボックスに戻そうとして、翠は呆れた。
「海老の尻尾までキレイになくなっとる……」
「あのなぁ。戦時中は何でも食べたんや。海老の尻尾は貴重なカルシウム源やで」
「おっさんくさいなぁ。──じゃ、そろそろ、行くわ。梨花、コート着ろ」
「何や、もう行くんか」
「初詣や」
「寒いのに、元気やなァ。ああ、クーラーボックスは置いていけ。おれが帰るとき、車で運ぶか
ら」
「おう。サンキュ。じゃ」
「大雅さん、よいお年を。……今年はお世話になりました」
梨花がお辞儀をした。大雅は微笑み、手を振った。
「こっちこそ。ええもんばっか食わせてもらって。じゃ、いいお年を。お二人さん」
外に出て、二人は歓声を上げた。ぱらぱらと、粉雪が舞っていたのだ。
「雪だぁー。初雪やねぇ」
「いきなりやな。まだ紅葉も赤くなっとらんのに、どないなっとんねん」
「ここんとこ、毎年、紅葉、遅いよね。桜は早いし。冬が短い」
「そのうち南極大陸が溶けて、日本は沈没すんで」
「ホンマやね。でも、雪が降ってくれたら、何だか安心する」
翠は梨花の肩を抱いて歩いた。神社へ向かって歩き続けるうちに、ごおん、ごおん、ごおんと
おごそかに鳴り響く鐘の音が徐々に明瞭さを増して二人の耳に届きはじめる。
「あ。これって除夜の鐘かな……もうそんな時間?」
「ホンマやな。わ、あと十分で年明けや。──な、梨花。ちょっと待て」
翠は公園の傍にある自販機の前で立ち止まり、梨花を振り向いた。
「年が明けたら乾杯しよう。そこの公園で」
「ええね!」
「何にする」
「やっぱ、熱い日本酒……かな? でも酔ってお参りするのもねー。あ、甘酒があるよ。甘酒が
いい」
「おれもそうしよっと」
翠は甘酒を二本買い、一本を梨花に手渡した。
「熱いで。気をつけろ」
「ん。あったかい」
二人は誰もいない公園に入り、ベンチへ歩いた。遊具にもベンチにも、うっすらと雪が積もっ
ている。二人はベンチの雪をはらい落とした。
「うわっっ、ちべたい。ちべたーっっ」
「冷たいねー。ひゃー」
歓声をあげながら、きれいになったベンチに、二人は腰掛ける。梨花がぶるっと身震いした。
「さぶー。やっぱ、雪が降ると、寒いね」
「寒いか」
翠は梨花の肩をしっかりと抱きしめる。コートを着ても、その肩はか細く、何とも小さかった。
翠は、その小さなぬくもりが自分の腕の中にある奇跡に、泣きたいような気持ちになる。
「あったかい……」
「どっちやねん」
風のない夜だった。白い雪は静かに吐息のように暗黒の空から舞い落ち、吐く息はほわりと
白く、冷涼な空気が肺を清める。鐘の音が遠く、木霊のように震えながら響く。
梨花は甘酒を両手で包み込み、寒さで身体を固くしていたが、やがて翠の肩にゆっくりと小さな
頭をもたれさせてくる。
「──あのね、翠」
「ん」
「わたしね。出血止まってん」
「そっか。良かったな。辛そうやったもんな」
「そやからね。……その……もう、セックス……が、出来るの」
「……無理するなよ」
「無理してないよ。わたし、翠に抱いて欲しい。ちゃんと抱いて欲しい。こないだは、最後まで行
かなかったもん。……イヤ?」
「イヤじゃないよ。嬉しいけど……ああもうっ、こんなところで欲情させるなや。そんな声で囁き
やがって。立ってきたやないか」
「ちょっと待って雪の中でセックスはイヤよ。家に帰ってからの話よ」
「ああ。姫初めやな」
「やだ。何でそんな言葉だけ知ってるん、おせち料理は知らんかったくせにっ」
「ってことはおまえやって知ってるんやん」
「……」
「おまえ、顔、赤いで」
「もうっっっ」
拗ねたように身を放す梨花を翠は掴まえ、そのままベンチの上にそっと押し倒した。梨花の
後頭部に自分の腕を回し、寝心地が良いようにしてやり、小さな顔の上を唇でたどる。梨花は
陶然と翠の背中に腕を回した。深い闇の中からゆっくりと舞い落ちてくる雪は放射線状に梨花
の視界の中に広がった。幻のようだと梨花は思う。梨花の唇を割って翠の舌が入ってきた。梨
花はしがみつくように翠の舌を吸う。長い接吻のあと、翠は唇を離し、梨花の黒い髪を兎の仔
でも扱うような手つきで、おずおずと撫でおろした。
「──愛してる」
「おれも。梨花。おまえがいちばん好きや。誰よりも、おまえを愛してる。おまえに逢えて、ラッ
キーや……」
「最初は苦手なタイプやったのに、どうしてやろ。不思議。こんなに好きになるなんて」
「ホンマやな。おれも、何となくおまえがキライやった。って最初の入院してたときだけやで。再
会してからは、ずっと好き。おまえの全部が好き。特に、この耳のとがり具合なんてなぁ、最高
や……」
耳の中に舌を入れられて、梨花はくすぐったがって笑う。
「──う。翠。ごめん、何かポケットに入れてる? 痛い」
「あ。入れてる。コレや」
翠は慌てて起き上がり、宝物のブローニングを梨花に見せた。梨花は目を丸くした。
「そういえば、あのとき、撃ったね」
「うん。初めて人を撃った……」
「キレイ。触っていい?」
「ああ」
大雅にも触らせたことのない拳銃を、翠は梨花に渡した。梨花は下唇を吸い込んで、重い拳
銃の手応えを確かめた。
「BROWNING……ブローニング、かぁ。あーあ、いいなぁ……!」
「知っとるんか。女のくせに」
「うん。知ってる。──これ、弾は入ってるの?」
「ああ」
「そう……」
「梨花──何すんねん!」
翠は叫んだ。
(第4話に続きます。)
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