小説(長編2) [ 冬の陽炎、哄笑響く  第4話 ]



   











   [ 第4話 (全5話) ]






 梨花は、腕をまっすぐに伸ばし、拳銃の銃口を正面に構え、ぶらんこの方角へ射撃のポーズ
を取っていた。
「おい、危ないから、やめろ、アホ」
「引き金弾いたら、怒る?」
「あかんあかん。こんな住宅街で。警察に通報されんで。今度河原で撃たせてやる。でも、おま
えの肩じゃなあ。脱臼すんで」
「そう。やっぱ、衝撃大きいのかぁ……わたしも、ずっと、拳銃が欲しかってんけど、お金がなく
て買えへんかった。でね、持ち歩いてるのが、コレ」
 梨花はブローニングを翠に返した。そして、コートのポケットから皮のケースに入った折りた
たみナイフを取り出し、翠に渡した。
「ブローニングのナイフも、選択肢として迷ったんやけど、結局これにしてん」
「へえ。カッコイイやん」
 渋い檜皮色の皮のつやつやとした感触を掌で楽しみ、ナイフを取り出し、開く。
「気をつけて。手を怪我しないように」
「おう」
 柄は紺色の鉄だった。握りやすいように、優雅な曲線に仕上げられている。鉛色の刃の長さ
は十センチメートル程度。刃を開いても、全長は二十五センチメートル程度の短さである。
「どこの?」
「ベンチメード」
「フォールディングナイフって奴やな」
「そうそう。ええと、マルチブレード・フォールディングナイフって名前やった、確か」
 翠は武器が好きだった。ナイフの刃を指先でなぞり、うっとりとした表情になる。
「でも、もしかして偽造品ちゃうか」
「分からへんわ。ネットのオークションで買ったし」
「くわー。出たあ! オークションかー。そりゃ、得体が知れへんで、アホやなぁ」
「どうかなぁ。よく切れるけどね?」
「これで人を刺してみた?」
「うん。でも刃が短いから、致命傷にはならへんかった。それで出刃を買ったんやけど、ニッポ
ンスーパーに落としてきちゃった」
「こんなモン、おまえの手に負える代物やないぞ。これで殺そうと思ったら、人間の身体の急所
をよく研究せな。修行が必要やな」
「また出刃買うし、ええもん。それは、とりあえず、お守り」
「お守り、かぁ……。それも危ないねんで。おれも、お守りのつもりでブローニングを持っててん
けど、つい、誘惑に負けて使ってしもた」
「分かる。分かる。すごく、分かる。人を傷つけることが出来ないなら、自分に試してみたくなっ
て、怖くない?」
「そう! そうやねん! おれとおまえって、ホント、似てるなぁ」
「うん。似てる。でも翠は目的を果たしたやないの。もう、拳銃は要らないんじゃない?」
「分かるか。何が起こるか分かったモンやないし。こんな世の中や。──けどな、ブローニン
グ、おまえに貸してやってもええで」  
「ホント?」
「うん。おまえ、あのとき、一緒に燐寸を投げてくれたから。約束してたやろ。今度はおれが、お
まえの復讐を手伝ってやる。もちろん、おまえが復讐する気をなくしたなら、それがいちばんえ
えんやけど。危ない橋を好きこのんで渡ることもないしよ」
「でも、翠って危ない橋を好きこのんで渡る性格やん」
「あちゃ。言いやがる」
「わたしと似てるから、分かるのよ。わたしは……あの女とあの男を死ぬほど憎んでる。けど、
何だか、あの地獄の家を抜け出すことが出来てしまうと、最近は恨みつらみは前ほどは思い
出さなくなって。でも、殺したいって気持ちだけはどうしても残っていて、ほとんど毎晩、二人を
殺す夢を見るねん。生々しい夢。こう、相手の肉の中に、刃物がずぶずぶと沈んでいって、血
がぶしゃーって出て、のたうち回るところを、耳を削いで、鼻を削いで、あちこちを突き刺して、
はらわたを引きずり出してやって、首を吊るしてやり、もがき苦しむのを見ててやるの。滅茶苦
茶にあがき苦しんでいるところを、せせら笑って見ててやるの。その瞬間はすっごい幸せで、ホ
ンマにセックスなんかよりずっとずっと気持ちがいいねんけど、でも殺し終わって、ああもう終わ
りかつまんない、って気が抜けるんよ。で、目が覚めて、それが夢だったっていうことに気がつ
いて、まだ二人は生きててわたしに殺されるのを待ってるんだって思うと、朝からとっても満た
された気分になるねん。布団の中で、目を開けて、頭の中で夢を再生させるの。残酷に脚色す
ればするほど、とっても気持ちが良くって──本当はわたし、二人を殺さない方が幸せなのか
もしれない。でも、殺さなきゃ、殺される、って第六感が言うねん。分かる? 退かれちゃうかな
ぁ。 翠……? なんで泣いてるの?」
 梨花は宙を見据え、言葉を選びながらゆっくりと話していたのだが、気がつくと、翠が顔をくし
ゃくしゃにして涙を流していた。大きく鼻をすすり、肩を震わせ、しゃくりあげる。梨花が怪訝な
顔で翠を覗き込むと、翠は照れ笑いを作ろうとして失敗し、梨花の首に齧りついた。
「ごめん。梨花、ごめんな。おれ」
「な、何。どうしたん」 
「──おれ、おまえの不幸を喜んでる。悪い奴っちゃ。自分とこんなに似てる人間がいるって思
うと、すっげえ嬉しくて、そやけどおまえが可哀想で。おれはな、あいつらを殺してから、確かに
おまえの言うとおり、気が抜けてもうて、つまらなくなって。おまえの復讐を手伝うって言ったの
も、単に人殺しがしたいだけやと思う。でも、おまえを助けたいっていうのもホンマやで。なぁ、
人を殺さないと物足りへんって、おれ、ビョーキやろ。大雅さんにキチガイ扱いされても当然や
と思う。確かに大雅さんのほうがおれより絶対まともやって思うもん。でも、おまえはおれと同じ
ことを感じてた。それが、おれは、嬉しくて、でも嬉しいのがすまなくて、……」
「分かる。分かるって。翠。ありがとう。泣かないで……」
 梨花は翠の柔らかい髪を撫でた。
「わたしたちは異常やないよ。たぶん。ただ、犯された、苛められたっていうことでズタズタにな
ったプライドを取り戻そうとしてるだけ。自分はカッコよく非情に人を殺せるって思うことで、プラ
イドがよみがえるの。ほとんどの人は妄想で終わるところを、実行に移しちゃったのがわたした
ち。堪え性のない悪者やんね。でも、病気じゃない。絶対に病気なんかじゃないよ。わたしは病
気じゃないもの。だから翠も病気じゃないよ。わたしたち、おんなじなんやもん。翠が病気なら
わたしも病気」
「……キリがないねんや。殺したら、次の殺しがしたくなる。それが、しんどい」
「もう一度戦争が始まればいいのにね。そうしたら、わたしたち、犯罪者やなくて英雄になれる
かも」
「ホンマやな」
「……ねえ、ちょっとだけ訊いていい? 翠のお父さんとお母さんは、今どうしてるん」
「父親の名前は分からん。おふくろはアル中のヤク中やって、おれは物心ついたときからずっ
と風俗で働いてた。児童ポルノとか、ソープとか、あそこの廃校とかでさ。結局廃校にいたの
が、いちばん長かったかな。おれが真性半陰陽ってのが、いい売りになった。で、おれのことを
すっげー気にいってくれやがったジジイがいて、そいつは女の方が好みやからって、おれを去
勢すれば高値で買い取ってやるっておふくろに言ったんや。手術に行かされたところが、大雅
さんの病院。そこでおれは、心臓移植を受ける前やったからさ、発作で倒れた。大雅さんはお
れに事情を訊いてくれて、児童売春で警察に届けるっておふくろを脅した。おふくろはびびって
逃げたらしい。それきり、おふくろとは会ってへん。おれは大雅さんの家に、十二歳のときから
世話になってる。心臓移植を受けられたのも、大雅さんのおかげ」
「恩人なんや。すごいね、大雅さん」
「うん。そう。すごいねんな。悔しいけど」
「わたしの恩人は、翠よ」
「大雅さんだよ。結局は」
「でも翠よ。翠がいなかったら、わたし、今ごろ大雅さんのお家に住ませてもらってないもん」
「……雪が積もってる、おまえの頭」
 翠はそっと梨花の身体からうっすらと積もった雪を払い落とした。雪は、銀粉のようにきらき
らと舞い落ち、梨花の姿は紋白蝶のようだ、と翠は密かに思う。
 梨花も翠の身体から雪を払い落とした。
「あ。甘酒。すっかり冷えちゃった」
「あ。せやったな。乾杯するって言うとったのに……もう、一時過ぎてる。新年や、梨花」
 二人は甘酒の缶の蓋を開け、カチンと乾杯した。
「おめでとう。梨花」
「おめでと。翠」
 生ぬるくなってしまった甘酒をすする。それでも生姜の香りとこくのある甘味が、それなりに美
味く感じられたのは、二人が共に相手の存在を身近に感じていたからだったのかもしれなかっ
た。梨花がくすりと笑う。
「何だか、すごい話の年越しになっちゃったね。殺人大好きカミングアウト大会みたいな」 
「はは。せやな。でも、話してて、おれ、新しい結論が見えてきた感じ」
「新しい結論?」
「うん、結局な、おれがホンマにおまえの恩人──っていうより、おまえの恋人になるには、お
れが大雅さんから自立せんとあかんってこと」
「……」
「今のままじゃさ、ママゴトやもん。大雅さんにも悪いし。おれ、新年の目標が見えてきたぞ。今
年は仕事を見つける! 人殺しはもう、ええわ。何か今はそんな気がする。すげえ。おい、おれ
の世界が今いきなり変わったで。ごっつ爽やか。分かるか。梨花、めっちゃええ気分や……梨
花。何で泣く。悲しいか。おれ、頼りないか」
「……ちがうよ。嬉しくて。ありがと。気持ちだけでも、めっちゃ嬉しい」
「気持ちだけやないって! 失礼な奴やな。本気やでおれは。真面目なんやでおれは」  
「知ってるよ、翠が真面目やってことは」
「ハッタリもかますけどな。ほら、顔、拭けよ。──!」
「翠?」
 翠はいきなり表情を厳しく引き締め、見事な反射神経を発揮してベンチからダッシュした。ほ
んの三秒で公園を飛び出し、通りを走り出す。
「待てやこら! この野郎! 何でおれたちをつけまわす! おら、待て! ぼけ!」
 翠は逃げる男のコートのフードを掴み、引きずり倒した。翠よりやや大柄な体格の、銀髪に
髪を染めた三十がらみの青年だった。
 翠に圧し掛かられた男は、反射的に翠の顔に手を伸ばし、応戦しようとしたが、翠がブロー
ニングを取り出し、柄で男の頭を殴ると、低い叫び声をあげて頭を抱え込み、転げまわった。
翠は拳銃のセーフティを外し、男に馬乗りになったまま銃口を額に突きつけた。
「おまえ、どっかで見たぞ。……何度か見た……どこでや。何者や、おまえは。言え。言わない
と、撃つ」
 背後からぱたぱたと軽い足音が聞こえる。
「翠! どうしたの! あ……!」
 梨花は銀髪の男の頭の方に回りこみ、その顔を覗きこんだ。
「……この変態野郎。まだわたしの後をつきまとってたの」
「知り合いか、梨花」
「撃たないで、翠。まだ撃たないで。わたしに撃たせて。村上よ。わたしを妊娠させた母の愛
人。許さない」
「ああ、こいつが、そうか」
 梨花の言葉に、翠の記憶が蘇った。中絶手術のあと、怒鳴り込んできた梨花の母親を乗せ
て、走り去った車を運転していた男は、銀色の髪をしていた。
 それから──そうだ、と翠は思う──スーパーの倒壊現場で、バックミラーに映った男も銀髪
だった。そしておそらく、今夜、妙な気配を翠に感じさせたのも、この男に違いなかった。
 梨花をつけ回していたのか。それで、すっきりしない記憶の紐がひとつ解けた。
 翠はいきなりブローニングを翻し、村上という男の額を再度激しく殴りつけた。鈍い音がして、
村上はアスファルトの上に身をのけぞらせる。皮膚が破れ、鮮血が顔に飛び散り、銀髪を汚し
た。
「おい。きさま。正直に答えろ。この近くに車を停めているか」
「──」
 翠は再び村上の肩を殴りつける。村上の足が虚空をむなしく蹴り上げる。
「答えろ! 次は撃つぞ!」
「……う、撃たないでくれ、頼む。車はある。車はあるから、う、う、撃たないでくれ……」
 翠は一瞬腰を浮かし、村上の身体を俊敏な動作で裏返し、アスファルトにうつぶせの形にな
った男の後頭部を再び拳銃の柄で殴りつけた。
「わああああっ!」
 男は悲鳴をあげる。その腕を折らんばかりに翠は背中に捩じ上げ、両手首を掴んだ。
「梨花、おれのポケットからハンカチを出してくれ」
「……」
 梨花は爛々と眼を光らせたまま、黙って翠のポケットを探り、ハンカチを取り出した。そして、
憎しみに顔を歪ませながら、男の手首を全体重をかけてきつく縛り上げた。
「よし。立て。車へ案内しろ。走るなよ。走れば、撃つ」
 翠は用心深い動作で男の後頭部に銃口を突きつけたまま、左の手で男の手首のハンカチを
握り、そろそろと男の身体から身を起こした。
「梨花の母親の家へ行くんや。梨花、運転できるか、おまえ」
「できるよ」 
「願ってもない正月になったな。梨花。これで、すっきり片がつく」
 翠は膝で男の尻を蹴り上げた。
「おら! とっとと歩きやがれ」



 
 三百メートルほど先のひとけのない路地に、見覚えのある、村上の髪と同じ銀灰色の車が停
まっていた。
 村上のポケットから梨花がキーを探り出した。翠は後部座席に村上を突き飛ばし、拳銃を突
きつけながらその隣に乗り込む。
 梨花は車を慣れた操作ですべるように発進させた。彼女の運転の腕は、意外に巧みだっ
た。
 約二十分運転し、梨花は古ぼけた団地の横に車を停車させた。五階建ての、エレベーターも
ない、築百年にはなろうかという建物だった。
 梨花は先に立って団地の汚れた廊下を歩いた。蛍光灯が壊れて、あちこちでぽかぽかと点
滅し、夏の終わりに死にそこねた蛾がふらふらと飛び交っている。
彼女の家は一階だった。ポケットから鍵を出して家に入る。入った途端にむっとしたアルコール
と煙草、それに中年の体臭が鼻をついた。狭い玄関から靴のまま部屋へ入り、電気を点ける。
いきなりダイニングキッチン、その北側にトイレと風呂場があり、その南側に襖があった。
「──寝てる。あの女」
 襖の向こう側から、高い鼾が聞こえていた。
「梨花。紐、あるか。荷造り用の。それと、はさみ。おまえが必要なら包丁も」
「あるよ」
 梨花はあちこちの戸棚を慌ただしく開き、青いポリの紐をひと巻き、それに鋏と包丁を取り出
した。
「どうするの」
「ああ。三メートルくらい、切ってくれ。それを三分の一に巻いて、ねじって太くしろ」
 梨花は黙々と指示に従う。
「出来た」
 翠を見上げる梨花は、蒼ざめた顔をしていた。表情は緊張にひきつり、こわばっている。彼
女の声はかすれ、口数は少なかった。
「こいつの腕を思い切り縛り上げて、紐の端を──そうやな、ドアのノブに繋げ」
 玄関に繋がれた村上の腹に、翠は残忍に容赦のない横蹴りを数発入れた。
 村上は呻いて足をよろめかせるが、紐が短いため倒れることが出来ない。その身体はドアの
前でゆらゆらと、壊れた大きな振り子のように揺れ動いた。
「で、どうする。梨花」
「……」
 梨花は出刃包丁を片手に、襖を開き、和室の電気を点けた。梨花の母、毛利瑠華がだらし
ない格好で眠りこけていた。梨花は無言で布団をはぎ、暫く母親の姿を見つめたあとゆっくりと
深呼吸をした。
思い切った様子で包丁を逆手に持ち替え、もう一度深く息を吸い込み、止める。
「──く!」
 梨花は鋭い叫び声をあげながら、全体重をかけて瑠華の肩を刺しつらぬいた。
 包丁の柄を両手に握り締め、ほとんど倒れ掛かるように母親の肩に圧しかかった彼女は、刃
が母親の肉を破り骨を砕く感触を掌に感じ、止めていた息を荒く絞り出した。
 毛利瑠華が大きく目を見開いた。
 素顔の瑠華の顔は、肝臓が悪いのか肌の黄疸が目立つ。
 その醜いたるんだ瞼の下の小さな瞳は、周りに白目がぐるりと飛び出すほど大きく見開かれ
る。目を覚ました彼女は、娘の凄まじい形相を顔の傍に見、熱い息遣いを聞いた。瑠華は次に
激痛を右肩に感じ、自分の肩に突き刺さっている出刃包丁を見て悲鳴をあげた。
「ぎゃあああああ!」
「──っ!」
 梨花は包丁を引き抜き、大きく肩で喘いだ。彼女の目も瑠華に負けないほど見開かれ、唇は
蒼ざめてひき歪み、汗と涙で顔をぐしゃぐしゃにしている。
──梨花。頑張るんだ、梨花。
 見つめている翠は、梨花の怯えや震えに共鳴し、身体を汗がつたうのを感じていた。梨花は
殺戮を惧れていた。それでも、彼女は母殺しを実行しないといけないのだった。それは弱い自
分を克服するための、挑戦だった。梨花の表情からは彼女が熱っぽく語っていたような殺しの
快感は微塵も感じられない。翠はそれを痛々しく感じ、祈るような想いで眺める。
──梨花は、おれと似ていると思っていたけれども、やっぱり全然、違うんだ。おれはあの廃
校で人々を焼き殺し、撃ち殺したときに、何の心の痛みもおぼえなかった。それどころか、快感
を覚えた変態だ。彼女は違う。まったく快感は覚えていない。ただ、自分の身を守るために、そ
して鼓舞するために、母親を刺している。まるで荒修行を耐える修験者のような形相をして。何
故、そんな想いをしなければいけないんだろう。可哀想に。何がおまえをそんな風にかきたて
る。どんな無残な記憶が。産褥の姿をいたぶり嘲られた記憶、犯され殴られた記憶か。可哀想
に、梨花。そんなちいさな身体で。
 包丁を抜いた瞬間、ホースから飛び出す水に似た凄まじい勢いで鮮血が瑠華の肩から噴出
した。瑠華の黄色い顔と梨花の蒼ざめた顔が血まみれになる。
 顔中を母親の血で汚し、梨花の咳き込むような荒い息遣いがさらに激しくなる。生臭い血の
匂いが部屋の中に立ち込めてくる。梨花は唇を半開きにして歪ませ、怯えた猿のように歯を剥
き出しにして食いしばっていた。
「──っぁ!」
「あ、あ、あんた……ぎゃああああ!」
 梨花は、再び出刃包丁を逆手に持ち、左肩を貫いたのだった。包丁を今度はすぐに引き抜
く。再び鮮血が噴水のようにほとばしる。
「ああああああ!」
 瑠華の甲高い叫喚が響き、その奇声に表れた苦痛に引きずられるかのように梨花はよろめ
いた。梨花はほとんど失神しそうになっていた。こんなに長い時間をかけて人を刺したことは初
めての経験であり、相手の酸鼻の苦痛を間近に見る感覚は、決して彼女が妄想の中、思い描
いていたような快いものではなかった。梨花は頭から血が引いていくのを感じた。
「梨花。大丈夫か」
 梨花がふらつくのを見てとった翠が、急いで彼女の身体を支える。翠は梨花に触れて驚い
た。汗みずくになり、全身の筋肉がぶるぶると激しく顫動していた。翠に支えられて、一瞬梨花
は膝の力を抜き、だらりと翠に体重をあずけた。翠は腕に力を込めて支えながら、梨花の昏倒
を覚悟した。
「梨花。もうよせ。おれに包丁をよこせ。おまえがどうしてもこいつを殺したいんやったら、変わ
りにとどめを刺してやるから、な、梨花」
「ひいいいいいい!」
 翠の言葉が聞こえたのか、瑠華は後ずさり、もがきながらも立ち上がろうとする。その光景
が、梨花を再び正気に戻した。梨花は身をよじり、翠の腕を振り払った。
 梨花は飛び込むように踏み込み、逃げようとする母親の太腿に包丁を突き刺した。刃は瑠華
の太い肉を突き抜け、畳にぐさりと突き刺さった。
「うわあああああ! あああああ!」
 瑠華は激痛に身を悶えさせる。動けば動くほど傷口が広がり、赤黒い血がどぼどぼと溢れか
える。畳の目の中に血は染み込み、染み込みきれない血潮は赤い池を作っていく。
 梨花は押し殺すような低い声で言った。
「あんたはわたしが殺す。そやけど、簡単には殺さへん。少しずつ切り刻んでやる。わたしがど
れだけの長い間、あんたに苦しめられてきたか、思い知るといい。わたしが出産したとき、股の
間から出てきた子供の頭をあんたは押し返したよね。それを撮影して売ったよね。その苦痛を
味あわせてやる。それだけのためにわたしは生きてきたんや」
「ひ……あ……ああっ……」
 喘ぐ母親の髪を掴み、出刃包丁は突き刺したまま、フォールディングナイフを取り出し、柄に
収まっていた刃をぱちりと開く。そして左手で瑠華の鼻をつまみ、切り落とそうとする。刃渡り十
センチのナイフは出刃包丁よりも遥かに扱いにくく、梨花の弱い握力では一度では切り取るこ
とが出来ない。瑠華の軟骨に、何度も何度もナイフの刃が突き入れられる。瑠華は顔を赤い
ペンキ缶の中に突っ込んだような真紅に染め、もがき足掻いた。
「ぐわああああ! ぎええええ!」
 狂った鳥のような悲鳴をあげる母親の鼻をようやくそぎ落とし、畳に振り捨てる。
 更に梨花は瑠華の右の耳を鷲掴みにし、引っ張りあげて、削ぎ落としにかかった。何度もか
けてぎりぎりりとナイフの刃を食い込ませ、右の耳をそぎ落とす。
「あああああ! わあああああ! ぎゃああああ!」
 梨花は腿に刺さった出刃を引き抜いた。絶叫しながら転げまわる母親の襟首を掴み、ナイフ
でパジャマと下着を切り開き、裸にする。全裸に剥かれた醜く肥満した身体には、パジャマを切
り裂いたときについた傷が、無数に細くついて、黄色い肌から鮮血が流れていた。
 顔を押さえて転げまわる母の髪を引きずり回す。束になった髪が頭皮ごとごそりと剥げ落ち
る。
 ふと、梨花は翠を振り向いた。振り向いた顔は、平時の彼女と同じ人間とは信じられないよう
な悲壮な形相に歪み、血と涙でどろどろに汚れていた。静かに梨花を見守っていた翠は、その
顔を見て安心させるように優しく微笑した。
「何や?」
「この女を抑えてて」
「ああ。村上の扱いには、気をつけろ」
「分かってる」
 翠は暴れる瑠華に乗りかかったが、体重が八十キロほどもありそうな彼女の力は翠を遥か
に上回り、簡単に振り落とされた。翠は舌打ちして、瑠華の向こう脛と腹と喉を激しく蹴りつけ
る。
「ぐええっ」
 呻き声をあげて、瑠華は失神した。翠はあらためて、おとなしくなった瑠華の上に圧し掛かっ
た。だらりとなった瑠華の顔は鼻を失い血にまみれ見るに耐えない醜悪さだったが、ふと翠は
その瑠華の唇の隅が、きゅっと微笑むようにしゃくれているのを見た。梨花にそっくりな口元だ
った。今まで、体型も顔もまったく似ていない親子だと思っていたが、梨花はやはり瑠華の血を
ひいているのだ。
──梨花がこんなに激しい感情を見せるなんて、おれは思いもしなかった。外見は小学生のよ
うだけれども年のわりには淡々として落ち着いた頭のいい子だと思っていた。こんな激情を見
せて、こんな残虐な行動を取る人間だとは知らなかった。けれど梨花は刃物を突き刺しなが
ら、その痛みを肌に感じる想像力を持っているのだ。あの涙。こわがりの梨花。その梨花を無
理矢理の虐殺に駆り立てるほどの憎しみ……この親子は、どうしてこんなに憎しみ合わなくて
はいけないんだろう。だけどおれも母を憎んでいた。おれの母をおれは殺さなかったが、もしも
別れ別れになっていなければやはりおれも母を殺しただろう。世間の奴らは、強迫観念に囚わ
れたように『家族』というものをまるでユートピアでならなければならないかのような扱いをする
が、親と子は本当はもともと憎しみ合うように作られているんだ。動物ならそうじゃないか。子が
親離れをすればあとは生存競争の中の敵じゃないか。人間と人間とが憎しみあうとき、身近な
人間の方であればあるほど、接する時間が長いだけ憎しみも激しさを増すだろう。同じ深さの
憎しみならば、対象は知人よりも家族の方がより殺意は深まっていくのだろう。……夫婦はどう
なのだろうか。夫婦も同じことなのだろう。憎しみがつのれば殺したくなる。おれと梨花はどうだ
ろう。万が一にも憎しみ合う日が来るのだろうか。
 梨花はナイフと母親から切り落とした鼻と耳の肉片を持って、村上へ近づいた。村上は残虐
な拷問の光景を見て正気を失い、おこりがついたように震え、小便を漏らしていた。
 梨花は無言で村上の太腿にナイフを突き刺した。
「うわああああ!」
「食べなよ。あんたの大好きな女の肉よ。食べないと次はあんたの大切なところをあの女に食
わせるよ」
「やめてくれ! 食う! 食うから!」
 鼻にシリコンでも入れているかのように妙に整った顔を、涙と涎と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに
汚し、村上は叫んだ。その唇に梨花はふたつの肉片を押し込む。瑠華の血がぽたりぽたりと
村上の口から涎とともに流れ落ちる。村上は泣きながら肉片を咀嚼し、飲みくだした。
「食べたわね。自分の女の肉を。卑怯者。あんたって男はどこまでも最低な奴」
 梨花は言い捨て、ナイフを引き抜き、村上を繋いだ紐をドアノブから切り離し、重心をつけて
引きずり倒した。村上はバランスを崩して倒れる。その襟首を掴み、梨花はずるずると和室に
引きずっていった。
「おい、梨花。危ないな。おれと変われ」
「うん。この女に、最後にイイ思いをさせてあげようと思って。村上サン、あんたの女を犯すの
よ。今生の別れに」
 翠は瑠華を突き放し、村上の背に馬乗りになった。瑠華は意識を取り戻していたが、掴まえ
ていなくとも、瑠華は、削がれた鼻からの出血が目に流れ込み、抵抗できる状態ではなかっ
た。体中を走る想像を絶するような苦痛にひいひい声をあげながら、転げまわっていた。
 梨花はその瑠華を引きずり起こし、背中から両腿に腕を入れ、その股倉を大きく開く。
「翠。その男を」
「ああ。……」
 翠は村上を起こし、小便で濡れたスラックスのジッパーをおろしたが、首を振った。
「あかんわ。やっぱ。梨花、あきらめな。完璧に、萎えてる。こりゃ、使いものにならんで」
「そう。……だってさ。訊いた? 母さん。あんたの男は、あんたの鼻と耳は食べれるけれどあ
んたとセックスするのは真っ平なんだって。可哀想に」
「──あんたなんか、産むんやなかった、この、鬼」
 不意に低い、苦痛に掠れた声で、しかしはっきりと瑠華は言葉を発した。
「……そんなにセックスが見たいの。え。梨花。……あんたは零歳のときからあたしのセックス
をじっと見てる気色の悪い化け物やったよ……こんなにしてまでセックスを見たいか、この色き
ちがい……じーっと見てたね、あんたは。いつもいつも目を光らせてあたしとあたしの男を……
そうしてはあんたがいつもさいごはあたしの男を奪ったんやないか……それでも満足できへん
かったんか……このきちがい娘……」
「わたしはあんたの男を奪ったりしてへんわ。レイプされてたんや。よくそこまで自己中心的な
考え方が出来るね。わたしを餌にしてあんたはいつも男を釣っていたくせに。……村上サンが
立たへんなら、せめて彼にあんたをつるしてもらう。翠。村上を連れてきて」
 悔しげに歪んだ梨花の顔は、新しい涙に濡れていた。血液にまみれて、ぽたぽたと彼女の涙
は床に零れ落ちた。翠はその涙を見て思う。
──結局……梨花は、母親の愛情が欲しかったのだろうか。愛情を得られなかった恨みが、
ここまでに彼女を駆り立てるのだろうか。愛情とはいかないまでも、普通、人間同士が取ろうと
する適当なバランスに飢えていたのだろうか──ああ、おれだったら、彼女を飢えさせないぞ。
そうだ、おれは彼女を絶対に憎まない。彼女を守ろう。こんなにも弱くて情に飢えている彼女
を、おれはおれの愛情で満たしてやりたい。もう二度と彼女にこんな惨い思いはさせたくない。
今日が彼女の地獄の最後だ。明日からはおれが。強くならなければ。そうだ、おれ自身がもっ
ともっと強くならなければ。大雅さんに精神安定剤を処方されるような状態ではいけない。おれ
がしっかりしなければ。梨花。可哀想な梨花。どうしておれはこんなに苦しいんだろう……そう
だ。梨花の姿は、鏡を見ているようなんだ。それも普通の鏡じゃなくて自惚れ鏡だ。おれは無
慈悲に百四十人を惨殺した。そうしてそのあと悪夢ひとつ見ていない。梨花は一人を殺すのに
残酷な拷問を加えながらも、こんなにも苦しんでいる。多分これから、今日の悪夢を繰り返し思
い起こし、夢にうなされる毎日が彼女を待っているのだろう。そうだ、おれは苦しまなかった…
…。表面は鏡を見るように似ていても、根っこのところでは、おれと梨花は全然違う。違う人間
なんだ。違うから、愛することが出来る。梨花。好きだ。梨花。弱い梨花。守ってやる。おれが。
梨花。
 梨花はポリの紐を勢いよく引っ張り、ナイフで切り、ぎっと結んで輪を作った。そうして母親の
首にぐるぐると紐を巻きつけた。そのまま紐の端を持って風呂場へ瑠華を引きずっていく。瑠
華は絞め殺される鶏のような奇声を発した。翠は村上を引きずって、風呂場へついていく。
 梨花は風呂の蓋の上にのぼり、苦心して、シャワーの留め金に瑠華の首にかかったポリ紐
を引っ掛けた。瑠華の身体が宙にぶらさがる。
「くえぇぇっ」
 彼女は目を剥いて舌を突き出した。梨花はその足元に、洗面器と流し椅子を重ね、瑠華が
立てるようにした。みるみるうちに、瑠華の身体中から流れる鮮血で風呂場の水色のタイルが
赤黒く染まっていく。
「村上サン、出番よ。あんたが死刑執行人。この椅子を蹴りなさい」
「ほら、行けよ」 
 翠は村上を突き飛ばした。
「ひ、ひ、ひいーっっっ」
 泣きながら、村上は瑠華の足元の椅子を蹴り飛ばす。瑠華の体重を支えるものがなくなり、
瑠華はふたたび空中で踊った。顔が青黒くなり、失禁する。アンモニア臭がたちこめる。それと
同時に、シャワーの留め金が重量に耐え切れずに、折れた。瑠華は床へ崩れ落ちた。梨花は
びくりとした。瑠華は蠢き、起き上がろうとする。
「り……か……こ……の……ば……け……も……の……の……ろ……って……や……」
「きゃああっ!」
 梨花が思わず悲鳴をあげて尻餅をつく。
 翠は見かねて、風呂の蓋を開けた。水は半分ほどしか入っていなかった。狭い風呂桶の中
に、翠は瑠華を抱えいれ、水道の蛇口を捻り、勢いよく水を足した。風呂の蓋を半分閉めて、
水が増えるのを待つ。瑠華は既に意識を失い、ぐったりとしていた。赤いマーブル模様の水が
風呂桶から溢れたとき、翠は思い切り瑠華の頭を押さえ、水に沈めた。
 そのとき、翠は激しく後頭部を殴られ、崩れ落ちた。
 そのまま気を失って、死んだようにぐったりと転がる。
 梨花は驚いて振り返り、背後を見て悲鳴をあげた。






                                         (第5話に続きます。)