小説(長編2) [ 冬の陽炎、哄笑響く 第5話 ]
[ 第5話 (全5話) ]
「い……いやあああっ!」
「何が、いゃあーや。ここまで自分の母親を切り刻んでおいて。なあ梨花。今度は、おまえの番
や。とことん情の怖い冷酷な女やな。気が強くて──ええ感じや。おれも楽しめそうや……」
村上が、それまでの醜態とはまるで別人のような冷静な顔をして、立っていた。ハンカチが、
風呂場の隅で燃え上がっていた。傍にライターが転がっている。
「だけどおまえは母親を切り刻みながら、小便を漏らしそうになってたんやろ。誤魔化しても分
かったで。怯えながら必死で包丁を振り回すおまえは、おれが見てきた二年間のおまえの中で いちばん可愛かったなぁ、なあ梨花」
「ひ……!」
自由になった腕を、村上は梨花にさしのべ、悲鳴をあげようとする口を塞いだ。梨花の呻き
は、気を失った翠の耳に届くことはなかった。
夢の中、白い鱗の蛇がぬらぬらと厭らしく表皮をてからせて、追ってくる。逃げても逃げても
追ってくる。やがて翠は雪山へたどりつき、深い洞窟への入り口があるのを見つける。洞窟の 中は赤すぎるほどに赤い赤土の壁だ。翠はその赤の毒々しさに躊躇うが、蛇の冷たい舌が後 ろ首にちろりと触れたとき、悲鳴をあげて洞窟へ飛び込む。飛び込むと、洞窟は女の子宮に変 わり、翠の背中を締め上げる。大きな悲鳴をあげるが、誰も助けてはくれない。やがて翠は力 尽き、口からぬめりとした苦い内臓をぞろぞろ吐き出す。内臓は歯肉にまとわり、歯に当たっ た内臓の粘膜は破れ、鉄の味の鮮血が口腔いっぱいにほとばしる。内臓は吐いても吐いても 口から溢れ、血はねっとり喉を詰まらせる。そのとき、目の前に鏡があるのを見つける。そこに 映っているのは、黄色い肌の鼻と耳を削がれた女の悲惨だが滑稽な醜顔。変わり果てた自分 の姿のおぞましさに、翠は悲鳴をあげる。悲鳴をあげる最中にも新たな内臓が口から溢れてく る。翠はたまらず内臓をおのれの手でひきずり出しはじめる。俯いた姿勢が苦しく、のけぞると 再び鏡の中の自分が瞳に映る。日本人形のような長い黒髪、死に装束の白無垢を身につけ た可憐な白い顔がどす黒い血にまみれ、恐怖と絶望に溢れた眼差しで恨めしげに自分を見つ め返している。翠は絶叫した。
「うわああああっ! 梨花──!」
ベッドから跳ね上がり、肩を上下させて荒い呼吸を繰り返す。冷や汗が全身を濡らしていた。
眼には霊と化した梨花の残像が残っているが、よく見ればそこは自分のいつも寝起きしている 見慣れた寝室だった。腕に、点滴の針が刺さっていたが、動いたはずみで、点滴をぶらさげた 台が倒れ、すさまじいがらがらという音を立てた。針が腕から抜けた。
翠は室内を見回す。後頭部の鈍痛に気づき、手をやると、大きなガーゼが貼られていた。
窓の外に、いつもの山が見える。橙から真紅に色づく紅葉は山を覆い、粉砂糖をふったような
白い雪が頂上から裾野へ広がる。盛秋と真冬の入り混じった光景は美しい異様な白と赤の対 比を醸し出している。夢で見た色と同じだった。
「どうした、翠。大丈夫か」
音を聞きつけた大雅が、寝室の中へ入ってきた。
「大雅さん──」
「あかんやんか。おまえ、点滴外したら。熱が高いんや。起きるな。寝ろ」
「大雅さん! 梨花は! 梨花はどこや!」
「……だれや? 梨花って」
大雅が眉をひそめた。そして心配そうな顔で翠の額に手をあてる。ひんやりとした大きな掌
が、熱のある額に気持ちよかった。
大雅はゆったりとした動作で点滴を起こし、再び翠の腕に針を挿し、テープを貼った。そして
カーテンを閉める。
「また、悪い夢でも見たんか。翠。おまえは熱があるんや。寝ろ」
「……」
翠は茫然と、大雅がそっと翠の身体をタオルでぬぐい、倒し、枕をあてがい、横たえるのに逆
らわず、人形のようにされるがままになっていた。
「まったく、少し眼を離すとすぐに薬を飲むのをさぼりやがって……あかんやろ。そうや、薬。飲
め」
大雅の指が翠の唇に数粒の錠剤を押し込む。逞しい腕が、翠の首を抱え上げ、コップの水
を口に含ませる。翠は幼子のようにこくりと素直に水を飲み込んだ。
「ほら、目を閉じて。もう少し、眠れ」
──夢? 夢だったのか……。おれに恋人が出来るなんて、甘ったるい夢にすぎないのか。
「翠。──おやすみ」
翠は唐突に激しい疲労を感じた。目を閉じる。大雅の静かな息遣いが聞こえていたが、やが
て彼はそっと足音を忍ばせて、寝室の外へ出て行った。
翠は眠りに落ちようとしていた。全身がだるい。熱っぽい。後頭部が痛い……。
翠は跳ね起きた。
後頭部! 手でその感触を確かめる。大きなガーゼによって手当てがされている。夢じゃな
い。夢じゃないのだ。梨花。梨花はどこだ。
翠はベッドから転がり出て、再び点滴を倒してしまう。それに構わず、パジャマを脱ぎ、トレー
ナーを着て、ジーンズを履く。熱のために、翠はふらつき、ジーンズに片足を突っ込んだままよ ろけて無様に倒れ、後頭部を床に打ちつける。確かな激しい痛みが走る。翠は倒れた姿勢の ままジーンズに両足を通し、弾みをつけて起き上がった。
愛用のジャンパーを羽織る。ポケットを探る。財布はある。ブローニングは。ブローニングが
ない。ブローニングはどこだ。
サイドテーブルの引き出しを開ける。そこにもブローニングはなかった。しばし茫然としたあ
と、翠の頭に光のように閃くものがあった。
──大雅さんだ。拳銃をおれから奪って隠したのは、あの人だ。何が夢だ。何が梨花ってだれ
や、だ。あの野郎。人をなめやがって。キチガイ扱いしやがって。
翠は寝室を飛び出し、リビングに突進した。ソファに座っていた大雅が、雑誌から顔をあげ
た。
「おい。寝てろって言ったやろ──」
「ブローニングはどこや! おれのブローニング! 梨花はどこや! 大雅さん!」
大雅の襟首を掴み、揺さぶった。大雅は哀しい眼差しで、翠の瞳を覗きこんだ。
「……拳銃は、おまえには渡せへん。梨花は、どこかへ消えたよ」
「消えた……?」
「まったく、おまえたち二人ときたら、何人殺して歩けば気が済むんや。おまえが帰って来るの
があんまり遅かったから、おれはあちこち探して、やっとおまえを見つけた。毛利梨花の実家 や。何や、あの惨殺体は。何てことをしたんや、おまえらは。自分のしたことが分かってるん か」
「梨花は!」
「知らん。風呂場におまえが倒れていた。浴槽の中に、梨花の母親の惨殺体があった。おれは
おまえを連れて帰ってきた。梨花の姿はなかった」
「知らんって……そうや、あの男、村上は! 銀髪の男や! 梨花の母親の愛人の!」
「銀髪の男? 知らん……あの家にいたのは、おまえと毛利瑠華だけやった」
「ホンマか。じゃあ、村上が梨花を攫ったんや。梨花を助けないと! 大雅さん、頼む、手伝っ
てくれ!」
「断る」
「何で!」
「よく考えろ。いいか、おまえたちは相性が最悪だ。別々にいれば罪を犯さないですむところ
を、互いに刺激し合って殺人を犯している。一緒にいればまた殺人を繰り返す。殺人なんても んじゃない──あんなのは、キチガイの惨殺や。梨花はどういう娘なんや。考えてもみろ。あの 小さい身体で、これまでに何百人を虐殺しているかわかったもんやない。そんな娘とおまえを 付き合わせることが出来るか?」
涙を零しそうになっていた翠の情けない表情は、大雅の淡々と噛んで含めるように言い聞か
せる言葉を聞くうちにみるみる間に引き締まり、険しくなる。
翠は害虫でも見るかのように冷淡な瞳で大雅を見つめ返した。
「──あんたはおれの保護者やない。大雅さん。おれは大人や。おれは梨花をあいしてるん
や」
「そうか。好きにしろ……でも、おまえは大人やないぞ」
「ブローニングを返せ」
「断る。犯罪に巻き込まれるのは真っ平や」
「ええわ、もう」
振り返って翠が歩き出す腕を、大雅は掴んで引きとめた。
「おれにさわるな! 放せや!」
「免疫抑制剤や。持って行け。一日二回、欠かさず飲め」
大雅は翠のポケットに薬瓶をねじ込んだ。翠は唾を吐き捨てた。
玄関のキーボックスを開くと、いつもはそこにかかっている車のキーがなかった。翠は舌打ち
した。躊躇ったが、リビングへ戻った。大雅が顔を上げる。
「何や。えらい早いな。もう戻ってきたんか」
「車のキーをよこせ」
「甘えんな。あの車はおれの車や。興奮したおまえに貸せるか」
「──!」
翠はそれ以上言わずに、玄関へ走り、スニーカーの靴紐を結ぶのももどかしく、外へ飛び出
した。自転車に飛び乗って、全速力で駅へ向かう。護符のように大切に肌身離さず持っていた 拳銃を奪われ、翠の胸は破裂しそうなほどの不安で高鳴っていた。
──梨花。梨花。梨花。梨花。どうしてる。今、どこにいる。おまえを犯して、あんなに苦しめた
奴と一緒にいるのか。どこで泣いている。必ず助けてやる。梨花。梨花。
タクシーが走ってくるのが見えた。翠は自転車を歩道に乱暴に横倒しにして、狂ったようにタ
クシーに手を振った。通りすがりの少女が、驚いて小走りにその横をすり抜ける。
タクシーは滑るように翠の前に停車した。
あれから何時間たつのだろう。この苦しみはいつまで続くのだろう。わたしはあと何時間生き
ていればいいのだろう。
リノリウムの冷たい床に横たわった梨花は、時折優しい闇の中に抱かれ、身を任せようとす
る。その都度、唇に口腔の粘膜を焼くような強いアルコールが注ぎ込まれる。
「ほら、しっかりせえよ。梨花。おまえには散々いたぶられたからなぁ。まだまだ楽しませてもら
わんとなぁ。おい。起きろ。若いんやから、頑張れや」
切り取られた耳の跡を、黒い革靴が踏みにじった。固まりかけた血の膜が再び破れ、古い血
で黒く汚れた頬に鮮やかな鮮血がほとばしる。梨花は呻いて、弱々しく蠢いた。
「おまえは何百人も殺した。たいした娘や。なあ、おれやってな、子供の頃はおまえと同じで親
に虐待されたんや。何をされたと思う? 腎臓と肝臓をな、切り取って売り飛ばされたんや。お れも健常者やからな。でもな、おれは生き延びた。おまえとおれはよく似てる。生い立ちも、考 え方も。な? 強いヤツ、生き延びたヤツが勝ちなんや、この世は。おれも何十人も殺してきた ──殺すと自分の力が信じられる。なぁ。梨花。おれはおまえの強さに惚れてたんや。この二 年、おまえに首ったけやった……鼻っ柱の強いおまえをこうやって踏み躙り切り刻むのを、毎 日毎日夢想していた……本当はもっとおまえを泳がせて楽しむつもりやった。けどおまえがお れを刺したからには、お仕置きしなくちゃな。なぁ梨花。死ぬなよ。おまえに恋してきたおれを思 いきり楽しませてくれ」
冷たい床よりも、自分の身体が冷たいような気がする。何よりも、切り裂かれた腹が、痛く、
そして冷たい。
「もしもし? 国見さん? 村上です。このたびはどうも不手際がありまして。翠くんは大丈夫で
したか? それは良かった。加減して殴りましたから。こちらはおかげさまで、万事上手くいき ました。ええ、もう。は? ああ、あのですね、うちは麻酔を使わないんですよ。臓器に支障が 出るといけませんから……まあ、活き造りの要領ですね。まだまだピンピンしてますよ、あはは は。ええ。ええ……」
梨花にはまだ片耳が残っていた。音は聞こえる。村上が電話で何かを喋っているのは分かっ
たが、何を言っているのかは梨花には判断する気力が残っていなかった。
「……まだ喋ることも出来るんですよ。ええ。卵巣を摘出して、片耳を切り落として、まぁ指を何
本かノコギリでひいてみただけですからね。ひくといい音で鳴きますよ。卵巣は二時間前に大 学病院に送りました。梨花はまだまだ元気なもんです。今度おたくにも活き造りのコツをお教え しましょうか? ちょっと本人を電話に出しましょうか。──ほら。梨花。話せ。お世話になった 先生やで。礼を言え」
革靴がごろりと荒々しく全裸の身体を裏返す。口元にひんやりとした受話器が押し付けられ
る。
「ほら。おい。梨花。話せ」
「──翠。愛してる。あいしてる。生きて。あんたは生きて……」
喉がつまり、梨花はむせかえった。受話器が離れていく。
「如何ですか。健気なもんでしょう。十代というのは、何とも夢が多くていい年頃ですよね。うら
やましいもんですわ……ええ、ええ、それは分かってます。もちろんでございます。万が一翠く んがこちらへ来られても危害は加えないことは誓ってお約束します。お互い商売ですから。今 回、申し訳ないことに、切羽詰って彼の頭を殴ってしまったのはこちらの失態です──それで ですね、まあ、その、慰謝料として百万、お代金に追加させていただこうと思っているのです が、それで如何でしょうか。……それでよろしいですか? それはどうも。本当にありがとうござ います。ご迷惑をおかけしまして。では、今後ともひとつどうぞよろしくお願いいたします。はい。 はい。では、失礼いたします」
村上が電話を置いて梨花の傍に近寄ってくる。次は何をされるのだろう。梨花の中を惧れが
走るが、彼女は身動きする力が残っていない。
鋭いメスが、ゆっくりとのこぎりをひくように左足の小指の骨をじわりじわりと削り取っていく。
「あ、あ、あああああ!」
「何や、まだそんな大声が出せるんか。こりゃ頼もしい」
村上は一度メスを放して、梨花の髪を掴み上げ、囁いた。
「なあ梨花、最高の新年になったな? おれの正月休みは四日までや。時間はまだまだたっぷ
りある。じっくり、楽しもうぜ」
村上の端正な顔は、愛する婚約者と湖畔で語らう青年のような清涼な優しい笑みを浮かべ
る。睫毛の長い目が放つ視線は夢見心地に、梨花の身体の隅々をゆっくりと、愛撫のように堪 能する。そして千切れかけた小指を放り出し、白い小さな手を取り、右手の薬指の第一関節を メスでゆっくりとひきはじめた。梨花は再び何百回目かの叫び声をあげる。
「そうや。歓べ、梨花。おまえは、おまえの大好きなママの死に際に、これと同じ感覚をその手
で味あわせてやったんや。気持ちいいやろう。どうや」
──これと。おなじ。くるしみを。あのおんなに。
梨花は一瞬、肉体の苦痛を忘れ、ほほえんだ。
そして再び、苦悶の悲鳴をあげはじめる。
大雅はリビングの明かりを点けずに、暗闇の中、ソファに惚けたように座って、携帯電話の
録音再生ボタンを押す動作を繰り返していた。
梨花の荒い息遣いとともに、きれぎれの言葉が流れる。
『──翠。愛してる。あいしてる。生きて。あんたは生きて……』
『──翠。愛してる。あいしてる。生きて。あんたは生きて……』
『──翠。愛してる。あいしてる。生きて。あんたは生きて……』
『──翠。愛してる。あいしてる。生きて。あんたは生きて……』
『──翠。愛してる。あいしてる。生きて。あんたは生きて……』
「あーー!」
大雅は携帯を床に放り出し、咆哮をあげ、大きな骨ばった手で髪を掻き毟った。吐き気が込
み上げ、トイレに走り、苦い胃液を吐いた。トイレットペーパーで顔をぬぐいながら、大雅は涙を 流していた。これが自分の取った行動の結果だとは、信じたくなかった。
携帯電話がまた鳴った。大雅は凍りつき、リビングへ戻り、震える指で携帯電話を拾い上げ
る。翠だった。
「──もしもし?」
「……大雅さん……教えてくれ。頼むから……おれは何でもするから……おれは死んでもええ
から……教えてくれ、一生のお願いや、頼む、梨花はどこや……」
泣き声が聞こえてきた。
大雅は何も言えずに唾を呑み、電話を切った。
──これが、おれの取った行動の、結果か。結果なんだ。腹を据えろ。しっかりしろ。大雅。し
っかりしろ。相手は翠だ。ほんの子供なんだ。精神のバランスを崩した、脆い子供なのだ。
大雅はもう一度だけ、再生ボタンを押した。
『──翠。愛してる。あいしてる。生きて。あんたは生きて……』
村上からかかってきた電話の中で、梨花の苦しそうな喘ぎが聞こえてきたとき、思わず咄嗟
に録音したメッセージだった。梨花の最期の、翠への命をかけた愛の言葉。
これをおれはどうしようというのか。翠に聞かせるというのか。そんなことをしてどうする。下手
をするとあいつは狂って廃人になってしまう。
大雅は唇を噛み、携帯を操作して梨花の声を消去した。
暗闇の中、大雅は力なくソファにもたれかかる。
村上が大雅に接触してきたのは、ほんの半月ほど前のことだった。大雅が驚いたことに、村
上は大雅と同じ、医者だったのだ。
村上は大雅に言った。
──わたしの虎の子を返してもらえませんか。お金は払いますから。あれは、わたしの今のタ
ーゲットなんです。あの毛利梨花は。彼女の臓器は五千万にはなるんです。条件が完璧だ。健 常者カードを持ち、若く、健康で、血縁の係累がない。唯一の血縁者の母親とは仲が険悪。し かもあの娘は中国籍だ。日本人の住民基本台帳に記載されていないとはますます都合がい い。わたしは、二年近く時間をかけて、毛利梨花と瑠華に近づいた。梨花を妊娠させることで 気持ちをなびかせようと思ったが駄目だった。不感症なんですよあの娘は。……それはともか く、彼女を譲ってください。一千万で如何ですか。本当は一人で出歩く彼女をさらうことも、出来 ないでもなかったんですけどね。お宅は同業者さんですし、わたしは顔を見られていますから、 面が割れないとも限りませんから。ですから、こうやって正面からあなたにお願いしているんで す。
最初、大雅はその申し出をきっぱりと断った。
ドナー不足の世の中だった。健常者は国民のわずか三パーセント。健常者の卵子の提供を
希望する障害者はあとを絶たず、臓器や血液もまた貴重な存在なのだった。
裏名簿業界では健常者カード所持者の名簿があたかも電話帳のごとく頻繁に出回り、それ
を利用して健常者を拉致し売り飛ばす犯罪があとを絶たない。医師の中にも、売り飛ばされて きた健常者を解体し、臓器移植で儲ける者は多かった。大雅自身、翠の心臓移植で借りた金 を返すための資金が必要だったので、健常者の胎児を堕胎するときは、必ず大病院に連絡を 入れ、親に無断で高値で売り飛ばしていた。
村上はといえば、もっとも性質の悪い医者で、病院で医師として働くことはせずに、健常者狩
りのみを専門に商売をする道を選んでいた。健常者の名簿を手に入れた上で興信所を使って 『条件の良い』……つまり、健康で血縁の係累のない孤独な健常者を選び、自らの手で狩り、 売り飛ばすという商売をしているのだった。一人を売れば数千万なので、リスクは大きいが地 道に働くよりは余程儲かる商売だった。
大雅は断ったものの、心が揺れた。翠の庇護欲を無意識にかきたてるらしい梨花に、大雅
は嫉妬を覚えてはいたが、元気な人間をみすみす犯罪者の手に渡し、殺しに加担する行為は 彼の良心に反した。
しかし、日に日に翠は梨花に惹かれていった。憎悪を胸に秘めた若い二人は出逢ってすぐに
放火事件を起こした。あのとき梨花がいなければ、翠は放火を実行に移しはしなかっただろ う。そして二人はさらに梨花の母親を惨殺した。
いや。そんなことは、口実だ。何よりも、二人の仲の睦まじさ、おせち料理を作る二人のあの
幸せそうな笑い声──おれはあの声に崩れ落ちたのだ。
あの笑い声が、大雅の心を決定的に動かした。結局、おれは嫉妬に負けたのだ。大雅は苦
く笑う。嫉妬に負けて、大晦日に村上と契約を結んだ。梨花に持たせた携帯のGPS衛星情報 を村上に転送することにより、彼女の動きを逐一村上に把握させ、梨花を傍目にも自然に攫う ことが出来るタイミングを図らせてやったのだった。結果的に奴は最高のタイミングを選んだ。 親を殺した娘が失踪して、何の不自然があるだろう。梨花の指紋がべったりとついたナイフや 出刃包丁が現場には散乱している。
しかし──大雅は思う──おれのしたことは、結果的には間違っていたのだ。後悔しても、も
う遅いが。
大雅は完全に翠の信頼を失った。愛情も失った。愛情、といっても、翠は真性半陰陽の身体
を持ってはいるものの、女しか愛さない性向の持ち主なので、もともと翠が彼に抱いていた愛 情は少年が父親か兄に向けるような親しみにすぎなかったのだが。
そして、村上が麻酔なしで人間を解剖するような変質者だとは知らず、おれは梨花を売り渡
してしまった。
梨花が殺されることは承知していた。だが、梨花を惨殺しようという気持ちは大雅にはまった
くなかったのだ。大雅は残酷すぎることは何であれ苦手だった。
結果、おれは翠の顔を二度とまともに見ることは出来ないだろう。翠は梨花を失ったことによ
り、今まで何とかバランスを保って正気の領域を歩み続けていた足を踏み外し、狂気の淵へと 落ちていくだろう。たとえ翠がおれのもとへ戻ってきても、おれと翠の間に開いた溝はもう二度 ともとに戻ることはないだろう。傍にいても、翠の魂はかぎりなく遠いところにあるだろう。
どうせ同じ別離であれば──大雅は苦く思う──若い二人、翠と梨花を守り、幸せに旅立た
せてやって、距離を置いて見守り、良い友人として彼らが手助けを必要としているときには手を 差し伸べてやることも出来たのに。その方が、よほどおれにとっても幸せだったのに。
おれは道を間違えた。大雅は苦く思った。おれは道を間違えた。そして、後戻りはもう出来な
い。
梨花はあと数時間、ひょっとすれば数十分で死ぬ。既に死んでいるかもしれない──いっ
そ、その方が彼女にとっては苦痛の時間が少しでも短くなって幸運だろう。いずれにしても、も はや彼女の身体は切り刻まれ、今助けに行っても死んだ方がましだと本人が苦しむような姿に 変わり果てているだろう。
取り返しのつかない大失策だ。不惑も近いこの年齢になって、おれは心の迷路を迷いっぱな
しだ。出来損ないの男だ。おれが積み重ねてきた三十六年間の時間は、いったい何だったの だ。長い時間をかけて出来上がったのは、こんなにも弱く情けない人間の屑がひとり。何という 惨めさだ。
大雅は立ち上がり、窓に近づき、外を見る。雪は降り続け、数センチメートル、積もってい
た。
ネオンに照らされて、雪山がかすかにぼんやりと浮き上がっているのが見える。華麗に萌え
立つ紅葉の秋山に唐突に降りかかった雪。鮮烈な赤と鮮烈な白、分娩台に乗った女のM字に 開いた白い太腿のあいだから流れ広がる鮮血。鮮烈な赤と鮮烈な白、季節感覚を失った狂気 の光景を晒す雪山。梨花の腿、翠の腿に似て。蒼いほどにどこまでも白い雪が光る血のような 雪山。
おれは二度と雪の山を登ることはないだろう。
長い時間、大雅は切ない想いでぼんやりと雪山を見つめていた。
風が強くなってきていた。雪が部屋の中に舞い飛んでくる。立ち尽くす彼の肌に落ちた粉雪
は、もろくじわりと溶けて広がり、彼の皮膚を濡らす。
大雅は重い息を吐いて窓を閉め、雪山と訣別する心持でカーテンを閉めた。雪解け水に気
持ち悪く濡れた顔を手の甲で拭う。
そのとき、踏み出した大雅の裸足の足に、床に落ちた冷たい粉雪が当たった。
大雅は驚いて、足を上げた。
肌の上では脆く一瞬で溶けてしまった雪が、床の上ではこんなにもしぶとく積もっているの
か。
山にも雪は積もる。そうだ、人の腿の上に雪は積もるだろうか。こんなはかない粉雪ならば積
もりはしないだろう。山と人間の太腿とは違うのだ。同じマグマの熱を湛えていても、山には雪 を溶かす力はなく、人間の肌は山よりも遥かに小さなその身体で雪を溶かす熱を持つ。細胞 の隅々まで血が通い、繊細な神経が通っているからだ。
雪の冷たい感触に刺激を受けて、脳から靄が晴れていくようだった。
そうか。おれは取り戻しのつかないことをしてしまったが、それは誤った道を引き返せないと
いうこととイコールではない。梨花の腿は雪山とはまったく性質が違うのだ。彼女の身体には 血が通い、彼女は人を押しのけ殺してでも生きたい、勝ちたいという強い欲望に燃え、おれが こうしてぼんやりしている今も尚、苦痛と戦っているはずだ。
耳がなくなったのが何だ。
卵巣がなくなったのが何だ。
指の数本がなくなったのが何だ。
彼女は生きたいと願っているはずだ。
彼女は絶望の中を生き抜いてきたのだ。少々の身体の欠陥に負けるような娘ではない。そう
だ。分かっていたことではないか。だからこそ翠は梨花に惹かれ、そしてその梨花と似た翠を おれは何年も愛し続けてきたではないか。
身体の中、熱い血が騒ぎ出すのを感じた。彼は部屋の電気を点し、慌ただしくモニタを検索
して村上の住所をプリントアウトし、書斎にかけこみ、隠してあった翠のブローニングに弾を装 填し、上着のポケットに入れて、外へ飛び出した。車に飛び乗り、慌ただしくギアを入れ、アクセ ルを踏んだ。
頑張れ。頑張れ梨花、もう少しだけ持ってくれ、梨花、生きていてくれ、頼むから。おれは命に
代えても、翠のために、おまえを愛する翠のもとへおまえを帰してやるから。おれは犯罪者に なることを決めたぞ、梨花、村上を撃ち殺してでもおまえを助けてやる、だから、頑張れ梨花。
車の中は冷え切っていたが、大雅の心臓は緊張に高鳴り、脳の中では血管が破裂しそうな
ほどにがんがんと血液がうなり、轟き、身体中が焦燥に熱く火照っていた。
毛利瑠華の家の、壁から床まで血でどろどろに汚れた風呂場には、尖った小さな耳がひと
つ、血にまみれて落ちていた。
タクシーを降りて部屋にかけつけた翠は、こわばる指でそれを拾い上げた。
風呂の蓋を開け、水を吸ってぱんぱんに膨れ上がった瑠華の死体の髪を掴み上げ、残った
方の耳の骨格を確かめる。まるい骨格、大きな福耳だった。髪を翠の手に残し、瑠華は再び 浴槽に沈んだ。ふやけた頭皮は瑠華の体重を支える力を失い、あっさりと頭蓋から剥がれてし まったのだ。翠の掌に残った瑠華の髪は、持ち主の無念を示すようにぐっしょりと赤い液体をし たたらせて手に絡みついたが、翠は気にもとめることはなく、茫然としたまま瑠華の髪の束を 握り締めた。
確かめるまでもなかった。
あのとき、瑠華の耳を、梨花は村上に食べさせたではないか。
答えはひとつ──それは梨花の耳だった。村上が切り落として残していったのだ。何のため
に。そうだ、あのとき梨花は村上の腿を刺したのだった。それに村上は瑠華の愛人だった。復 讐のために梨花の耳を切り落としたのか──? そうだ、これは復讐だ。そして梨花を連れ去 って、あいつはどうするつもりなんだ。
翠は半狂乱になった。
大雅に電話をかける。返答はなく、冷たく切られてしまった。
どうする。どうする。梨花。ああ。どうしておまえばっかりこんなに痛くて惨い目にあわないとい
けないんだ。ああ。おれが変わってやれたら。梨花。どうしている。梨花。
村上の居所を調べる必要があった。翠は古い形のモニタに飛びつき、電源を入れ、中身を
調べ始める。絶望の中、狂おしい一縷の希望を抱いて。
翠は自分を叱咤する。梨花を守ると誓ったばかりじゃないか。そしてまず自分がしっかりと立
ち直ることが先決だと考えたばかりじゃないか。動揺するな。翠。泣いている場合じゃない。自 分の力で何とかするんだ。しっかりしろ。翠。
モニタの画面が涙に霞んで見えなくなる。翠は激しく袖で涙を拭う。ふと、端末を叩く手が止ま
った。おれは何をしているんだ。順序が違う。家捜しが先だ。そうだ。村上はここに住むか通っ たかしていたはずだ。
翠の顔が引き締まった。箪笥を開き、男物の衣服を探す。
やがて翠は村上の姓の名刺を見つけた。連絡先の番号に自分の携帯電話からモニタ機能
非表示で電話をかける。八回目のコールで相手は出た。
「──もしもし」
翠は無言で電話を切った。確かに聞き覚えのある、微かに鼻にかかったあの村上の声だっ
た。翠は台所へ行き包丁を探す。布巾でしっかりくるみ、輪ゴムでとめてポケットに入れる。モ ニタに向かい、タクシー会社に連絡を入れる。
数分でタクシーは来た。翠はタクシーに飛び乗り、村上の名刺を運転手に見せた。
期待と不安で胸が高まる。村上を捕まえた。梨花は必ず奴の傍にいるはずだ。梨花。もうす
ぐ行くぞ。無事でいてくれ。梨花。
翠は必死で祈る。生まれて初めて、自分ではない人間のために真剣に純粋に祈る。
「──!」
梨花の身体が大きく跳ね上がった。彼女は目を見開き、口をぱくぱくとさせて声にならない喘
ぎを漏らす。目からショックによる生理的な涙が零れ落ちる。
梨花はベッドの上に載せられて、電極を取り付けられていた。失神する都度、アルコールで
は目を覚まさなくなった梨花に、電気ショックを与えては、村上は高揚する性感を覚える。
梨花の下腹部は大きく切り開かれ、その傷口を細かく縫われていた。とまらない血が、傷口
から溢れていた。左腕は肘から先を糸のこぎりで切断されて、ぐるぐると包帯を巻かれていた。 残った手足の指もすべて時間をかけて切り落とされていた。失血するのだが、その都度傷口 はざくざくと縫い合わされて止血され、さらにときおり輸血をされるため、梨花は呼吸を続けて いる。
村上は梨花の足を大きく開いた。梨花が呻く。村上は梨花の中にゆっくりと入り、突き上げ
る。激痛の興奮で固くとがった小さな乳首にくちづけ、残った片方の耳に囁きかける。
「どんな気分だ。くるしいか? 気持ちいいか? え? おまえがこんなに締まったことは今まで
で初めてやぞ。梨花。失血すると気分がいいやろう。なあ。おれはおまえを殺さへんぞ。安心し ろ。まだまだニューイヤー・パーティーは続く……」
「──! ──! ──!」
村上が梨花を突き上げる度に、梨花は呻く。
「気持ちいいか。どうや。なぁ梨花。こうやってると、おまえと瑠華とおれと三人で過ごしたことを
思い出すなぁ。知ってるか梨花。瑠華も、親に虐待された子供やったんや。あいつも生き延び た、まぁ不細工な姿を晒して何が楽しくて生きていたのかは知らんけどや。それでもあいつは 頑張って生きとったんや。おまえに似てた。なぁおい聞いとるか。おれたち三人はそっくりやっ たんや。おまえだけが被害者やない。それがおまえには分からんかったやな。聞こえるか。お まえだけが被害者やないんや。なぁ梨花。聞けやぼけ! おれはおまえみたいな中途半端な 被害者面した若造を見ると無性にむかっ腹が立つんや! 返事せんかおら!」
村上は不意に逆上し、梨花の頬を拳骨で殴った。
梨花は目を開くことなく、眉間に皺を寄せ、苦しげにのけぞり、低い呻き声をあげ続ける。や
がてその声は再びかすれ、低く細くなっていく。
村上は身体を放し、電気ショックを与える装置のスイッチを入れる。梨花の身体が大きく跳ね
上がり、目を見開き、口は大きくあけられて、閉じた。
梨花は眼を虚ろに開いたまま、ぴくりとも動かなくなった。
村上を挟んで大きく開かれていた梨花の蒼白い脚、粉雪に覆われた山のような足は、力なく
崩れて、捨てられたマネキン人形のように横倒しになっている。
「何や。おい、もうダウンか。口ほどにもねえ。ち。この根性なしが。手間をかけやがって」
村上は梨花に蘇生治療を施そうと、慌ただしく器具の準備を始める。
梨花は不思議に穏やかな表情で横たわっていた。もともと唇の端が少しあがった顔のつくり
なので、その顔は優しく微笑んでいるようにさえ見える。
何の表情も浮かべない半開きの瞳から、涙がひとすじ、陶器のような頬に、こぼれた。
(おわり) (2002.12.8) |