小説(短編4) 毒虫慕情


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毒虫慕情

                                      彩木 映  


「悟。お父ちゃんも、見てみ。山椒にアゲハの幼虫がついてるで」
 夏の日曜の晩だった。
 ベランダから、暁美の煙草枯れしたハスキーな声が響いた。
 松井剛史(まつい つよし)と息子の悟は、投手戦で点の入らない退屈な野球
中継を放り出し、ベランダを覗きに行った。
 暁美は煙草を銀の灰皿でもみ消し、山椒の葉を広げて見せた。
「わ。何コレ。黒いやん。アゲハの幼虫なら緑とちゃうん。お母ん、これ蛾やで
蛾。そのライターで焼いちまえや」
 悟の言う通り、山椒の葉の間から見えるのは何やらもしゃもしゃした黒い、厭
らしげな醜い虫だった。
 鼻腔に暁美の吸う強い煙草の香。目に映るのは黒い毛虫。
 胸が悪くなる、と剛史は思った。
「アゲハの幼虫って確か、何回か脱皮するのよ。そのうち緑色になるよ。で、さ
なぎになって、アゲハになったら空に飛んでいくよ」
 暁美は新しいマルボロに火をつけた。この家では女房が蛍族なのだ。
「この虫、ホンマに毒はないんか」
「ないでしょ。何。お父ちゃん、こわいの」
「何ほざいとんねん。刺されたら困るやろ」
「何イライラしとるのん。職場でイヤなことでもあった?」
 ふうっ、と暁美は目を細めて煙を吐く。
 暁美のさり気ない仕草は、計算され尽くしたさり気なさだ。
 仕事に揉まれ、世間に揉まれた結果彼女なりに身に着けたその仕草の鎧を、
暁美は家に帰っても外さないでいる。それは彼女自身無意識なのかもしれな
い。それとも夫の剛史に100パーセント心を委ねていない所以なのかもしれな
い。剛史にしてみれば心を委ねられたところで受け止める度量もないのだった
が、それでも日常生活のいろいろな場面で感じる、妻の心の鎧は快いものとは
いえなかった。
 マルボロの煙に軽くむせながら、剛史は答えた。
「──仕事たぁ苦痛に耐えるもんさ」
「そ、そ。今のご時世、リストラされないだけでもありがたく思わなくちゃ」
「お前は大丈夫なのか、リストラ」
「明日をも知れぬ身よ。頑張るしかないよ」
「悟には大学行ってもらわな、困るな……」
 当の悟はアゲハの幼虫には興味を失った様子で、さっさとテレビの前に戻り
ギターを抱えて何やらつまびいている。
「悟、また家庭教師すっぽかしてね。今度やったらガツンと言ってやらなきゃ。あ
ーあ、まったくうちのへっぽこ反抗息子は手に負えまへんわ」
「ホンマか。あかんな、受験やのに。学校の先生には何て言われてる」
「今のままじゃ国立や私立の進学校は無理だって。公立なら何とか大丈夫でし
ょうって。まったく、通わせるお金は準備してあげてるんやけどね。本人がやる
気を出してくれないことには、さ」
「本人の自覚か……。親の姿を見ても、実感出来んのやろな、社会というもの
の厳しさは」
「ホラお父さん、やっぱ何かイヤなこと会社であったんじゃないの?」
「……」
「話したくなきゃ、いいけど、別に。どうせあたしには何も出来へんし……」
 剛史は再度、ごわごわとした醜い虫に視線をやった。
 アゲハだと言われても、剛史の目にはその虫は毒を孕んでいるように見え
た。しかし妻は飼うことに乗り気なのだ。反対する理由もない。それにしても毒
虫に見える。
 そうか、お前も俺たちの仲間か。
 剛史は思った。
「ま、背中で哀愁を語るのも男の色気、よねー」
 毒虫め。せいぜい辛い山椒を好き放題食い散らすがいいさ。短い命を謳歌し
ろ。

 十七時。終業三十分前。上司の境が、剛史に命令を出すのが好きな時間で
ある。
「松井君。いったい君は何を聞いていたのかね。私は確か、各企業の上半期人
員整理の業績の統計とその分析を入れろと言ったはずだが」
「そこに入れましたが?」
「こんなものじゃないよ。私が指示を出したのは視覚に訴える数値だ。見る人の
目はこんなものでは誤魔化されないぞ。各界のお偉方をなめているのか君は。
明日までに作り直せ」
「それでは、具体的にどういった形で統計を取り数値を出せば良いのでしょう」
「松井君。君はこの仕事を何年やってるんだ。確かもう、十四年ここにいるんじ
ゃないのか。自分の頭で考えたまえ」
 そうだ。俺のキャリアは十四年だぞ。半年前にここへ来たお前に何が分かる。
 喉元まで上がってきた台詞を剛史はぐっと呑み込んだ。上司の境は東大卒、
四十代半ば、甘いマスクで毒舌を吐くことを自分の個性だと思い込み、部下に
は散々毒を振りまき、一方で上司にはスマートなキレの良さが受けている。
 境は親会社からの出向者である。
 剛史の職場は「企業都市未来推進委員会」という、第三セクターだった。官民
の役職者相手に、会議の運営や広報物を配布する業務を行っている。
 高卒の剛史が就職できたのは、縁故採用によるものだった。
 職場には大企業や役所からの出向者が多い。
 実務をするのはプロパー(生え抜き)の剛史たちで、最初から役付きで入ってく
る出向者は肘掛つきの椅子にふんぞり返り、退屈そうに煙草をふかし、大声で
電話をし、気まぐれな命令を出すだけだ。
 出向者たちは定時の十七時半にはぞろぞろと行進するように帰っていく。
 冷暖房の切れた職場で、昼間、出向者に振り回されたプロパーたちの仕事の
本番が始まるのだ。剛史も黙々とパソコンに向かい、広報用の書類を作り直し
た。
 夜十時、剛史は帰宅の途についた。
 事務所は、大阪市北区中ノ島の中ノ島八鹿ビルの十八階にある。
 窓はあるが一年中閉ざされているオフィスは、ワンフロア。人口密度が高く、
空気が澱み、何ともいえぬ息のつまる空間だ。剛史はこの中で、十四年間、少
しずつ諦めや悪意や憎悪を胸の内に育ててきたのだ。
 通勤の往路は汗ばむのが厭でバスを使うが、帰途はバスには乗らない。
 剛史は歩いて梅田の駅まで帰ることにしていた。約三十分の散歩である。た
まに、同僚が歩いているのを見かけることがある。そんな時はさりげなく自販機
で煙草でも買ってやり過ごし、相手の姿が見えなくなってから再び歩き始める。
通勤時の会話を避ける、という暗黙のルールは全社的によく守られていて、剛
史の静寂を破る同僚はほぼいない。異動でやって来たばかりの出向者や新規
採用の職員程度のものだ。その者たちにしても、暫くして様子が分かってくる
と、お互いの非干渉を尊重することを覚えるようになる。
 よく使うルートは二つあった。
 土佐堀川沿いに歩く道、堂島川沿いに歩く道。どちらも夏場はドブのような腐
った水の匂いが鼻をつくが、それでも夜、仕事や人間関係の瑣末で煩雑ないざ
こざから解放されて川のほとりを歩くというのは悪い気分ではない。
 道は煉瓦で舗装され、カンツバキやケヤキ、ユキヤナギなどの植物が市の施
策によって美しく植え込まれている。
 そこはまた、ホームレスの憩いの場所でもある。
 クルメツツジ、ダンボールハウス、サツキツツジ、ダンボールハウス、ユキヤナ
ギ、ダンボールハウス。可笑しくなるが不快には感じない。
 土佐堀川沿いを歩くと、対岸には雑居ビルの裏側が見える。
 築何年になるのだろう、四十年位経つのだろうか、と思いながらうらぶれたビ
ルの持つ歴史に思いを馳せるのも嫌いではなかった。
 土佐堀川とは対照的に、堂島川沿いを歩くと、大企業の近代的なデザインの
ビルが連なって豪勢な光景を演出している。対岸にはNTTにサントリー、東洋
紡にフジテック、こちら側には住友不動産、毎日新聞ビル、TORAY。国道二号
線の婉曲した高架と合間って、夜に見ると何やら近未来的な人工的美観さえ醸
し出しているのだ。
 朝日新聞ビルまで来たら渡辺橋を渡る。すぐにマルビルが見え、大阪駅周辺
の喧騒が瞬く間に近づいてくる。
 歩きながら物思いに浸ることによって、長時間かぶっていた事務職員の鉄面
皮から、徐々に自分を取り返していくのが剛史の常だった。
 ──妻の暁美とは、剛史が新入社員だった十八歳の時、暁美が営業で職場
に来た縁で知り合った。
 子供が出来たので即結婚した。暁美は保険の外交員で、剛史より七歳年上。
ハスキーな声、巧みな話術、常に取り乱すことのない落ち着いた態度、色白の
細い身体、総てが当時の剛史には好ましかったのだ。顔だけはもう少し目が大
きい方が好みだ、といつも思っていたが、長年一緒にいると慣れるだろうとも思
っていた。
 けれど、どうしても彼女の細い目から放たれる厳しい眼光には未だに馴染む
ことが出来ずにいる。決して彼女のことが嫌いなわけではない、だが女を選ぶ
とき、目というものは意外に大切なもののようだ、という持論を密かに抱き続け
る剛史だった。しかしながら剛史の周りの人間は、友人にしろ同僚にしろ息子
にしろ、暁美がキツネ顔できつい目をしていることは知っている。それ故、女の
目についての持論は誰にも明かさずに俺は墓まで持っていくのだろう、と剛史
は時々自嘲的に考える。
 とは言えども結婚後十四年経った今も、妻の身体は美しく、病的なほどに細
く、白く、血管がいたるところに透けて見えた。地味すぎず派手すぎもしない仕
立ての良いスーツでその白い身体を包み、背筋を伸ばし、五センチのヒールを
カツン、カツンと鳴らしながらゆったりと優雅な姿勢で歩くのが彼女の癖だ。ゆっ
たりと歩いているように見えて、かなりの早足なのである。
 一人息子の悟は一七〇センチを越え、剛史とほとんど背丈が同じになってし
まった。剛史に似て悟は音楽が好きで、小遣いをためて五万つぎこんで買った
モーリスのギターは彼の一番の宝物だ。
 既成の歌手の歌や、怪しげなオリジナルの歌らしきものを、悟は阪急甲東園
駅の駅前で友人とつるみ、いつも歌っている。
 甲東園は剛史の最寄り駅になるので、彼の歌を必然的に聴かされることにな
るのだが、ホームレスには何とも思わない剛史が、息子の悟の歌に苛々する
のだ。それは十五年前の剛史の姿を思い起こさせた。同類嫌悪というやつだろ
うか。──
 そんなことをつらつらと考えながら歩いていると、やわらかいものに躓いて転
んだ。ポケットに手を入れて歩いていたため、容赦なく、アスファルトに顔をぶつ
ける羽目になった。
「……いってえな……」
 見ると、どうも泥酔して意識を失ったらしいOLが倒れている。
 剛史はポケットに入れていた自分の携帯電話が転がっているのに気がつい
た。火花の散るような鼻柱の痛みが治まってきて、起き上がり、自分がその腹
部を思い切り踏んだらしい女の姿を観察する。女は眠っている。気絶しているの
か。どうするか。もし怪我をさせていたら、まずい。だが、このままここに転がし
ておくのもまずいだろう。
 剛史はとりあえず自分の携帯電話を拾った。そして、女のハンドバックの中身
が散らばっていることに気がついた。家に電話してやるか。手帳でもあれば、と
思ってバックを手探りしてみると、手にあたったのは黒革の財布だった。
 中身を確かめてみる。六万。
 ふいに剛史は周りを見回した。
 誰もいない。ホームレスはダンボールハウスの中で寝ているようだ。こんない
いカモがいたのに、呑気なものだ。五万を抜き取った。一万残してやったのは、
情けだった。呪うなら、こんな不景気な街中で無防備に泥酔した己の馬鹿さ加
減を呪え。悪く思うな。
 剛史は五万をポケットにねじこみ、急いでその場を去った。
 剛史の背中を、鋭い光がぱあっと照らした。一瞬、カメラのフラッシュが光った
のかと思った。だが、それは車のヘッドライトだった。小悪党め。剛史は自分に
毒づいた。どうせ俺は虫けらだ。毒虫だ。
 帰りの電車の中で剛史は、ぼんやりとズボンのポケットに入っている五万のこ
とを考えていた。
 悟がダビングしてくれたMDをウォークマンで聞きながら、周囲の騒音が酷す
ぎて音楽が耳に入ってこない。周りには酔客が多く、剛史を苛立たせた。ウォー
クマンのイヤフォンを破ってまで聞こえてくるような大声で説教をたれる親父、う
んざりした笑顔を作り、適当な相槌を打つ若手社員たち。コンパ帰りの大学生ら
しい男女の嬌声。何もかもに、苛立った。
 この五万。何に使ってくれようか。これは天の恵みだ。惨めな俺にふって湧い
た幸運だ。何でもいい、俺はこの五万を心のままに使ってやるぞ。降りた駅の
自販機で500ml缶のビールを買った。一気に飲み干した。実に美味かった。
 甲東園駅は、震災の後、駅前が美しく再開発されたので、子供たちの格好の
溜まり場になっている。夜通しスケボーをしている集団もいる。
 そして今日も悟の歌声は響いていた。いい加減にしてくれ。近所迷惑を考え
ろ。十二時近いんだぞ。あの馬鹿息子が。
 剛史はもう一本缶ビールを買い、今度は駅の階段に座り、ちびちびと飲んだ。
ゆらゆらと缶を揺らし、液体がちゃぽちゃぽとゆらめく感触を感じながら、ヤンキ
ーどもを仔細に観察する。
 スケボーをしている少年の一人が、ジュースでも買おうというのか、コンビニに
向かった。
 剛史は立ち上がり、その後をつけた。相手の体躯を背中から分析する。百八
十センチ近い逞しい身体、横幅もがっしりしている。文科系の悟よりは断然強い
だろう。剛史は思い切って声をかけた。
「な、ぼく。金、稼がへんか」
「え」
「スケボーはええな。けどな、歌う奴らには俺はむかつくんや」
「ああ、あのいつも歌ってる中坊か」
「そや。うるそうて、かなへん。あの、帽子かぶってギター弾いてるヤツな。俺は
あいつの声が嫌いなんや」
「そうか? 結構上手いと思うけどな」
「中途半端に上手いんがいちばんむかつくんや。そう思わへんか。なあ。どう
や、一万やる。あいつのギターをぶち壊してくれ。怪我はさせるなよ、警察沙汰
になるから」
「一万?」
「成功したら、このコンビニへ来い。待ってるから。成功報酬にもう一万やる。ど
うや」
 剛史は、胡散臭げな顔をして黙り込む少年の手に、万札を一枚握らせた。
 生の金の感触は、少年の心を動かしたようだった。
「おし。やったる。そやけどおっさん、あんた何者や」
「ただの善良な住民。で、ただの酔っ払いや」
「さよか。まあ、ええわ。待ってろ。あんなガキ、簡単にいてもうたる」
「おい、乱暴は困るんや。怪我はさせるな。ギターをぶち壊すだけでええんや」
「オーライ」
 剛史は物陰に隠れた。
 そして、スケボー軍団と悟たちが揉めているのを観察した。ギターは簡単に取
り上げられ、スケボー小僧は悟の宝物のモーリスを数十回アスファルトにたたき
付けた。モーリスの華奢でなめらかな優雅な曲線は失われ、見る影もないぼこ
ぼこの残骸になった。
 悟はスケボー小僧に殴りかかったが、スケボー小僧はすばやく逃げた。剛史
はそれを見届けて、そっとコンビニへ戻った。
「おっさん、ギターやで、ほら」
「ああ。サンキュ。さすが、強いな。ギターはその辺に捨ててくれ」
 剛史は一万を握らせて、スケボー小僧を帰した。胸のうちの毒が猛り狂って歓
喜の叫びをあげ、喝采が止まらなかった。笑いがこみ上げてきたのは酒のせい
だっただろうか。分からなかったが、最高に良い気分だった。
 帰宅した時には、暁美はもう寝てしまっていた。浮かれた気分のままシャワー
を浴びて、飯を食う。そのうちに悟が帰ってきた。
「お帰り。遅すぎるぞ、お前、ええ加減にせえや」
「うるさいわ」
「それが親への口の利き方か」
「……」
 悟は黙って風呂に入った。
 剛史は胸の内で悟に話しかけた。
 弱虫が。
 ギターをなくして、さあどうする。アカペラで歌うのか。母親の財布から盗みで
もするのか。俺の財布はアタッシュケースの中。鍵をかけてある。どちらにしても
お前に小遣いはやらんぞ。
 剛史は思った。俺は自分の子を憎んでいるのだろうか。違う。そうじゃない。た
だ、うらやんではいるのかもしれない。気ままな子供時代を過ごしていることを。
 遠くない将来、あいつも俺と同じように社会の厳しさと虚無を知るだろう。悟の
憧れるネオン街の中には夢も希望もなく、ただ卑しさと虚しさと夢のかけらの残
骸だけが腐り果てて棲みついていることを思い知るだろう。昔の俺のように。
 そうは思っても、今の瞬間、幸せな顔をして好きなことをしている悟である。
 彼のしょぼくれた顔を見ることは、歪んだ快感を剛史にもたらした。
 風呂場から悟の歌声が聞こえてきた。
「何時やと思ってんねん! 静かにしろ!」
 剛史は風呂場のドアを開けて怒鳴った。
 歌声は止んだ。
 ふと、滅多に吸わない煙草をすいたくなり、ベランダに出た。
 あの幼虫がいると思うとぞっとしなかったが、怖いもの見たさで剛史は山椒の
葉を探した。幼虫はすぐに見つかった。黒い姿で、じっとしている。虫も眠るの
か。少し大きくなったような気がする。
 毒虫め。死ぬも生きるも、俺の気持ち次第だぞ。俺が今火をつければお前は
焼け死ぬ。それを知る知能もないお前。お前はうちの金で買った山椒で生きて
いるんだ。この野郎。毒虫め。



 松井悟は湯船につかりながら、スケボー野郎のことを考えていた。母譲りの
白い細い身体は自分で見ても頼りなく、日焼けしようとするのだがすぐに赤くな
ってまた白に戻る。悟は自分の細い体躯は、それなりに女にもてるので嫌いで
はなかったが、今日だけは自分のか細さを憎んだ。もっと逞しい身体を持って
いれば、モーリスをあのスケボーの高木野郎から守れたのに。
 いつもはお互いに縄張りを侵したことのない連中が、今日に限って襲い掛か
ってきた理由を思う。
 高木には「うぜえんだよ!」と言われたが、夜中に遊んでいるのはお互い様じ
ゃねえか。だが、自分の歌はうざいんだろうか。
 親父が怒るから、彼は小さな声でハミングする。おれは歌いたい。どうしても
歌いたい。駅前が駄目なら、どこで歌えばいい。そして、ギターだ。ああ、ギター
……。涙が湯船の中に落ちた。
 悟はスケボー高木の後をつけた。
 そして、高木が自分の父親から金をもらっているのを見てしまったのだ。
 不思議と怒りはなかった。
 散々、両親のつけた家庭教師や塾をすっぽかして音楽にかまけている自分
だ。親をなめていると、こういうこともあるのは、当然の報いかもしれない。ヤン
キーに頼むという、その心根が卑怯だ、とは思うけれど、もとを正せば裏切り続
けてきたのは自分の方だったのだ。ギターも両親の金で買ったものだ。
 そう、分かってはいるのだ。
 親父の気持ちひとつ洞察出来ずに、どうしていい歌など歌えるものか。
 悟にとって、森羅万象が歌だった。少なくとも自分ではそう思っていた。美しい
もの、醜いもの、卑しいもの、尊いもの、苦しいこと、楽しいこと、虚ろなもの、確
かなもの、愚かなもの、賢明なもの、怠惰なもの、必死なもの、何もかもすべて
を包み込んで、おれは歌声をこの世界に響かせたい。
 けれど、ただ切なくて、哀しい。
 自分の無力に、悟は涙を流し続けた。
 何の力も持たない自分が悔しい。早く大人になりたい。最初の給料で買うの
は、ギターだ。そして下宿。誰にも邪魔されずに、怒られずに、好きなだけ歌え
たら。ああ。歌いたい。
 今、歌いたいのだ。受験に合格してから、ではなくて、今、なのだ。今じゃない
とダメなんだ。この気持ちをごまかすことは、自分に嘘をつくことだ。嘘やごまか
しからは歌は生まれない。どうして親父には分からないのか。
 おれは塾をすっぽかし、家庭教師をすっぽかし、駅前で歌い続ける。反抗した
い訳ではない、誰に聞かせるためでもない。
 自分に嘘をつかないために。ただそれだけのことなのに。
 悟は静かに即興でハミングを続けた。
 ──雑踏にまぎれて アイツは空を見上げない 
       その瞳に映るのは疲れた自分の分身たち
            ただ汗と香水の匂いにうんざりして
                 アイツは今日もアスファルトを踏みしめる
           頭の上広がる青空を アイツは見上げることを知らない……
 題して「オヤジの歌」。そのまんまだ。いい出来じゃない。けど、もう少し捻って
譜面に起こしてみよう。
 いつの間にか悟の目の涙は消えていた。彼はざばりと洗面器で汗を流し落と
し、身体を拭いて、パジャマに着替え、自分の部屋に向かい、部屋に入るなり
五線譜を広げた。 


 家族の気持ちのすれ違いは果てしなく、とめどなく寄せては返す波だった。
 次の波は土曜にやってきた。
「お父ちゃん、悟、どこへ行ったか知らん?」
「え? 知らんけど。何……ああ、今日は家庭教師の日やな」
「そう。悟、さっきまでおってんけど、おらんのよ。まったくもう。あたし探してくる
から、お父ちゃん、先生にお茶出してくれる?」
 剛史に探しに行け、といわないところが、暁美の出来たところでもあり、何とも
気に食わないところでもある。
 家庭教師の翔子先生は二十一歳、色白の愛くるしいタヌキ顔で、若いころの
暁美よりも上品で目が大きく、剛史の好みなのだ。
 暁美は剛史の好みをよく知っている。そして、剛史が慢性的にストレスを抱え
込んでいるのも承知である。そうして、こうした欲求不満解消のきっかけをさりげ
なく作ってくれる。まるで暁美の仏の掌の中で踊らされているように、だ。
 俺は快楽までもが暁美の思うままなのか。剛史は反抗的に思う。快楽、という
言葉は正確ではないが。自分は若い娘をもてなす権利を得ただけだ。彼女と寝
ていいという許可が下りた訳では、勿論、ない。
 ふと、残り三万の、くすねた金のことが頭をよぎる。
 三万。
 いまどきの援助交際の相場はどんなものなんだろう。どちらにしても、この翔
子先生が援交に走るとは思わないが。
 剛史は紅茶にミルクと砂糖を添えて出した。
「すみませんね、いつも」
「いえ、私こそ申し訳なくて。悟くん、勉強は出来る人なんですけど……私の教
え方が、どうにもまずいみたいで」
「美人だから、照れてるんじゃないですか」
「え、そんな。ご冗談を」
「先生、エニアグラムってご存知です?」
「え?」
「性格占いです。やってあげますよ。女房が生命保険のセールスやってるもんで
ね。こういうネタはたくさんあるんです、ウチには」
 剛史は本棚に並んだ暁美のクリアファイルから、営業用の性格占い表を取り
出した。
 翔子先生は真面目に解いていた。剛史は数値を計算した。
「7のタイプですね。快楽主義。僕と同じ」
「そうなんですか? 快楽主義って何だか恥ずかしい……」
「詳しく知りたいです? 本をお見せしますよ」
「ええ、是非」
 話しているうちにいつの間にか、向かい合って座っていた剛史と翔子先生は、
斜め向かいの至近距離に座っていた。彼女のスカートから覗く白くてほのかに
桃色をおびた細い腿が剛史の目を射る。
 唾を飲み込むのを必死で堪えていた剛史は、突然の携帯の着信音に飛び上
がりそうになった。暁美だった。あいかわらずのドスのきいたガラガラ声で、暁
美は苛立っているような口ぶりだった。
「悟、おらんわ。先生に迷惑やから、帰ってもらって。月謝払ってね。駅まで送っ
てあげて」
 剛史は翔子先生に事情を説明した。
「すみません、やはり行方不明のようで。これ、今月の月謝です」
「え……私、ほとんど仕事していないのに。月謝はお断りします」
「いいんですよ、お時間を拘束しているのは実際のことですから。駅まで送りま
す。」
 強引に彼女の手に月謝袋を押し込み、剛史は翔子を車に乗せた。腿も腕も頬
もほのかに淡い淡いピンク色だった。
 何ともいえない若い肌のみずみずしさと甘い香りが剛史を襲う。
「……先生、彼氏いてはります?」
「え?」
「いや、ごめんなさい、つい。あんまりキレイな方だから。もてるでしょう」
「いませんよ。剛史さんの方が素敵です」
「え」
「……なんて」
 バックミラーに移る彼女の顔を窺ったら、視線がかっちりとあって剛史は吃驚
した。
 そこに、剛史は思いがけず、見慣れた暗い沈んだ色を見て、はっとした。
 翔子の瞳の中にあるのは、自分と暁美に共通する、毒の色だった。
「……あの、剛史さん。よろしかったら、少し話を聞いていただけませんか?」
 誘ってきたのは、彼女だった。


 二十一歳の身体は甘く、カリカリの三十九歳の暁美の身体とは格段の違いが
あった。そして、翔子は驚くほど感度が良かった。
 満ち足りた気持ちの中、柔らかな髪を撫でる。
「……悟君より、上手なんですね」
「え」
「ごめんなさい。あたし、エイズなんです」
 頭の中が真っ白になった。
 布団をはねのけた。
 そこには剛史の下で甘い喘ぎを漏らしていた柔らかな娘の姿はなく、ただひ
たすらに好戦的な厳しいまなざしが、剛史を冷たく見つめ返していた。
「……」
「きみは……」
「……冗談ですよ。安心してください」
 翔子は歯を見せ、声を立てて笑った。剛史はベッドにへたりこんだ。
「ごめんなさい。……あのね、何だか剛史さん、いつ死んでもいいや、みたいな
顔をされていたから、ちょっと刺激してみたくなって。私の悪いクセなんです、オ
トコの人を見るとからかいたくなるの」
「きみは、大人に向かって……」
「ふふ。エイズだと言われて、どう思った?」
「……」
 俺は、どう思ったのだろう? 
 エイズ。俺はショックを受けた。ならば、俺は死にたくなかったということか。自
分を毒虫と罵っていても、毒を巻き散らしながらでも、死にたくなかったというこ
とだろうか。
「悪い冗談やで」
「ふふ、ごめんなさい。シャワー使いますね」
 別れ際、剛史は残りの三万を気前よく彼女に渡した。
 スケボー坊主に二万、淫乱娘に三万。考えてみれば、酔っ払い女から横領し
た五万の使い道としては妥当なところだった。
「遅くなったな……」
 翔子を特急の止まる阪急西宮北口駅まで送り、Uターンしようとしたところで、
剛史は、悟を見つけて目を疑った。悟がギターを弾いて歌っていた。
「こら! 悟! お前!!」
 車を止めて、逃げようとする悟の片頬をひっぱたき、車に引きずりこむ。
「翔子先生、長いこと待っててんぞ! それに、これ、俺のギターやんけ! 人
のモン猫ババしくさって」
 猫ババを責める権利は、本当はOLから五万を猫ババした自分にはないことを
承知しての物言いだったが。
「……お父ん、何でこんなとこにおるん」
「先生を送ったんや」
「先生と寝た?」
「え?」
「先生、感度ええやろ? 俺も寝た……アイツ淫売やで、でも、可愛いけど。俺の
周りの大人って、みんなスレてる」
「……」
「ギター勝手に持ち出して悪かったよ」
 剛史は車を道脇に止め、悟の目を見つめた。
「悟。俺と母さんが何でお前に勉強しろって言うか、分からへんのか。お前に惨
めな思いをさせたくないからや。社会はお前が思っているよりずっとずっと厳し
いんだよ。スレたくなかったら、勉強しろよ」
「分かるよ。でも俺は歌いたいねん。……あのさ。俺のギターを壊したのは父ち
ゃんの仕業やろ?」
 剛史はぎくりとした。知っていたのか。
 悟は時々、不気味なほど鋭い。そして、嘘をついても、無駄なのだ。
 剛史は否定せず、ただ、呟いた。
「……歌で食っていけるほど人生は甘くないんや」
「俺程度の歌で食っていけるなんて思ってへん。歌はそんなもんじゃない。父ち
ゃんはそう思わへんのか? 俺にギター教えたの父ちゃんやろ。歌は稼ぐため
に歌うモンちゃうやろ? 何で忘れたんだよ」
「……でもお前は、勉強をさぼっとる」
「悪かったよ。勉強、します」
 その後は二人とも無言が続いた。夕闇の中、剛史は車を走らせた。


「お帰り。あら悟も。二人とも遅かったのね」
「ごめん」
「先生ね、電話かけたよ。来週から来なくていいって言っておいた。ク・ビ。ちょ
ん、よ」
「……」
 暁美のこういうところも、何ともいえず、鋭い。剛史と翔子の間に起こったこと
を知っているのか、知らないのか。悟と暁美は勘の鋭さがそっくりだ。
 剛史は何ともいえない気分で、悟が倉庫から持ち出してきたギターをつまびい
た。聞き慣れた音色にぞくりと背中に快感が走る。懐かしい感触と震えるほど
甘い陶酔が剛史を襲った。涎でもたらしかねないほどの、それは快楽だった。
 ──チューニングしないと、音が狂いまくりだ。
 冷静になるために、剛史は現世的なことがらに思いを移す。
「歌ってや。父ちゃん」
「何を」
「何でも」
 剛史はビートルズを歌った。カラオケやスナックではなく、ギターの弾き語りで
歌うのは何年ぶりだろう。いつの間にか、悟が一緒に歌っていた。微妙に音程
を変えて、コーラスをつけて。
「二人とも、見てごらん。虫が脱皮して緑色になってる。可愛いよ」
 ベランダから暁美の声がした。剛史と悟は覗きに行った。黒かった幼虫は、い
つのまにか脱皮をし、丸みをおびた愛嬌のある緑色の幼虫に変わっていた。も
う、毒虫には見えなかった。もりもりと山椒の葉をたいらげるその姿には、頼もし
ささえ感じられた。そうだ、食え。どんどん食って、立派な美しいアゲハ蝶にな
り、青空へはばたけ。
 でも、と剛史は思う。
 ああ、俺たちはみな、毒虫だ。脱皮出来ない毒虫だ。黒いままで、いつまでも
緑色になれず、もがいてもがいて、どうしようもない毒虫だ。
 けれどこの快楽は何だろう。忘れていた、この純粋な快楽を。どうして忘れて
いたのだろう。どうしてアオムシやら十四の息子やら下らない連中に物事を教え
られたり感動させられたりするのだろう。俺という奴は。
 今度は悟がギターを持った。
「音程、狂ってる」
「チューニングせんといかんな」
「でも、これ、ええギターやな」
「高校に合格したら、悟、お前にやる」
「ホンマに?……父ちゃん、サイモン&ガーファンクルのこの曲分かるか」
 悟が前奏をつまびいた。
「ああ、分かるさ」
 二人は歌った。いつの間にか、ベランダから灰皿を持って戻ってきた暁美も、
低い声でハミングしていた。
                                      (おわり)
                                        (2002・9・17 初稿)
                                                      (2002.10.6 改稿)






お読みいただいて、ありがとうございました。
「毒虫慕情」は「簡易創作グループ」の「うた」というお題で書いた作品です。
枚数制限があったので、それを補記したのが上の作品です。
30枚バージョンはこちらに置いてあります。ほとんど内容は同じです。
毒虫慕情
毒虫慕情